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『青音色』創刊号を読む 3 〜吉穂作品〜

吉穂みらいさんは、アルデバラン・シリーズの中で、「ここではないあそこ」を舞台にした作品を生み出し続けている作家である。私はその世界を買うだけ買って、また読んでいないという不届者ではあるけれど、オースターやら露文やら、手に入るものは集めてからじゃないと始められないという私の業のようなものを知っていただければ、お許しいただけるのではないかと思う。

誠に身勝手な言い分ではあるが、それはそれとして、本作「リミッター・ブレイク」は、そんな吉穂みらい作品の中でも現実に範を取った異作である。現代劇においても、キャラの書き分けをはじめとして、読ませる文章に舌を巻いた。私自身は、おそらくこれだけのキャラクターを立たせることはできないだろう。

吉穂みらい「リミッター・ブレイク」

主要な登場人物はおよそ6人。6人それぞれの「リミッター」が示される。その「リミッター」は、認識的限界、言語表現の巧拙、秘密など、場面を変えながら、それぞれのキャラクターが抱える問題を提示していく。『マグノリア』や『ショートカッツ』など、群像劇的な手法と切り替えの素早さに、90年代的な感性を見て取れる。

江崎美咲は持ち込みで作家を目指す女性。編集部に持ち込むも、若い佐藤という編集者にのらりくらりとかわされて、採用されない。そして、とうとう編集長の富田にハッキリと古いと言われてしまう。江崎は、自分の限界を感じ取るものの、納得はできないままでいる。

そんな江崎に相対した佐藤絵梨花も、自身の限界に直面していた。この仕事を続けていくことの限界だ。佐藤は、誰に対しても、遠回しに表現してしまう。それで恋愛も、仕事も、頭打ち感を持っている。

佐藤の代わりに江崎に相対した富田も出版業界の限界を感じていた。限界ゆえに、佐藤の作品にもダメを出さざるをえない。そして、そんな鬱屈を抱えながら出席した友達との飲み会で、我慢というリミッターを外してしまう。

そのリミッターを外させたのは斎藤という「主婦」だ。斎藤は、皆に隠れて創作活動をしているのだが、ジャンルがBLという特殊なものだけに秘密にしている。そのリミッターが、富田の一言で外れる。

その会合に参加していた中山志満もまた、家族や家庭というリミッターに押し込められているが、memoというSNSに参加することを通じて、リミッターの外に出ていく。そして、実在する書店と思しき場所で、江崎と佐藤が出会い、話しながら、お互いのリミッターを外し、それぞれの世界が「文フリ」という一点に収斂していく…。

見どころは2つ。

①リミッターは外にあるのか内にあるのか

私たちは誰もが自分にブレーキをかけているところがある。そのブレーキは自分の内側にあることもあれば、外側にあることもある。外側にあるという理解が、内側にあることもあるし、内側で踏んでいるブレーキは外からの影響だったりもする。こうした世界のボタンの掛け違いをいかにして真っ直ぐにすることができるのか。この問いは深い。この作品は、どこがドミノの起点なのか。私は、富田-斎藤に置いたけれど、他にも読み方があるかもしれない。

②アジールはゴールか

商業的経路から外れた創作がアジールとしている空間として、現実のものではない「文フリ」という空間が提示されているが、もちろんこれは別の世界での出来事だ。だから、私もあえて問題提起をするけれども、こうしたアジールが規模を拡大することで、アジール性を失ってしまうことはありうる。その危うさのようなものと、一種の希望を吉穂作品は、結末にこめている気がする。現時点での最適解として。ただ、その最適解を持続させていくにはどうしたらいいのか。これは結構重い問いとしてあるような気がした。

感想

なんのかんのと、吉穂さんの作品は、読ませる。エッセイもそうだけれど、長さをあまり感じさせない。そこは長所であり、リミッターではないと思う。作品自体が一つのエニグマとして提示されていると思う。メタフィクショナルに。現実に行われていることをトレースしつつ、少しずつズラしながら、『青音色』の今後を実は示唆しているような気がしてならない。

というか、この問いを次回参加の私も共有することを求められていると勝手に思い、そしてこれは厄介な難題だな、と感じ武者震いをした。

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