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小説『人魚取り』

 ※差別的、暴力的、性的な表現・描写が含まれますが、作品の世界観・深み・説得力の為に必要不可欠であり、それらは我々の世界、現実の鏡写しでもあると作者は確信しております。
 けがれないものは、人間ではありません。
 人間を描くとは、暗部を抉り出す事です。
 また作者はペダントリーで、その蘊蓄は必ずしも正確ではありません。ご了承下さい。


 

 『人魚取り』


 ジンジは期待と不安を撹拌かくはんした妙な高揚の中、市場いちばを歩いていた。行き交う人々、見世みせ、潮の匂いと人熱ひといきれが合わさり、それらがジンジを煽り立てる。夜明け前の真っ暗闇に無数のランプや松明たいまつ篝火かがりび雪洞ぼんぼりが、各々は小さくも闇を途切れなく切り裂くように灯され、市場は煌々とまばゆく、昼でも夜でもないような異界の様相を呈していた。
 見世が商うのは勿論、海産物が大多数を占めるが、それらを食材に用いた鍋やら粥やらも煮売りされている。火に掛けられグツグツと煮えている大鍋からは、鼻腔を突破し胃袋を蹂躙するうまそうな薫りがぶちまけられているが、その中身は得体が知れない。雑魚や野菜屑がほとんどと思われるが、名前すらない魚や毒貝も煮込めば問題ないだろうと、茶色の湯玉はボコンボコンと景気よく弾けては溶け、浮いては沈む具材には虫やゴミも混ざっていると思われる。万が一、千が一、その辺を口にして腹を壊したとしても、食べるのは客であって主ではないし、どの道、二束三文である。このごった煮を買い求めるような客は、そうそう腹など壊すような輩とは思われない。安価で安心安全だった。
 それらの人々が一塊となってたむろし、自棄糞やけくそのように椀を掻き込む者、口にするのに覚悟を擁すると見えて慎重に少しずつ箸を運ぶ者、白けたあるじ、金がないのか傍で匂いだけを嗅ぐように立ち尽くす者と、腐るほど腐るような連中があちこちにいた。
 漁師たちは逞しく、威勢がよい。大型の海獣ベノンを仕止めでもすればその数日は漁港は天下だった。例え、仕止めなくとも激しい戦闘と攻防の末、逃げられてしまったという武勇伝もまたまかり通った。彼らはその虚実入り乱れた戦歴を肴に、魚市場のど真ん中を闊歩した。不漁の時は姿を見せなかった。
 そんな漁師の網元から仕入れた、競り落とした魚屋たちが、新鮮な殺したて、死にたての魚の死骸を此処彼処そこかしこで売り捌き、飯屋の板前やらが買い求め、値切り、揉めて、何も買わなかったりしている。より素晴らしい肉付きで死にたて、何なら、死にかけくらいが彼らの求める処であって、そうそうありはしない出物と言える。無い物ねだりに拘りを見せるのが一流に相違ない。結果、何も買わないとしても。
 そんな魚の売り買いいさかいの大体脇に、野菜やら果物やらの青物屋がちまちまと肩身を狭くしてもっとしなびた野菜を売っているのか放置しているのか、並べていた。果たして此処まで売りに来る利益があるのか?と思う値段は良心的で、買い求め易く、しかし、買ったら後悔するであろう品質は折り紙付きである。そんな客からの返品や苦情を受け付けない為に、露店という形式を採っているのかもしれず、流石は商売は道によって賢しと言われるだけはあって、石の上にも三年、逃げるが勝ちを地でいっていた。
 市場にはあらゆる物が商われていた。
 どうしてこんなものを?と思われる物まで売買している。笊や籠を山積みにして売る者、自転車修理、床屋と髭剃り、娼婦、占い師、かんたんな博打、捕まえた野良猫、反物、他所の漁港からの干物、期限切れの罐詰、人さらいと子供、盗んだ看板、四文の四文銭…………
 売ってるのか、売って意味があるのか、買う者がこの世にいるのか、買って平気なのか…………
 狂った熱が市場には在った。
 そこに損得は最早、関係ないのかもしれない。
 巧妙な悪意、してやったりという愉悦、損をした悔しさ、憤り、無関心、諦観、下心、お門違いの親切。
 猥雑乱雑な人人人人人人人人人人、、、、、
 人に酔い、
 人に惑う。
 この時のジンジは正にそうなっていた。
 何かに憑かれたかのように脚が進む、体が引っ張られる。
 破けた靴の右の爪先が朝の冷気と濡れた地面に冷たいのだが、そんなものは大した問題ではなかった。毛羽立った外套の前を掻き合わせ、目だけはせわしなく乱立する見世へと走らせ、ジンジは市を歩いていた。
 少年のジンジに、時折「おや?」と目を向ける人もいたが、一瞬で興味を失い、それぞれが己自身へと関心が戻っていった。
 すれ違う人々も様々であった。
 商人、漁師、買い出しの客、棒手振ぼてふり 丁稚でっち、盗人、人殺し、浮浪者、廃兵、失業者、無法者…………おまけにヒマ人だった。
 ヒマ人とは暇している、時間をもて余して退屈しているとの意味ではない。ヒマ人と言われる人種で、総じて首が非常に長く、全身が細長い。成人の背丈は七尺以上あり、毛髪は無く、細長い大根を思わせる。人間より殆んどが大きいが、動きは遅く、鈍く、何処か空虚な目をしている。ここらにはよくいる連中だった。消極的に友好的ではあるが、正直、よく分からない。取り敢えず危険はない、という。
 彼らの身形みなり襤褸布ぼろきれまとうばかりで、汚ならしいが、人間によくあるような不潔なじめじめした臭気は少なく、乾いて埃っぽかった。皮膚そのものも乾いているように見える。
 脚は長いのに歩くのは遅いので、彼らが人混みを歩くと渋滞する。あちこちにいるヒマ人たちを邪魔臭そうに押し退けて、棒手振や買い物客が歩き回り、時折、怒声と共に蹴りを入れて力ずくで退かしたり、首を掴まれて上空へと放り投げられたりしていた。よくある些細な事である。犬が“えっ!?なに今の!?”と、けたたましく吠えるが、気に留める者はいない。犬の言う事なのだから。
 ぶああん、と灯りに惹かれたのか大きな蛾が頭上を舞う。
 鍋の具材に成り果てるか、地に墜ちて踏み潰されるか、虫けらは知らないし、案ずる事もないのだろう。
 それは人々も同様だった。
 「坊主、雑炊べ食わねえだか?六文ろくもんだぶ」
 声を掛けられジンジはそちらを見遣る。
 道端にしゃがんだ親爺が七輪に大きな土鍋を掛け、炭火で何か煮込んでいた。これも売り物なのか。感動的に汚ならしく、親爺の身形はその上をいき、食べ物への冒涜そのものだった。
 「いらねっす」
 答えると、つっ、と舌打ちするその親爺の顔はプラズマで焼かれたようなケロイドで、半面が溶けて垂れ下がっており、雑炊のようだった。
 空腹ではあるが、あんな雑炊を食べたいとは思わないし、思えない。そんな暇もないし、何より無駄に出来るような金もない。大事な買い物があるのだ。
 もっともも、それが売っているとは望み薄であるのだが───────
 売っていたとして買えるとも思えない。
 買えないものをどうして買い求めるのか、ジンジにも解らない。何かに突き動かされて、彷徨さまよっているのだった。
 蛾と変わらない、とジンジは思う。
 どうしたら良いか分からない。
 それでもとどまれば地に墜ちるのだ。


