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親鸞を学ぶ友人からの通信「如来の御いのちを生きる」

友人から毎月通信が送られてきます。
親鸞聖人の『歎異抄』をよく勉強しており、何人かで勉強会も開いているそうです。
今回の通信に下記の言葉がありました。
 
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
 
何も頼らずに私なりに解釈してみると、阿弥陀如来ら師や先達から受ける恩徳に対して日々真剣に生きることが、それに報いることになる、ということでしょうか。
 
さすがに友人は、通信で細かく説明しています。
相当の理解者で実践者であると実感します。
この通信を受けた者として、大事なのはこの言葉をどう自分の生き方に反映させるかです。
 
友人は書いています。
「無限である如来の力は複雑で微妙かつ壮大な宇宙の働きとしてあらゆる存在を動かしています。
その如来の働きに心身共ゆだね、自分はその広大な如来の役割を担う一分子として微力を尽くすのが私達の務めではないでしょうか。」
 
「例えば、暗い場所を明るくするには、一本のマッチを擦って火をつけ、さらに蠟燭にその火を移し、周りの人も同じようなことをすればさらにその場所は明るくなるでしょう。」

そして次の言葉が続きです。
 「今の自分のままで、自分が出来る事を行う時、それは我々が如来の御いのちを生きることになるのではないでしょうか」と。
 
普通なら自分が生きていると言いたいところを「如来の御いのちを生きる」と言える友人は凄いと思います。
 
私が思うに、こうした謙虚な生き方が一燈となり、その一燈が周りを明るくしていく。
そこに、人として生まれてきた役割があるように思います。
最初の言葉に戻れば、この生き方が「阿弥陀如来の恩徳に報ずる生き方」ではないかと思います。

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