アリス イン ヒステリア(猫との蜜月。それを邪魔するは、同じ顔のアリスと思い出の友人)第13話
この世界に太陽は無い。
何の光か分からないものが辺りを微かに照らしているだけ。
常に薄暗く、生温い空気が体にまとわりつく。
でも、どうしてか不快ではない。むしろ心地良く感じる時さえある。
「本当に不思議な場所」
「今更どうしたんだい」
一帯を見渡せる崖の上。
遠くを見れば、城も見える。
その場所は、私が目を覚ました場所。
猫と初めて出会った場所でもある。
そんな所で二人横に並んで、下の景色を眺めていた。
別に一緒に来た訳ではない。
何気無くここへ来たら、いつの間にか猫もやってきた。
多分、私を追ってきたのだと思う。
「ねぇ」
「なんだい」
「どうしていつも私を助けてくれるの」
思い出すのは、先の双子との戦い。
自分の安全など一切気にせず、私を案じて身を挺して、庇って、助けてくれた。
いや……思い返せば、彼にはいつも助けられていた。
言葉はともかく、出会ったその時から、いつも私を導いてくれていた。
「どうしてだって? 前にも言わなかったかい」
「そうだけど……」
「猫は導き役だからさ」
「それだけ?」
ずっと助けられてきた。たまに乱暴だったり人をバカにするような態度も取るけれど、一貫して私の味方でいてくれる。
気付くと、この世界で一番信頼できる存在。
隣に居てくれれば安心出来る。落ち着く。
ドキドキするのではなく、心安らぐのだ。
私はこの人が嫌いじゃない。
むしろ……好きだと思った。
ムカつく事もあるし、文句を言いたくなる時も多いけれど。
「おかしなことを聞きたがるね。おちびちゃんが大切だからさ」
嬉しくなる。
戻らなければいけないのに、この人の隣に居たいと、つい思ってしまう。
いつか分かるよ――そう言った、双子の女の言葉がふと頭に浮かんだ。
「うん……ありがとう」
居心地の良い世界。隣に居て欲しい人。
戻らなければいけないと分かっていても、日に日にその気持ちが揺らいでいく。
「ここって案外……良い所、なのかな」
「そうだよ。悪くないだろう」
「……まぁ」
「ここに居れば良いさ」
でも、その言葉にはまだ頷ない。
どうしても現実の存在が私の頭を過る。向こうに居る祖母や友達。
今はまだ、このままここに留まるとは言い切れない。
代わりに、せめてこの瞬間はと、猫に軽くもたれてみる。
我ながら子供みたいだと思ったが、意外にも避けられず、受け止めてくれた。
猫の肩に私の頭が乗ると、そのまま無言で頭を撫でられる。
その撫で方は、本当に気持ちが良くて……このまま眠ってしまいたいと思う程だった。
いけないと分かっていても、この温もりに溺れてしまいそう。
目を閉じる。
何だがこの温かさと匂いを懐かしく感じた。
本当に眠ってしまいそうで、少しうとうとしてきた。
「――おやおや」
突然、周りの木々がガサガサと大きな音を立て始める。
そして世界が、ガタンッと大きく揺れた。
地震かと思ったが、その揺れは一度で収まった。
「……なに?」
猫に乗せていた頭を上げて、そのまま辺りを見渡す。
崖から見下ろす風景は特に変わりっていないが、空を見上げると明らかに暗くなった。
風は無いはずなのにと、未だにカサカサと草が擦れる音がする。
嫌な雰囲気だった。
「どうやらお怒りのようだ」
「誰が?」
「ほら。あそこに住んでいる小さな赤の女王様さ」
猫の指差す先には、高くそびえ立つ赤い城が見えた。
「……女王って」
その名前は以前から何度も聞いている。
けれど具体的には分からない存在。
ただその呼び名と大きな城から、どんな人物かは容易に想像出来た。
「小さくて、可愛くて、けれどわがままで、自分が一番でなければ気が済まない女王様さ」
そう言うと猫は、私の隣から立ち上がった。
「少し様子を見てこよう」
「様子って……女王を? 女王は危険なんでしょ」
「何も彼女を見に行く訳じゃないよ。他の住人達を確認してくるだけさ」
何だそうかと一安心。
確か女王は、何処が大切な場所かを探すのが面倒臭いから、全部をミキサーにかけてしまう。
流石の猫も、ミキサーに入れられては一溜まりも無いはず。