 空が明るみを帯びて往来は幾らかまばららになり出した。それでも客を呼び込む声、いざこざの喧騒は絶えず、いちは賑わっている。燃え尽きる寸前の松明が、日の出の到来に歓喜と安堵の火の粉を散らし、虫けらどもはもっと暗い場所へと去り始めた。
 それでもジンジは市を彷徨い歩き、歩き尽くせない程に市は広く、混沌を極めていた。
 いい加減に草臥くたびれたし、お腹も空いていた。
 根性論、精神論ではどうにも出来ない矮小な生理現象が厳然とそこにある。帰るべきか、と迷い、更にさ迷う。
 そんな折だった。
 「なんだ、なにしてんだ?」
 藪から棒な掛け声。
 それが自分に向けられたものであると判断出来たのは、聞き覚えのある声と、この男はいつもまともな挨拶をしたり、名前で呼び掛けたりはしないからである。
 見れば路地の合間の少し広くなった処に数人の男が集まっていた。
 「トメさん」
 「おう、なんだおめえ、どうした」
 男は四十しじゅう手前で、汚い着流しに汚い褞袍どてらを引っ掛け、素足に禿びた下駄を履いて、数名の男たちと何やらたらいを囲んでいた。陰毛さながらのちぢれた髪の毛をざんばらのチン毛のように繁茂させ、無精髭ぶしょうひげは何処までがモミアゲで何処からが髭なのか領土問題に事欠かない。
 名を留蔵太郎とめぞうたろうという。
 留が姓で、名前は蔵太郎なのだが、みなトメゾウの渾名あだなで呼ぶ。ジンジもトメさんと呼んでいた。
 「いや、ちょっと…………」
 答えづらく、口ごもる。あまり得意な人ではないのだが、それほど嫌いでもない、妙な大人だった。
 んん?と怪訝けげんな表情をして、トメゾウはこちらに近寄ってくる。盥を囲んだ男たちから「てめえ、勝ち逃げすんのか!」「抜けんじゃねえよ!」と荒い声が飛ぶ。
 何をしているのか、と思えば喧嘩ビーゴマと呼ばれる遊びだった。
 戦時中のプラズマジェット砲の爆心地から採れる六方晶ダイヤモンドの欠片を拾ってきて、回転させる為のヒモを掛け、盥の中に投げ込む。この辺は貝独楽べいごまと似るが、この遊びは相手のコマを砕いてなんぼ。如何に、相手のコマを粉砕するか、己が破壊されないかが、きもとなる。子供の遊びに幾ばくかの金銭を賭けているだけで、やってる事は尋常小学校のガキと変わらない。この辺の大人の男ときたら、こんな連中ばかりだった。
 「おめー、どした?買い物か?」
 博打仲間の罵詈雑言をシカトして、トメゾウは座を抜け、ジンジの前までやって来た。
 酒臭い。
 「まあ、そうです」
 酔っ払いの臭いに辟易しながらジンジは曖昧に答える。
 「なんだ?何を買いにきた?女か?」
 「違うっすよ」
 しつこくトメゾウは訊ねてきた。十二才のジンジに、女を買いに来たのか?とは、正気で言っているのか。冗談ならタチが悪いし、本気でならどうかしている。人となりが一撃で思いやられる一言だった。
 「僕は、その……母さんに栄養のあるものを食べさせたくて……」
 上背がある為、着流しの開いた胸元が目の前にある。汚い胸毛だかチン毛だかを見つめながらジンジはそう述べた。
 「ほう」
 と顎に手をやる。
 酔っ払いも感心したらしい。このトメゾウというのは、ジンジの住まう裏長屋では鼻つまみ者であるが、案外、根はそれなりに善良な部分の残骸も残っているようで、年寄りを助けたり、子供を可愛がったり、飼い犬から奪ったエサを野良犬にくれてやったりと、良い事のような事もするような男でもある。とも思う。
 たまには良い事もするのだからと言って、善人ではない。ごろんぼうが相応しいと思われる。
 母一人子一人(当たり前だ。母が二人いるか)のジンジには常から親切だった。彼も幼い頃から貧乏し苦労してきた貧困層の出身なのかもしれないが、ジンジはそうでもなく、貧乏でもない。貧乏そうにはしていた。平たく言えば、ケチなのである。母は金回りの良い時は良いのだが、無い時は無い人だった。節約するに越した事はない。十二才にして既にジンジは節制の習慣が染み付いていた。
 「おっさん、やっぱり具合わりぃのか?」
 「そうです」
 「そうか……医者は?」
 「横丁の野田先生と、本町のジャミ先生のとこと、帝都病院に行きましたけど、どうにもならないって言われたんです」
 ジンジは少し俯いてそう答えた。
 母は不治の病にかかり、臥せっていた。
 或いは、それは持病、宿命と言うべき業かもしれない。
 確かに医者に診せてはいたが、入院も通院もしていない。うちでは治らない、手立てがない、と言われたものを、どうしようがあるというのか。仕方ないので六畳一間の長屋の部屋に、布団を敷いては寝ているばかりだった。狭い部屋の半分を寝たきりの母が占有し、日夜うなされ、咳き込み、苦しげに荒い息を吐く。
 そんな病人と暮らすのは気が滅入って堪らないものがある。
 ジンジはなんとかしたい、と思ってこの市にやって来たのだった。
 「気の毒に。おめえも大変だなあぁぁ……」
 渋面で腕組みしてそう唸り、トメゾウが歩き出したので思わずジンジも着いていく。
 「どんくらいになる?」
 「四ヶ月くらいですね」
 「はあ、大分経つな」
 ぺっ、と酒臭い痰を地べたに吐いた。
 行き交う人々がその地雷をかわし、躱せずに、粘液は地面へ靴の裏へと消えていく。
 「なに食わしてやりてえんだ?喇蛄ザリガニか?」
 ここいらで喇蛄と一纏ひとまとめに呼ばれる甲殻類アッグラーは、中には二メートル近くにも成長し、漁師の腕をハサミでもぎ取るくらい獰猛だが、なかなかお目にかかれるものではない。獲れたとして、当然、料亭などへ高値で売買されるので一般には余り出回らないし、出回ったとしても価格はべら棒だった。
 「いや喇蛄じゃなくて…………」
 「飛鯨ラコーンスか?なら、別の日に北の浜に行こう。いいとこ仕入れられるぞ」 
 小型の鯨でヒレでもって滑空する。比較的、漁獲が多く、尚且つ、その脳は滋養に良いとされる。
 「あ、いや、そうでもなくて…………」
 「金ねえのか?まあなあ……そりゃそうなんだけどよ。何とか俺がコネつけてやるから、よっと。おい、なんか食おう。腹減っちまった」
 立ち止まり、トメゾウは串焼きの露店に目星を付けた。焜炉こんろに掛けた金網の上で、蛸の足が串に刺されて焼かれている。衛生的にもかなり綺麗な方だろう。
 「小母おばさん、二本ちょうだい」
 「あいあい、十六文だよ」
 「はいよ」
 トメゾウは八文銭二枚を小母さんに手渡し、太い蛸串を二本受け取った。その一本をジンジに差し出す。
 「あ、すいません」
 こうしてこの酔っ払いが何かくれるというのは、自慢していいぐらいの事だとジンジは思う。近所の連中が見たら、さぞ魂消たまげるだろう。ジンジは何故か、そのくらい気に入られているのだった。気の毒な母子との勘違いによるのだろうが。
 「んん、なかなかうまいな」
 湯気の上がる蛸の足に食らいつき、トメゾウはうんうん頷いている。ジンジもかじってみた。塩を振られただけの素朴なものだが、確かに旨い。ぷりぷりとした歯応えも良く、あれは隠れた名店だな、と小母さんを誉めちぎりたくなる。歩きながら二人、うまいうまいと頬張った。あの雑炊はなんだったのか。
 「……で、なんだ?どうする?」
 あっという間に蛸串を食べ終え、串を用事がわりに歯をきながらトメゾウが話を戻した。
 「今から浜に行くなら付き合ってやるぞ?」
 などと面倒見の良い事を言う。
 自慢にならない男だが、この男にこれだけ気に入られている事は自慢してもいいかもしれない。自慢した瞬間、後悔に変換されるであろう事は容易く想像出来るが。
 「いえ、あの、何て言ったらいいか…………」
 「何でも言ってみろ。なるべく渡りをつけてやる」
 そうか、
 いや、この男でも難しいだろう。
 だが自分一人ではどうにも出来ない。
 現に、市でそれらしき物は無かったし、そんな話も耳にしなかった。
 この男に頼るべきか、
 そうするしかない。
 「実は…………」
 蛸串の借りが背中を押した。
 また食べに来ようとすら思う。
 八本足の力は偉大だった。
 「人魚を手に入れたくて……何処かで売ってないかと思ったんです」
 そう述べた途端、
 ポトリとくわえていた串が地面に落ちた。
 酔いも醒めただろう。
 数秒の沈黙の後、やっとの事で絞り出した言葉は、
 「……お前……」
 続く台詞は紡がれない。
 バサバサと耳障りな羽音を立てて太った鴉が地べたに舞い降りた。
 夜が明ける。


 人魚───────
 いわく、人面人体にして二手無足魚尾という。
 古今東西、それは凶兆の報せであるといい、人魚の目撃や水揚げは伝染病や天災の前触れだとされる。
 人間と恋仲となるも悲劇の主人公となる雌の個体を謳った伝承は数知れない。その間の子あいのこは更なる悲劇を生むのが物語の常だった。
 古来、海の魔物、怪物よりも人に近いからなのか、海へ転落した船乗りが人魚に助けられたとの話もある。それ故、航海の守り神と崇められる事があるが、漁師には容赦なく津波をもたらすとも聞く。
 何より、
 その肉を喰らうと不老長寿となり、
 その骨を煎じて飲めば万病を癒すとされた。
 そして、
 そうなのだった。


 「万次郎さんに聞いてみよう」
 一体、どれくらい黙考していたのか。
 長いこと黙り込んで思案していたトメゾウが、そう述べた。
 「万次郎さんて誰です?」
 「いや、なんて言うか……まあな」
 苦い顔をしてトメゾウは返答を濁す。この男でも 憚はばかられる人物なのかと、ジンジは見知らぬ万次郎なる人物を畏怖した。
 トメゾウは、ちら、と辺りに目をやる。
 何事か確認すると、
 「来い」
 と短く囁いた。
 具体的な理由は知るよしもないが、相当な危ない橋を渡ると見える。とは言えど、他に手立てもないので、ジンジはその後に続いた。
 無言で歩く事暫時。。。。。
 雑踏を抜け、魚河岸、港からも大分離れた市の外れに、その大きな廃墟はあった。
 巨大な尺取り虫のような胴体に変色したペンキで『ダごう』とある。戦時中の戦艦で撃沈された訳ではないが、終戦と老朽化につき廃棄するにあたって、政府の何処が責任をもつのか全てあやふやどころかあややややややで、未だに解体されぬままに少しずつ朽ちていっているのだった。
 トメゾウはその巨大な残骸に足を踏み入れた。
 正式な入り口など分からない。其処此処そこここに空いた穴から内部へ侵入した。ジンジもそれに倣った。
 「邪魔するよ」
 誰にともなくトメゾウは声を掛けた。
 薄暗い艦内は隔壁が朽ちたのか故意にぶちぬいたのか、取り払われ、虫食い状の小部屋が無数に連なっていた。それも壁が少ないので、部屋というか仕切りと呼んだ方がいい。そのあちらこちらに、人がいた。此処に棲み着いているのだろう。でかい。ヒマ人だ。ヒマ人だった。
 ダ號はヒマ人たちの住処であった。
 「…………」
 驚き、脚が震える。
 錆と油の臭いの中に、乾燥した草のような臭いがする。ヒマ人たちからしているのだろう。干からびたような空間だった。
 「ちょっと用事があるんだ」
 トメゾウは大声でヒマ人たちに告げる。普段、ぼうっとしている彼らだが、正直、何をするか分からない。怪しい連中なので、こちらは怪しい者でないとなるべく伝えた方がいい。伝わるか分からないが。
 「あの、万次郎さんはいるかい?」
 幾人かのヒマ人を見回して、トメゾウは訊ねた。
 うんともすんとも言わず、ヒマ人たちは、ぼうっとしている。恐ろしく緩慢な速度で小刀を使い、木材を削っている者や、でんでん虫に追い越されて煽られる速度で歩いている者もいる。時間が止まっているかのような、しくは、時間の流れが遅いかのような、異様なトロさとそれからくる不気味さがあった。
 「なあ、万次郎さんいるかな?」
 再度訊ねる。
 見えない壁があって、その壁越しに叫んでいるが分厚くて届かない、そんなジレンマが続く。
 結論から言うと、最終的にはトメゾウは五回声を張り上げる羽目になった。
 「万次郎さんは…………」
 一人のヒマ人が、床に尻を着いて座りながら(それでもトメゾウと目線が変わらない)手を上げているのに気が付いた。一体、何時からそうしていたのか。
 巨大な手の細長い指。その人差し指が天井を指差している。他の四指をきっちり畳んでもおらず、ちゃんと“こっち!”と腕を突き出してもいないので分かりにくい。かなり曖昧なハンドサインだが、ファ◯クサインではないのは確かだ。中指ではなく人差し指なのだから。
 「上?上に行けって言うんだな?」
 返答はない。
 返答など待っていたらもっと時間を食うので、簡単に礼を述べて、トメゾウは錆びた階段へと向かった。どうも、とヒマ人にお辞儀をしてジンジも続く。
 ダ號の二階は、一階と大して変わらなかった。
 「あのー、万次郎さんに用があるんだが…………」
 ヒマ人たちの反応は似たり寄ったりで、ぼうっとしていた。痺れを切らしたトメゾウは、
 「上の階かな?上に上がっていいかな?」
 そう声を張り上げて、返事を待たずに再び階段へと向かった。
 三階。
 「おっ…………」
 熱気。
 熱風。
 燃えない材質のダ號であるのをいい事に、ヒマ人たちは床に直接、薪をべて、焚き火をしていた。
 その炎が船内を赤く照らし、熱が吹き付けてくる。床にはうずたかく灰が積もり、これが日常なのだと窺い知れた。
 「あっつ……」
 酔いが醒めて体が冷えていたトメゾウは、急激な熱波に怯み、後退あとずさった。
 ぎゃぁぁぁぁお、とおぞましい悲鳴が反響して、トメゾウもジンジも、びくっと震える。
 ヒマ人が床で包丁を使い、犬を捌いていた。その刃の遅さは拷問と言っていい速度で、こんなゆっくり刻まれたのでは死にきれないだろうと二人は無言で犬を憐れんだ。というか、犬を食うのかこいつら、と驚いた。
 魚を焼こうと、串を刺している者もいるが、矢張やはりその速度は凄まじく遅い。ジンジは尻からじわじわと串を刺されながら、死ぬに死ねない苦しみを思い鳥肌を立て、金玉を米粒大に縮こまらせた。
 「ちっ」
 舌打ちしつつ、トメゾウはさっさと四階へと向かった。こんなところにはいたくなかった。
 四階。
 最初、死んでいるのかと思った。
 ヒマ人が床に倒れていたからである。
 すぐにそれは寝ているのだと悟り、起こしては悪いし、起こしたところで答えはないだろうと無視して五階へのぼる。
 五階は沢山の瓦落多がらくたで溢れていた。
 箪笥や椅子、廃材、壊れたオートバイ、何なのか分からない機械、おもちゃ、積まれた座布団、燃料タンク、足の折れた卓袱ちゃぶ台…………
 一応、壁際に押しやって、通路を確保してはいるようだが何時いつ、崩落してもおかしくない。ゴミの山、ゴミ屋敷、ゴミ戦艦だった。
 そのゴミの奥、少しだけ片付いて広くなったスペースに、ヒマ人がいた。
 一際、大きい。
 八尺以上あるだろう。
 その巨人が、どういうわけか人間用のロッキングチェアに腰掛けている。
 勿論、サイズは合わずに、長い脚が窮屈に畳まれ、腰が抜けた体育座りのような有り様をしていた。
 体重はそうでもないのか、ロッキングチェアは壊れこそしないが、ヘンテコな主に居心地悪そうに、申し訳程度に揺れている。
 「万次郎さん……」
 はあ、と嘆息するトメゾウ。
 これが、
 万次郎??
 「…………」
 まるでヒマ人の王と言って良い異様だ。そして万次郎ってなんだ、その名前は。
 ジンジの喉が、ごくりと鳴る。
 「俺です、留蔵太郎です。憶えておられますか?」
 「…………」
 くるっ、と万次郎はトメゾウへ顔を向けた。
 素早い。
 いや、普通のしぐさだが、他のヒマ人たちより数倍の速度だ。
 「……おお。トメゾウだ、トメゾウだ」
 喋った。
 大木のほらで話すような、響きながらもくぐもったような、異様な声だ。
 「なんだ?」
 と万次郎。
 彼が話せるという事は、他のヒマ人たちも人語を解するのだろうか。彼が特別なのだろうか。
 「お訊きしたい事があるんです。あの、この坊主は知り合いの子なんですがね、その、なんていうか、母親が病気なんですよ」
 「ふうん。医者にいけやぁ」
 真っ当な事を言う。
 「いや、行ったそうなんです。方々の医者に診てもらったけども、ダメだと言われちまって」
 「そうか、気の毒になぁ。葬式の算段かぁ」
 「違いますよ、まだ生きてます。なんとか助けてやりたくて、この坊主は市を彷徨うろついてて」
 「えらい親孝行だのぉ」
 「でしょう」
 何故かヒマ人に感心され、トメゾウにも頭を撫でられたが、先程から万次郎の襤褸ぼろい着物の間からモロ出しになっている大砲のごと逸物いちもつが気になってジンジは嬉しくも有り難くもない。なんだ、あのイボイボのドリルのような代物しろものは。先端には蚯蚓みみずのような細いものが無数に生えている。顕微鏡で見たかびの胞子のようで、嘔吐しそうだった。
 「坊主ぅ、おっさん可哀想になぁ。俺もよく分かるわぁ。やっぱり、男はよぉ、母ちゃん子だもんなぁ。みんな同じだわなぁ」
 「は、はい」
 化け物だ。
 同じじゃない。
 「それに比べてよぉ、近頃のうちの若いはいけねえ。死んでるみてえだ。ぼうっとしやがって、限度があるべよ」
 ヒマ人にダメ出しされる最近のヒマ人の有り様を思い、心から同意する。
 「でも駄目なんだぁ、俺らはぁ。ピタッときやがるからよぉ。おめえらとはなかなか、むずかしいなぁ」
 ぶっふふふふふ、とエンジン音のように笑う。
 「あの、それでですね、この坊主、母ちゃんを助ける為に、その…………」
 流石にトメゾウは口ごもった。
 「俺にもっといい医者べ紹介しろってか?まあ、いいけどよぉ」
 「そうではなくて……」
 なんともトメゾウが煮え切らない。
 当たり前だ。
 一級天然記念絶滅危惧類人保護動物なのだから。
 早い話が、犯罪だ。
 「トメゾウさん」
 ジンジは汚い着流しの袖を引いた。
 「あの、ジンジと言います。母を助ける為に、その、僕は……」
 巨人の前に出る。
 眼前に化け物チンポが垂れている。
 「僕は」
 「おうよ」
 「人魚を手に入れたいんです」