でも、そんな考えから、これまでの住人達の言葉を思い出した。
「猫は……女王と繋がっているの?」
双子だけではない。
確か帽子屋さんもそれらしき事を話していた。
猫なら何か知っているかもしれない、と。
猫と女王の関係。
ここがアリスの世界だとしたら、いつか必ず、私は女王と対峙する事になるだろう。
その時、もし猫に裏切られたら……。
そんな不安を余所に、頭に温かい手が乗せられた。
「学習をおし。彼女の手下になった覚えは無いよ」
絶対に裏切らない。
さもそう言ってくれるような口調に安心する。
嬉しくなって、私は柄にも無く笑みを返した。
そのまま頭を二回ぽんぽんされる。
「だが、彼女が危険なのは事実だ。いいかい、あの城に近付いてはいけないよ」
絶対に――猫はそう言いながら、世界の中央に立つ赤い城を指差した。
私が素直に頷くと、猫は満足気にニヤリと笑い……崖から飛び降りて、姿を消した。
「……」
あそこに女王は居る。
でも今の私に関係無い。下手な厄介事に巻き込まれたくないし、猫に近付くなと言われたのだから。
一人残された私は、猫の居ない時間をどう過ごそうかなんて呑気な事を考えた。
最近は何処へ行こうにも、気付くと後ろに猫が居た。「後ろは止めて」と伝えて、隣を歩いてもらった。
双子に襲われた一件から、私を心配してくれているらしい。ずっと付いてくるのは、やや過剰だと思うが。
四六時中、猫が傍に居るからなのか、あれから誰にも襲われる事は無くなった。
と言うより、誰とも会う事が無くなった。きっと連日の件が噂に流れて、ここの住人達から避けられているに違いない。
誰も居ないのだから、何も出来ない。戦う相手は勿論居ない。
猫もあれ以来、誰かと戦うように言わなくなった。
猫が居ない。話す相手が誰も居ない。
だから、ふと思い出してしまう。
「……帽子屋さん、どうしてるかな」
あの半日だけのティータイム。お菓子を食べて、紅茶を飲んで。
私の友人……だった人。
何となく溜息が零れた。
「寂しいの?」
くすくすと笑い声。
草も木も微塵も動かなかったから、全く分からなかった。
いや……少し油断していたかもしれない。
「誰!?」
咄嗟に立ち上がり、包丁を握り締める。
「ねぇ、一緒に遊びましょ」
可愛らしい笑い声。
でも何処からなのかは、やはり分からない。必死に辺りを見回す。
すると視界の端で、不意に色が変わる。
木の影に誰が居る。
赤い服が見え隠れ。
「赤っ……」
直前に交わした、猫とのやり取りを思い出せずには居られない。
赤い色なんて――。
「……え?」
木の影から私を覗き込むように、その姿を見せる。
白いブラウスに、赤いエプロンドレス。
でも何より、その顔。
「なんで……私が……」
全く、同じ顔。
そこに居る人物は、私と同じ顔をしていた。
髪の長さから顔のパーツ、その配置まで。全てが同じ。
唯一違うのは、エプロンドレスの色が赤な事だけ。
「あーそびーましょ」
ふふと笑って、もう一人の私は走り出す。
私に背を向け、草原を駆け抜けていく。
「……ま、待って!」
貴方は誰。
どうして同じ顔をしているの。
それこそ、ウサギを追い掛けるアリスのように、私の足は自然と彼女を追い掛けた。
草原を抜けて、誰か住んでいそうな居住区も抜けて……それでも私は追い付けない。
追い付いたと思って手を伸ばしても、逃げられてしまう。
それを何度繰り返しても、幻のように届かない。
「こら待て!」
「こっちこっち」
楽しそうに笑う私を、私は必死に追い掛ける。
追い掛けて、追い掛けて……
気付くと、彼女を見失っていた。
そこはもはや草原ではなく、木が高々と育った森の中だった。
「……迷った」
ここは何処だろうと考えているうちに、冷静さを取り戻す。
どうしてこんな所まで、意地になって追い掛けてしまったのだろう。後悔しても、もう遅いが。
戻ろうにも帰り道が分からない。変な場所へ入り込んでしまったらしい。
でも何となく、あの子が凄く気になった。
すぐに追い掛けなければと咄嗟に思った。
どうしてだろう。
同じ顔……だからだろうか。
どうして同じ顔をしているのだろう。
あれはもう一人の私? そもそも、もう一人の私って何?