 「。。。。。。。。」

 驚いたのが分かる。
 巨大な手の甲の血管がびくっと蠢いた。
 何よりチンポが跳ねた。
 「確かに」
 一際くぐもった声。
 「確かに、人魚の骨っこは万病に効く…………」
 そう呟いて、万次郎は他のヒマ人同様に、固まり、沈黙してしまった。
 眉間に皺を寄せ、腕を組み、何事か思案を続ける。
 ふんどしくらいしてくれ…………

 人魚の骨、俗に『ヘイシムレル』と呼ばれる。
 肉を食べると不老不死、或いは不老長寿になるとは有名な話だが、骨にも薬効があるのは余り知られていない。原因は、まがい物、バッタもんが九割を占めるからである。
 元来は、消化器疾患への特効薬とされ、粉末にして経口するべし、というが、ちまたで出回る土産物だか記念品だかのヘイシムレルは、なんと、御守りなのだ。人魚の骨だという物を加工し、御守り袋に入れた物や、数珠状にしたものやらが出回っていて、それを身に付ければ無病息災、引いては、下痢便秘切れ痔疣痔痔瘻脱肛下血も忽ち良くなるし予防できる云々とされる。
 迷信以外の何物でもないし、そもそも工芸品であるそれらは人魚の骨ではない。よくてジュゴンの骨、小さな物はエイやトビウオの歯であって、要するにぼったくりであった。
 それでも本物の人魚の骨は、万病に効くとされる。
 消化器どころか頭痛や感染症にまで効果的とは、つまり循環器への強烈な薬効があるからであろう。水中の生命である人魚の骨には、何か、水中生活への適応の果てに獲得された特別な力が有るのかもしれない。鮫の血液のように。
 だがその特別な骨を得るには……まず、希少な人魚を発見・捕獲し、殺害せねばならない。二桁の犯罪行為となり、軽くて懲役数百年、重くて死刑、悪くすればその場で射殺である。
 危ない橋、危な過ぎる橋、橋など掛かっていないただの紐であった。

 「ううむ……」
 痰を吐き出すように万次郎の喉が鳴る。
 この相当に危険人物、裏の大物らしいヒマ人にも、躊躇ためらわれるものがあるのだろう。
 「万次郎さんなら、何か御存じかと思いまして……闇で取引するとか、そんな直接の話じゃなくていいんです。水揚げされたとか、何か手掛かり御存じないですかね……」
 トメゾウがペコペコと頭を下げる。下げる処を見ると、余程の借りがあるのだろう。
 「まあなあ…………確かに、ある。あるが、大分、昔だぁ。知ってっかぁ?あいつらは海よりか淡水に近い汽水ってのか?浜だの河口だのによく出るんだわ。昔、鰻取りの連中が釣り上げた事があってなぁ。そん時は、良くねえ事があるって大騒ぎで、海に返したんだぁ。勿体ねえことしやがる。捌いて売っちまえばいいのによぉ。まあ、その後に戦争だから、人魚は凶兆ってのは当たってんだろなぁ」
 遠い目をして訥々とつとつと語る万次郎。
 「現代いまは何かありませんか?」
 「最近はなぁ…………いや、そういう密漁の商売してる連中もいやがるがよぉ、俺んとこはやらねぇし、なかなかなぁ…………」
 望みは薄いようで、はぁ、と万次郎が息を吐くのが錆びた船内をにばかに響いた。

 刹那、

 「はあああああああっっっ!!!!!!」

 万次郎は爆音の咆哮を発し、信じがたい速度でロッキングチェアから立ち上がり、勢い余って天井に頭がめり込んだ。
 二人は心臓が破裂するほど驚いて腰を抜かし、文字通りに腰が抜けて、へたり込む。
 「……な、な、なんです?」
 「知っとる!!!!いたぞぉ、人魚飼っとるのがぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
 天井を凹ませ、頭をめり込ませながらお構い無しに叫ぶヒマ人の王。突然、倍速になったかのような、その有り様は恐怖だった。彼らは、何というか、時間の流れが一定でない事を体現するようだ。唐突に速くなると、こうなるらしい。
 改めて相容れない、と感じた。
 いや、そんな事より、
 「人魚を飼っている??」
 「おぉぉぉぉぉう!!!!!」
 キンキンする叫び声と共に頷き、頭が天井から抜けた万次郎は、再びゆっくりとロッキングチェアに腰掛けるというかめり込んだ。
 「どういう事ですか?」
 と訊ねるトメゾウの声も体も震えていた。彼を嗤う事はジンジには出来ない。少しチビっていたからである。
 「なんだか酔狂な学者がいてなぁ」
 のんびりとした口調に安堵しながら、ふんふん、と二人は耳を傾ける。
 「方々の漁師に頼んでまわってよぉ、人魚を手に入れたってぇんだが、これが恐ろしく手数が掛かるらしくてなぁ。まず広い生簀がいるだろぉ?そんで气水だよ。わざわざタンクで水を運ばせてるってんだからなぁ。とどめに餌だぁ。新鮮な貝だの海藻だのしか食わねえって話で、これも漁師からいいとこを運ばせてるらしいわぁ。世の中には物好きがいるもんだなぁ」
 「そんな人が…………」
 「ああ、いるいる。笑っちまうなぁ。俺んとこでよぉ、仲買が高いってぇんで世話したんだわぁ。尤も、俺は直接会っちゃいねえから、ただのキチガイかもしんねぇけどなぁ」
 「本当に人魚を飼ってるんですかね」
 「さぁて……でも、金に糸目はつけてねえのは確かだぁ。生物学者ってのもホントらしい。人魚を保護してえのか、研究してえのか、そんなとこじゃねえかよ?」
 「その人は……何処に?」
 「ああ、この市の隣に住宅地があんだろぉ?あの手前よ。亞胡屋あこやってえ潰れた旅館を買い取ってなぁ、そこで人魚べ飼ってるっちゅう噂だぁ」
 「亞胡屋…………」
 大した距離ではない。
 こんな側に人魚がいるというのか。
 「しかし、おめえら、人魚の骨が欲しいんだろぉ?そんなもん、譲って貰えるとは思えねえなぁ」
 それは確かにそうなのだが。
 骨=人魚の死に相違ない。本物のヘイシムレルは、肋骨だとも聞く。肋骨を摘出されて生きているとは思えないし、その学者先生がそんな事を承諾してくれるとも思えない。可能性があるとするなら、既に人魚は亡くなっていて、骨格標本などになったその一部を分けて貰える場合くらいだろう。
 「取り敢えず、行ってみますよ。なあ?」
 「そうですね……」
 と頷きあっていると、
 「そうかぁ。運がよけりゃあ、剥製の骨でも譲ってもらえるかもしんねぇなぁ。小指の先くれえはよぉ。でもおめえ……忘れてねぇか?俺んとこの情報代、安くねぇぞ?」
 こわい声でヒマ人の王はそう言った。
 そうか、そうだ。この男は慈善事業をしているのではない。支払う代金が必要なのだ。そしてもう、情報を得てしまった以上、支払う義務が発生している。
 一体、幾らなのか…………
 「万次郎さん、それが今は手ぶらなんです。後でどうにかしますんで」
 へへっ、と卑しい笑いを浮かべるトメゾウ。
 「なぁに、構わねえよ。金じゃねぇんだ。おめえには、そうだなぁ、ちょっと盗んでもらいてえ品がある。それべを頼もうか」
 金ではない。
 品物と情報の交換なのか。それか、相応の労働やリスクの負担なのか。
 ふとジンジは興味をそそられた。
 「あのぉ、お金で支払うのはダメですか?」
 「んん?俺はなぁ、特に金には困ってねえし、そもそも俺らは金を使う事が滅多にねえ。だから、あんまし金に価値はねぇんだ。金で手に入らねえ物がいい」
 成る程。
 言われてみれば、ヒマ人が大金をかき集めて蓄財した処で、どうするのか意味が分からない。だから、パシりにでもなって貰うか、欲しい物を現物で、なのだろう。
 「あっ、じゃあ、この部屋の物は……」
 「そうだぁ。俺のコレクションだぁ」
 ゴミではないらしいが、ゴミでいいらしい。
 金では買えないかもしれないが、金にもならない。
 こんな物でいいのか…………
 辺りを眺めるうちに、ジンジはポケットの中身に気が付いた。
 「あの、親方、これではダメですかね?」
 取り出したのは十徳ナイフ。
 愛用の品だ。
 「んんんん?」
 少年の手の上の小さな金属を覗き込む万次郎。
 十徳ナイフと言いながら、ナイフ、缶切り、栓抜き、プラスドライバー、マイナスドライバー、ヤスリと六徳しかない。ナイフの癖に、一番よく使うのはドライバーで、ナイフの刃は刃毀はこぼれして以来、自棄糞になって金ヤスリで刻んでノコギリ状の波刃にしてある。その行程には金ヤスリが付いているのに、別の金ヤスリを使わねばならず、発狂しそうなジレンマであったが、それなりにかっこよく、見た目だけは出来たが使ってはいない。逆に、使わない缶切りを削って、こちらに刃をつけたので、紙を切ったりには役に立つ。ハサミならもっと役に立つが、六徳ナイフにハサミは付いていない。
 少年のジレンマのような鉄塊だった。
 「ほう……ほうほう……ほう!」
 巨大な手で小さなナイフを器用に値踏みする万次郎。その表情に笑みが広がっていく。
 「坊主よ、こりゃあ、おもしれえなあ!要るようで要らねえ、役に立つようで、役に立たねえ感じがたまらねえやなぁ!」
 「そうなんです。これで支払えませんかね?」
 「ああ、いいよ、いいよ!なんなら、釣りがでらあ!」
 上機嫌で、万次郎は手を伸ばしてその新しいゴミを、コレクションの一番上に、ことん、と置いた。
 これでチャラらしい。
 珍品が好きなのだった。
 「坊主よぉ、釣りにおめえの珍棒べぇ、大人にしてやろうかぁ?」
 とんでもない事を言い出す。
 「いい見世紹介してやるからなぁ!はっはっはぁ!俺はおめえを気に入ったんだぁ、おっ母さん思いだしよぉ、いい坊主だぁ。おっ母さん似のい~い女に筆下ろししてもらうべなぁ。ぜんぶ、俺のおごりだぁ、心配すんなや。トメゾウも来いよぉ。みんなの母ちゃん似の女べ、死ぬまで抱こうじゃねえかよ!ひっひっひゃぁ!」
 「はぁ、どうも……」
 「いや、あの、ありがとうございます(?)」
 話の雲行きが怪しくなってきたので、二人で困惑していると、
 その女が現れた。
 「動くな」
 鋭く、怜悧な声音。
 吃驚びっくりして振り向くと、女が立っていた。
 長い髪を三つ編みに垂らして、制帽に詰襟の制服を纏っている。警吏けいりの制服である。
 「犯罪者ども、動くなよ」
 まだ若いが、言葉は強く、鋭い。
 女は構えた銃を油断なく三人、交互に向けている。
 拳銃より大きい。
 銃身が三本束ねられていて土管のように見える。水平二連散弾銃を一回り大きくし、短く切り詰めたソウドオフ物に似ていて、銃床ストックも無い。
 「ああん?物騒なもんは仕舞えやぁ」
 流石というべきか、鷹揚に万次郎は侵入者へ命じた。
 「黙れ、ヒマ人。万次郎、貴様には三桁の違法行為が認められる」
 だが相手は警官だ。応じる訳もない。
 「なんだってぇ?いつそんな事したよ?」
 「現に今もこのダ號を不法占拠している。それに、そこの少年を性犯罪に導いていたろう」
 「あちゃあ。聞いてやがったのかぁ。まったく、下の連中は何してやがるんだ。木偶でくしかいやしねぇ。お巡りさんよぉ、おたく、若い衆、いいやつおらんかね?この際、人間でもかまわねえやぁ」
 「馬鹿こけ」
 ちゃっ、と銃の照準が万次郎の高い頭に合わさる。
 「おい、撃つんじゃねえぞぉ。おめえ、そりゃあ、戦時中のメルトキャスターだなあ?払い下げ品使うなんざ、警察もケチだねえ。でもよぉ、此処にはまだ戦時中の砲弾が遺ってんだ。んなもんぶっ放したら、誘爆してみんな御陀仏だかんよ」
 「でまかせを」
 ちっ、と舌打ちする女。メルトキャスターは、白熱化した流体金属のメタルジェットを噴射する火器であり、銃というより手持ちのランチャーに近い。射程距離も短いが、障害物もろとも、あらゆる材質を溶融・貫通・焼却する。この船に砲弾が有るかどうかは別として、こんな所で発砲されたら、三人は骨も残さず即死だろう。オーバーキルだが、ヒマ人を相手どる為に持ち出したに違いない。彼女の本気度が窺えた。
 「ちょっと、落ち着いて……」
 「黙れ、留蔵太郎!」
 「…………」
 怒鳴られ、トメゾウは口をつぐんだ。
 「お前にも大量の容疑が掛けられている。何やら市場で子供と喋っているなと思えば、こんな事とは。クズはクズだな」
 「お、俺を見張ってたのか…………」
 「お前には前科がある。もっぱらイカサマ賭博と窃盗だが……今回は、それだけじゃ済まないな」
 つかつかと歩み寄り、銃口をトメゾウの顎に突き付けた。トメゾウは自然に両手を上げる。
 「未遂ではあるが、保護動物の捕獲、殺傷、売買は現行犯なら銃殺だぞ?」
 ぐい、と銃口をねじられ、トメゾウの頬を汗が伝う。
 「や、やってねえんだから、勘弁してくれよ」
 「して下さい」
 「勘弁して下さい、お巡りさん」
 「ゴミめ」
 銃口を下ろし、トメゾウは安堵の溜め息を吐く。
 それは次にジンジへと向けられた。
 「あ、あの……」
 「聞けば母御の為と言うが、未成年でも重罪だぞ?」
 メルトキャスターは4000℃に達する流体金属を噴射する。成形炸薬弾は主に圧力と速度により装甲を貫通するが、こちらはそれ以前の状態で射出する為に、猛烈な高温となる。それが眼前に…………
 指が無い。
 銃口を突き付けられながら、それに気付いた。
 女には指が足りない。欠損している指がある。
 銃把グリップを握る右手には人差し指が無く、中指を引き金トリガーに添えている。銃身を支える左手には薬指と小指が無かった。というか、手の小指側半分の掌がすっぱりと無くなっている。異様と言っては気の毒だが、異様な三本指だった。
 「あんた、戦場帰りか……」
 トメゾウも気付き、そう口にする。
 「貴様もこうしてやろうか」
 「よせよ……」
 再び銃口を向けられたトメゾウはホールドアップを強調する。
 「ああ、分かった。おめえは、七美ななみだ」
 万次郎の言葉に振り仰ぐ女。
 「ああ、じゃあ、あんたが…………」
 とトメゾウも頷く。
 「何だ?私の何を知っている?」
 「いやぁ、ここいらの裏のもんの間じゃ有名でなぁ。別嬪の女警官べが指が七本しかねぇ。んで七美だと。でもやることは凶暴で容赦ねえから、七本指には気を付けろってなぁ。おめえ、テツさんとこの若ぇの、血祭りにしたんだってぇ?」
 「だからどうした」
 「おめえに報復するって息巻いてんぞ」
 「問題ない。鮑取りの鉄五郎一家は、粛清した」
 「ありゃぁ、こりゃてぇへんだわ」
 言葉とは裏腹に、万次郎はげらげらと笑った。
 「まあ、あんなカスども構いやしねえよ。あんた、いいなぁ。イキのいい女は最高だなよぉ」
 これ見よがしに脚を組む。
 ちらりどころか、ぶえんぶえんと逸物が見えた。
 化け物は更に化け物になっていた。
 「処刑する」
 「待ぁて!待てやぁ、お嬢さんよ」
 「誰がお嬢さんだ、ケダモノめ」
 「いや、あんたぁ大事な事忘れてねぇかぁ?」
 「大事な事?」
 「一番悪い野郎だよぉ」
 「貴様だろう」
 「ばはははは!俺も悪いかもしんねぇけどなぁ、俺よりある意味、悪い奴よ。分からねぇか?その学者先生よ」
 「…………」
 確かに。
 人魚を入手し、あろう事か、飼育しているというのが事実なら……相当な重罪となる。前代未聞だろう。
 「人魚べぇ貴重な生きんだろぉ?それを捕まえて、飼ってるなんて聞いた事ねえ。もしかしたら、最後の一匹かもしれねえぞ?そうさなぁ、長く生きてる俺も数えるほどしか聞いた事ねえし、この目で見た事は一度もねえ。絶滅しちまってるかもしんねえ。そんな人魚の最後の一匹を個人が飼ってる?こいつぁ、どうみてもキナ臭いと思わねえか?自然に帰すか、お国の然るべき施設で手厚く保護するべきだろよ?違うかぁ?」
 尤もだった。
 万次郎という男は、矢張り、一廉ひとかどの人物なのであろう。こういった修羅場も沢山踏んできた事は想像に難くない。
 「……その学者とやらも逮捕するまでだ」
 「訪ねて行って正直に話すかぁ?ん?そうやって力ずくで脅せる相手かよぉ?地位や名誉ある学者に一警吏がそんな事出来るのかねぇ?」
 「ならば本庁の正式な令状をもって……」
 「その間に逃げるんじゃねえかぁ?令状も出るかわかんねぇしなぁ。俺が世話してから数年経つけど、その間野放しっちゅうのはどういう訳だぁ?当局も知っているけど目をつむっているんじゃねえのかなあよ?」
 有り得る。
 そんなものを隠し通せるとも思えない。
 知っていて、見てみぬふりをしている、口を塞がれている可能性は大いにある。
 「ならどうしろと?」
 「こいつらぁ連れてけやぁ」
 ヒマ人の逸物が、ぴょいんとウィンクするようにうごめいた。
 きもちわりー。