考えても答えは出ない。
それにあちこち駆け回って、足が疲れた。
森の中で、大きく張った木の根を見つけて、私はそこに腰掛けた。
空を見ようにも、木々が生い茂っていて、葉の緑しか見えない。
――猫、どうしているかな。
戻って私が居なかったら、心配させてしまうかもしれない。
しかも、あの場から離れたのは私の意思。
腕を組んで、どうしようと溜息をついた。
するとそこへ、今度はオルゴールの音。
「……え?」
とても、とても聞き覚えのあるメロディー。
その音楽が聞こえた途端、私は反射的にある姿を探してしまう。
また必死になって探して……とうとう見つけてしまう。
直前まで探していた赤色じゃない。
薄い焦げ茶色の、ふかふかした毛並み。
あの子を私は知っている。
名前は何だっけ。
確か……。
「…………テディ?」
そう、テディだ。テディベアのテディ。
今となっては安直な名前だが、当時の私はあの子にピッタリの名前だと思っていた。
抱き締めるには、少し大きな体。
立派なテディベア。
今になって思えば、結構値段もしたのではないだろうか。
そんなクマのぬいぐるみが、こちらに向かって手を振っている。
――信じられない。
テディは……いや、あのクマのぬいぐるみは、私が幼い頃にプレゼントしてもらったものだった。
確か……お父さん、から。
お父さんが『お母さんに内緒だよ』と、こっそり私にくれたもの。
背中のボタンを押すとオルゴールが流れる。嬉しくて、やっぱり傍に置いておきたくて、一緒にお昼寝をした事もあった。
けれど、いつの間にか無くなっていた。
決して小さくは無い。あんな大きいクマのぬいぐるみを私は何処で無くしたのだろう。
そう。
いつの間にか、居なくなったのだ……昔に。
なのに今、私の目の前で、私に向かって手を振っている。
到底信じられないが、ここは夢の世界。有り得ない話では無いのかもしれない。
幼い頃に無くした、思い出のぬいぐるみ。
もう一度会えるなんて、凄く嬉しい。
テディは手を振るのを止めて、今度はおいでおいでをする。
「え……ま、待って!」
背中を見せて、彼は二本の足で、不器用にとてとて歩き始める。
その姿を慌てて追い掛ける。
見失うのが怖かったが、テディはすぐに止まって振り向き、またおいでおいでをする。
私をちゃんと待っていてくれる。
だからそんなに急ぐ必要も無かった。
彼は立ち止まり、振り返って、私に手を振る。
そうやって付いて行くと……扉が見えた。
テディはそれを開けて、中へ体を入れる。
そして扉の隙間から、またおいでおいでをした。
「……ここって」
そこまで近付いて、ようやく認識する。
目の前に高くそびえ立っているのは、あの赤い城。
女王の城。
だと言うのに、テディはそのまま中へ入っていってしまう。
猫には近付くなと言われた。
ここが危ない場所だという事は重々理解しているつもり。
だけどそんな場所に、彼が入ってしまった。
たとえ罠だとしても、このまま放って置く訳にはいかない。
あの子は私の大切な思い出。
幼い私の友達。
――私が助けないといけない。
包丁を逆手に持ち替える。
迷っていない訳ではない。でも行かないといけない。
テディを追うべく、私も恐る恐る中へと足を踏み入れた。
「ふふ……ねぇ、あーそびーましょ。テディも一緒よ?」
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