 「…………」
 昼下がり。
 ジンジは秋島光照あきしまみつてる博士宅の前に立っていた。
 背後には着物に着替えた七美が控えている。その手は義指の入った手袋をしているので、パッと見は分からない。黙っていれば清楚で綺麗なお姉さんだが、時折小声で(逃げたら殺す)とか囁くので、冷や汗と恋愛感情を一切伴わない胸のドキドキには事欠かなかった。袖に25口径の小型拳銃を隠し持っているらしく、その銃口で時々背中をつつかれるスキンシップが堪らない。
 (打ち合わせ通りにやれよ)
 (は、はい)
 ジンジの抱えた本に力が込もる。
 秋島博士の著書である。古本屋で二十文であった。ジンジは博士のファンであり著書にサインを頂戴したく、姉である七美に連れられて博士のお宅を訪ねて来た設定だった。
 秋島邸は『亞胡屋』を改築したものだった。以前は旅館だったという建物は、三階建てで中々に大きく、広い。あらかじめ、近隣住民に聞き込みして得た話では、この広い屋敷に博士は一人で暮らしているらしい。中には、え?誰か住んでるのか?と答える者すらいた。一人なのはまず間違いないだろう。では一人住まいでなぜこんな屋敷が必要なのか。
 人魚を飼っている話は、にわかに説得力を増していた。トメゾウが下見に忍び込んで、ざっと確認しただけでも尋常ではない防犯カメラとセンサーの数だったという。これでは強引に侵入するのは不可能だ。こちらが罪に問われかねない。
 そこで正面から入り、証拠を押さえる事と相成った。
 七美が博士を引き留めている内に、便所を借りたいと言ってジンジが邸内を散策する手筈である。もし咎められても迷ったとかなんとか言い訳は立つ。
 「ごめん下さーい」
 呼び鈴を押して七美が声を掛けた。
 数秒の静寂、
 「ごめん下さいませー」
 今一度呼び掛けると、奥からどたどたと足音が聞こえて来た。
 程なく、がらがらと間口の広い引戸が開かれる。
 姿を見せたのは恰幅のいい、年の頃、還暦を少し越えたくらいの男だった。部屋着なのだろうが、身形みなりはよく、肌はつやつやとして髪もフサフサとしている。
 「はいはい、どちらさんで?」
 「あの、秋島先生でございますでしょうか?」
 上目遣いに甘い声音でそう尋ねる七美は、先ほどまでの殺すと言っていた七美と何処かで入れ替わった双子に相違ない。軍ではスパイだったのかもしれない。
 「はあ、私が秋島だが?」
 「左様でございますか!実は、わたくしの弟が先生の大のフアンでございまして、こちら、是非ともお尋ねしたいと聞きませんのよ」
 ずずっ、とジンジの背中が押される。その一瞬に中指と親指で背中をつねるのを怠らない。
 「こ、こんにちわっ」
 ままよ、と勢いよく頭を下げた。
 「えっ、ああ、そうなのかね」
 突然の訪問に驚いた博士だったが、少年が手にした本に気付くと破顔した。
 「私の書いた“猿の起源”じゃないか。そうか、そうか」
 己の著書を少年が大事そうに携えているのを認め、さも嬉しそうに老人は、少年の肩を叩く。この好好爺然とした博士が違法な人魚の飼育を行っているとは、ちょっと信じがたい。もしそうだとして、それは純然たる学術的な探求心からの行いであり、下手な公立の機関が保護するよりも良いのではないか?とすら思えてくる。
 「君は生物学に関心があるのかね?いやあ、中々に見所のある少年だ。こんな処では何だ、大したおもてなしも出来んが、お上がりなさい」
 「まあ、ありがとう存じます!良かったわねえ、ジンちゃん!」
 「は、はい」
 博士はまんまと計略にまった。
 ジンジはこの女が怖くて堪らない。


 「うむ、それで猿とは猿でなく、猿にならずに猿となったと私は考えるのだよ」
 応接間にしているという部屋に通された二人は、小一時間に渡り、博士の進化論云々に関する持論を傾聴していた。
 この広い元旅館での一人暮らしでまともに使用している数少ない部屋の一つらしく、小洒落た椅子とテーブルにティーカップが並ぶ。カモミールの薫りが芳醇に漂っている。家具だけでなく、置物なども凝っていて、クリスタルの砂時計に、年代物の柱時計、青みがかった小さな金魚の泳ぐ金魚鉢、灰皿は自然石を研磨した独特の味わいのある一品だった。
 「私は断言するよ。未来の猿は猿ではない。それは猿だ」
 パラパラと猿の起源を眺めただけのジンジには、ちんぷんかんぷんな話で「はい」とか「そうですね」とか無難な相槌を打ってはいたが、一向に話は終わらず、席を外す切っ掛けも掴めずにいる。
 「そうなんですのねえ!わたくしったら、お猿さんはお猿さんなんだとばっかり思ってましたわ!」
 「ふむ。お嬢さんも中々どうして、生き物に造詣がおありですなあ」
 「わたくしなんて、弟の受け売りですのよ」
 艶然と笑い、出された紅茶のカップに手を付ける。
 手袋を外す訳にはいかない。器用に中指でカップのハンドルを摘まみ、ゆったりと口に運ぶ。婀娜あだっぽい仕草で紅茶を啜り、テーブルに戻した時にはこれでもかとカップに口紅がついていた。
 「…………」
 老人の一人暮らしには強すぎる刺激に、博士が戸惑っているのが少年にも分かる。ジンジだってそうだ。これが女の色気か、と息を呑んだが、途端にテーブルの下で足を踏まれ、何も感じなくなった。
 「申し訳ございませんが、先生、御手洗いをお借りできますでしょうか」
 「ああ、どうぞどうぞ。そこの廊下を右に曲がった所だよ」
 「ありがとう存じます。ジンちゃんも失礼なさい」
 促され、ジンジも席を立った。
 「この子ったら、未だにおねしょしたりするんですのよ。粗相したら申し訳ございませんから」
 「わはは!そりゃ大変だ。うちは元々旅館だからトイレは沢山あるんで、幾らでもどうぞ。でも、奥の女子トイレは使ってないから、手前の男子トイレに入っておくれ」
 「はい、承知いたしました。さ、ジンちゃん、行きましょう」
 上手いこと席を立つ口実を作り、二人で応接間を出る。博士は独り身で、お手伝いさんもいないという屋敷の中は、正直汚かった。応接間こそ綺麗だったが他にまで掃除は行き届かないし、当人も開き直って頓着しないのだろう。埃と黴は堆積し、不要品がそこらの隅に置いてある。
 言われた通り長い廊下を曲がると、男子トイレと女子トイレの看板が並んでいる。旅館の頃のままらしい。
 二人で男子トイレに入るや否や、
 「きったな」
 と七美がぼやいた。これが本性だ。
 「よし、成功だ。ジンジ、貴様はこのまま邸内を探索しろ。人魚を飼育出来るような広い部屋、大量の水が置ける場所、運び込める場所だ」
 先程までの花のような笑みを皮膚ごと剥ぎ取り、鋭い眼光でそう告げる。
 「トメゾウが侵入できるようなカメラのない死角も見つけられれば尚よし。本庁の応援に直接、現物を確保させたい」
 敷地内はカメラだらけで、入りようがない。浮浪者を装い、トメゾウがざっと見ただけでも、全周囲360度隙間なく監視されているらしい。尋常ではない。
 「行動開始だ。私はあのタヌキじじいを引き留める。最低、三十分は引き伸ばす。証拠を見つけて戻って来たら、言い訳は、そうだな……何か生き物の音がしたから、と答えろ。いいな」
 「は、はい」
 「おっと、逃げるなよ」
 釘を刺すのを忘れなかった。


 証拠──────
 つまり人魚そのものを探す。
 この屋敷に果たして本当にいるのだろうか。
 トイレから出たジンジは、小走りに廊下を進んだ。
 まさか一階のすぐ近くにはいるまい。
 かと言って、二階三階にそんな大きな水槽だかがあるとも思えない。一番、有り得るのは浴場ではないか?と、事前に七美、トメゾウと話していた。
 その浴場を目指す。
 藤の間、椿の間、桔梗の間、間間間間間間…………
 一階、奥に大浴場は在った。
 ここか、と息を呑み、そっと引戸を開ける。建て付けが悪く、嫌な音がした。なるべく鳴らないようにそっと開ける。
 中は更に男湯、女湯に別れていた。
 取り敢えず男湯へ…………
 何となく女湯にいるように思うが、一応確認する。
 男湯は、博士が日常で使っているらしく、お湯こそないが、湿っていた。矢張り、ここにはいない。
 女湯だ。
 女湯という禁忌に潜入する事へ躊躇ためらいながらも、足音を忍ばせて、暖簾を潜る。
 女湯は…………
 廃墟だった。
 何もいない。
 どころか、
 蜘蛛の巣が張り、乾ききっていた。

 (ここじゃない……)

 あてが外れ、早くも途方に暮れる。
 もう、しらみ潰しに漁るしかないか。
 人魚がいそうな所…………分からない。
 何処か一間を改装して水槽を置いているのだろうか。
 いや、ならば浴場を使う方が容易いだろうに。けれども、此処にはいない。
 さっぱり分からず、ちょっと涙が滲む。
 人魚を見つけられなければ…………
 不法侵入、違法捜査?
 そして、母は死ぬ。
 頭痛と涙でふらつきながら、ジンジは女湯を飛び出し、駆け出した。


 「弟さん、遅いねえ」
 応接間。
 博士はそう言って柱時計に目をやった。ジンジがトイレに行ってから三十分近く掛かっている。
 「まったく、あの子ったら、申し訳ございませんわ」
 「道に迷ったのかな?」
 と立ち上がり廊下を覗く。これには七美も内心慌てた。
 「あの、先生」
 「ん?」
 振り向くと、七美が立ち上がり、するりと着物の裾をからげ、脚を出していた。
 「……正直に申し上げます。実は、先生に御用がございましたのは、あの子ではありませんの」
 「……ど、どういう事だね?」
 「わたくしこそ、先生のフアンなんですの」
 と襟を広げ、胸元を示す。
 「き、君が??」
 「わたくし、先生様の素晴らしい進化論をこの身で体験いたしとうございます」
 そそそ、と近付き、七美は博士の腕に己の腕を絡め、密着する。
 「素晴らしい遺伝子を残し、進化論の一端になりたくて、弟をダシにしましたの」
 「…………」
 ごくん、と博士の喉が鳴る。
 「はしたない女と軽蔑なさっておいででしょう………」
 三本しかない左手の指が、つうっと博士の太鼓腹を上下する。それが次第に下へ、下へと移っていく。
 「あ、いや…………」
 「先生と進化論、試しとうございますわ」
 首筋に吐息を吐くと、博士はびくんと飛び上がった。
 「き、きみ、あ、その、ちょっと落ち着きたまえ!その、気持ちは分かったから、ちょっと座りなさい!」
 七美の肩を掴み、強引に椅子に座らせる。
 「はぁ、わたくしったら……おいやですのね」
 涙を滲ませる。
 戦地メッカダールで敵軍に潜入し、将校に取り入った日々に培った手腕だ。あの頃はまだ未熟で、ボロを出してしまった。結果、回転ノコギリで拷問され指を失ったが、あんなヘマはもう二度としないと七美は誓う。
 不自由な体となった今こそ、何を犠牲にしてでも手柄を立てたいし、出世したい。失ったものを取り戻したい。
 こんな世の中を、下らん人間たちを、是正したかった。自分が命を睹した、犠牲を払ったこの社会から、つまらん人間を一掃し、価値あるものにしたかった。
 「嫌じゃないが、君のような若い人と、その、順序があるだろう……なんというか、ちょっと落ち着こう」
 早い話が奥手で堅物なのだろう、と七美は内心せせら笑う。
 「ああ、お茶を淹れ直そう」
 博士はポットを手にした。
 これであと三十分は伸ばせる。


 いない、
 いない、
 いない、
 いないいないいないいないいないいないいない!!
 何処にもいない!!!!
 「はあっ……はあっ……」
 息切れする。今や足音もお構い無しに、ジンジは屋敷内を駆け回り、部屋という部屋を家捜ししていたが、さっぱり人魚の形跡は見つからなかった。
 一階は勿論、二階も端から端へ確認したし、三階も粗方、確かめた。それでもいない。使われた跡すらない部屋ばかりで、たまに使っている部屋があっても、物置きだったり、書斎だったりするばかりで、これっぽっちも人魚どころか、鰯一匹いやしない。
 いない。
 いない。
 いないとどうなる???
 このまま引き下がるしかないのか───────
 焦燥に駆られた少年は、何処かで微かな歌声を聴いた。


 「ちくしょー、何をしてやがるんだ」
 トメゾウは苛立っていた。
 あの屋敷に二人が上がり込んで二時間は経つ。
 遅い。
 成果が出ないなら、一端、戻ってくるべきだろうに。今度お礼に、とかなんとか言って、次の機会を狙えば済む話だ。
 あの屋敷が尋常でない事は、盗人稼業のトメゾウには厭という程分かる。関わってはいけない類いの金持ちの屋敷そっくりだ。具体的には、家人に犯罪者がいて匿っているとか、世間に顔向け出来ない関係を結んだ親子とか、そんなのに似ている。
 何かは、間違いなくある。
 あるが、分からない。
 外見上はボロ家だった。
 ひょっとして、地下室があるのか?
 ならば頷けるが、それこそ知りようもない。
 此処を改築した大工にでも金を握らせて吐かせるくらいしかない。
 遅すぎる。
 カメラだらけなので、様子を見に近付く事も出来ない。
 それにあの女のあの功名心も異様で、怖かった。
 万次郎もろとも、ちょっとは名の通った自分を逮捕しようと付け狙う。ヒマ人と戦争になるかもしれないリスクをものともしない。怖い女だ。
 その秋島博士も逮捕しようと躍起になっているのだろう。だが、もういい加減にまずい。早くずらかった方か いい。こんな事に、ジンジを巻き込んで欲しくなかった。
 トメゾウはジンジの母に惚れていた。
 ジンジが十二歳だと言うが、一体、何時の子なのか、まだ二十歳くらいにしか見えない。七美より若いかもしれない。長屋の連中は、美人の寡婦やもめに鼻の下を伸ばしたが、本人はいたって物静かで、どこか希薄というか、透明な雰囲気の浮世離れした人だった。
 働いている風ではないが、旦那さんの遺産があると見えて、それなりには暮らしている。
 慎ましいその有り様も好ましかった。
 ジンジの事も。
 亡くしたせがれに似るような気がする。トメゾウは若い時分に、遊女に産ませた赤子を死なせていた。
 若かった。
 悪かったとも思うが、どうにもならない。
 ジンジと、その母ちゃんと、三人で慎ましく暮らしたかった。
 賭博も、酒も、泥棒も、縁を切って人生をやり直す何かの骨組みが欲しかった。
 こんな処で逮捕されたくはないし、ジンジに片棒を担がせるのも納得いかなかった。
 上手いことずらかりたい。
 早くしろ、早くしろ、早く早く早く…………
 別の土地に逃げて、もっといい医者に見せればジンジの母も何とかなるかもしれない。
 「ちくしょうめ…………」
 トメゾウは苛立っていた。
 何よりも己自身に苛立っていた。
 トメゾウはジンジに失った少年時代を視ていた。


 「ああっ、ちょっと…………」
 「わたくし、熱があるのかしら……生物学的には平熱でしょうか、先生?」
 博士の手を掴み、それをはだけた着物の胸元へと導き、挟み込む。
 予想外の谷間の熱に博士の手が震えるのが分かる。
 “勝った”
 と七美は笑みを浮かべた。
 これでもう、博士は七美の言うがまま、たぶらかし放題だろう。
 「せ、生物学ったって、それはむしろ医学だし、医学は専門外で……」
 「あら、このドキドキが聴こえません事?」
 博士の頭を抱えこむ。
 細かく震えながらも博士は抵抗しない。
 「ほんらこといへないよ……」
 「生物学の実験ですわよ」
 「こんらじっへんは……」
 「いけませんの?動物でも交尾するじゃありませんの?」
 「それはそうだが……」
 やっとこさ胸から脱出した博士が、よたよたと椅子にもたれる。七美は股を割ると、その膝の上に股がった。
 「ねえ、仰って」
 「な、何を?」
 「博士はどんな生き物がお好きですの?犬?猿?鳥?魚?」
 「私はなんでも好きだがね……」
 おほん、と咳払いをして顔を背ける。
 「人間の雌はおいや?」
 「そ、そんなことはないが……」
 「動物がお好きでしたりして」
 「き、きみ、失敬だな……そんな風には動物を見ておらんよ」
 「う。そ。」
 唇が触れる。
 その首に腕を回した。
 「お魚お好きでしょ?」
 「好きは好きだが君の言うような意味では好いとらん」
 「まぁた嘘」
 「嘘じゃない。君こそ嘘つきだ。君は何者だ?」
 「わたくしは先生のただのフアンですわ。普段は警吏ですけど」
 「そうか、警察か…………」
 「驚きまして?この界隈の反社会的な人物や組織をぶっ潰したりぶち殺したりしてますのよ。ほぉら」
 と袖から拳銃を取り出し、テーブルに置いた。
 「私も容疑者かね」
 「せいかーい!先生を捕まえにきましたの。珍しいお魚さん飼ってらっしゃるそうね」
 「…………人魚か」
 ついに出た。
 言質を取った。
 「この手はどうしたね?」
 「わたくし、元軍人ですの。捕虜になりまして、このザマですわ。どうぞ、笑ってくださいまし」
 (あれ?
 何を喋ってるんだろう?)
 と七美は怪訝に思った。
 「そうか。気の毒に」
 「どうしてわたくしの手が分かりまして?」
 「トイレに行ったろう?女性がトイレに入って手を洗わない訳がない。男子トイレの手洗いは水道が壊れてるんだ。手洗いだけは女子トイレを使うようにとそれを言い忘れたんだが、君は何も尋ねなかった。手を洗わずに手袋を嵌め直したとは考え難い。ずっとその手袋をしたままという事になる。指紋を残さないようにしてるのかと思ったが、さっき、私に触れた時、薬指と小指が動かなかった。人間の手の腱は連動しているんだ。中指を曲げたのに薬指側が全く動かない訳がない」
 「そうでしたの」
 するりと七美は手袋を外した。
 切断された両手が露になる。
 「醜いでしょう」
 「そんな事はないよ」
 「人魚の骨なら治るかしら」
 「…………分からない」
 「肉ならいかが?」
 「…………可能性は、ある」
 (あれれ?
 なんでこんな話を?
 捜査すら大義名分で、本当は自分も人魚を手に入れて食したい事がバレてしまう、というか言っちゃった?)
 七美は不思議に思いながらも語った。
 「ねえ先生、人魚を飼ってらっしゃるなら、下さらない?お返しになんでもいたしますわよ」
 「……人魚はね、確かに強烈な再生能力や不老長寿をもたらす。だが、それは君の考えてるようなものじゃない」
 「てことは、やっぱり人魚をお持ちなのね」
 「……ああ」
 「たいほしてやるう!あははははは!」
 「それは困るよ」
 「わたしく、あみゃわりさんれ、れれ?」
 「薬が効いたね。紅茶に薬を入れさせて貰った。昔、人魚について網本や船乗りを問い詰めた時に使った自白剤みたいなものだ。屈強な漁師も踊り出す代物だが、君は強いな。随分と訓練されているようだ」
 (なあんだ。そう言うことか。道理で変な気分な訳だ。また失敗しちゃった。また手を切られるのかな。今度は足かな。足を切られたら人魚になったりして。もう、人間をやめたい)
 ぐるぐると七美の視界が回り、ぐにゃぐにゃと歪んでいく…………
 「ろ、ろこに人魚が……???」
 「人魚なら此処にいる」
 博士は応接間の壁際に置かれた金魚鉢を示した。
 「さて…………」
 七美の拳銃を手にする博士。
 「お言葉に甘えて実験をしてみようか」


 『あれぁ~せんのじまだぁ~ふだらくのぉ~なみのまにまに~しでのふなたびぃ~』
 微かな歌声が聴こえる。
 女の声だった。
 ジンジはそれに気付いて、耳をそばだてる。
 一体、何処から……?
 どの部屋だ……?
 違う。
 「…………」
 上た。
 ジンジの目に非常階段が映った。


 「何してやがんだっ!」
 トメゾウは吐き捨てるように叫んだ。
 夜になる。
 我慢の限界だった。
 着流しを脱いで、褌一丁になる。
 七美に預かっていた荷物からメルトキャスターを取り出す。両手首に手錠を掛けられてはいたが、どうにか扱えるだろう。
 押し込みはしたことがないが、迷っていられない。
 何かあったのだ。
 最悪、バレて、ばらされているかもしれない。
 いてもたってもいられない。
 トメゾウは路地裏を飛び出し、屋敷に走り出した。


 「…………なっ…………」
 なんだ此処は。
 非常階段を上った先にあったもの─────
 それはプールだった。
 亞胡屋の屋上は、ルーフの張られたプールだった。
 パイプが幾つも並び、汽水を循環させる為に稼働している。楕円形の、かつては家族客で賑わったかもしれないプールに、それはいた。
 『さいほうじょうどのぉ~はすのいけぇ~』
 か細い声。
 女、それも少女の声だった。
 確かに少女、女の子かもしれない。女の子っぽくはある。
 だが、大きい。
 プール一杯の体をうねらせ、波打たせている。
 小型の鯨か、鮫くらいあった。
 蒼く、碧い、青々とした皮膚はぬめっており、どこからが下半身でどこまでが上半身なのか判然としない。
 下肢はなく、尾鰭であった。
 肩から伸びたそれは、腕なのか胸鰭なのか。
 肩まで伸びた髪の毛こそ鰭のようで、人面ではあるが、人ではない顔立ちをしている。
 これが、
 人魚───────────────
  

 “化け物だ”

 ジンジに感動も感慨もない。
 膝が震え、歯がカチカチとなる。
 物凄く、怖い。
 一目散に逃げ出したい衝動に駆られた。

 「おお、ここにいたのか」

 声を掛けられ、飛び上がった。
 振り返ると、博士がいた。
 「あ、あ、あ…………」
 言葉が出ない。
 「あおの姿に驚いたかね」
 ふふん、と何処か嬉しげに博士は語る。
 「そう、この雌豚に全部聞いたよ」
 と、引き摺っていた七美を足元に転がす。着物ははだけられ、申し訳程度に羽織っているに過ぎない。唇からは血が滲み、頬は腫れていた。何をされたか、ジンジにも分かる。
 「す……まん……に……ろ」
 呂律が回らないのか、七美はそう口にするだけでも精一杯らしい。
 「なかなか良かったが、所詮は人間だな。あおには敵わん」
 七美から奪った拳銃の銃把グリップで、博士は七美の背中を殴った。ぐう、と呻いて、七美が地べたに突っ伏す。
 「私とあおの愛の巣に踏み込みおって。おまけに、あおを魚だの動物だのとさげすむ無礼者めが」
 更に蹴りを入れると、七美は反吐と血を吐いた。
 「あ、愛の巣??」
 「そうとも。確かに最初は研究目的であおを手に入れた。だが、少しずつ成長していくその姿に、父親のような気持ちになり、それはやがて恋人となった。今や、かけがえのない人生の伴侶だよ」
 狂ってる。
 「あおのあそこは最高だぞぉ!溺れそうになるのがちょいと難点だがなぁ。はっはっはぁ!」
 イカれてる。
 「お陰で、子宝に恵まれっぱなしだよ!」
 「こ、子宝?子供が出来たんですか?」
 「うむ。稚魚がな、一度に何百匹も産まれるのだ。これがまた愛らしくてなあ、応接間の金魚鉢にもいたのに、気付かなかったようだね」
 世間や警察から隠れていたのではない。
 隠す気すらないのだ、この狂人は。
 「かわいいし、美味うまいし、最高だぞ、私たちの小魚は」
 「うまいだって……?」
 「人魚が美味というのは有名だろう。研究の為にと、涙をのんで口にしたのが最初、今では病みつきでな。晩酌の肴はいつも稚魚だな」
 食べたというのか。
 我が子ではないのか。
 「政財界や法曹界の方々にも好評頂いている。稚魚はビジネスにもなるんだ。親孝行で有り難い限りだよ。ああ、警察庁に言っておかんといかんな。お宅の警官に近寄らんようにと」
 再び、博士は七美に蹴りを入れた。
 「尤も、稚魚に不老不死の薬効はないのだよ。ちょっと滋養がついて若返る程度だ。だから、残念ながら、君のお母さんを助ける事は出来ない。ああ、この淫売から聞いたよ。よく喋る豚だ。あおを見習ったらどうだ」
 またもや蹴る。
 七美は動かない。
 肋が折れて内臓を損傷しているのか、ぐったりとして吐血している。
 「……あんたは化け物だ……」
 震える声でジンジは口にした。
 「ほっほう」
 笑い、博士はプールへ近付いた。
 すぐにするすると泳いで“あお”と呼ばれる人魚が近付いていく。おかと水でじっと見つめ合うその光景にロマンチックなどという要素は微塵も無く、パクパクと金魚よろしく口を動かすその姿に、知性、知能は一切感じられない。顔は人間だが、人間らしさが欠けていて、硝子玉がらすだまか陶器にも似る、畜生にも及ばない魚の目をしていた。
 「人魚は完璧だ。完全な生命体だ。それに比べれば、人間なんぞみんな出来損ないの化け物だよ」
 あおに手を伸ばす。
 「どうして人魚は雌か分かるかね?確かに、半魚人とか人面魚とか呼ばれるものには雄がいると言う。だがそれらは厳密には人魚ではないし、所詮は迷信、伝説だろう。実際の人魚には雌しかいない。彼女らは寄生生物なのだ。魚や鯨に寄生し、長い月日を掛けてその体を乗っ取り人魚となる。人魚の本体は肉眼に見えない微生物なんだよ。それが食べられたり、血液や、性行為によって伝播し、徐々に体を乗っ取り、作り変えて、人魚になる。クローンと言ってもいいな。宿り木とかに近いかもしれん。だから雌しかいない。雄が必要ないのだ。土台、上半身が人で下半身が魚なんて、自然界にいる訳がない。海では弱者もいいとこだろう。あり得ない進化だ。彼女たちはね、突然変異の形のない産物なんだよ。だから、誰でも人魚になり得る。どんな生き物も、いつかは同化して支配し得る完璧な存在だ。食べると不老長寿になるとは、つまりは寄生されている事の副産物なんだ。ちょっとくらいでは肉体的な変化に乏しいがね。日常的に体液に触れている場合は、いずれは人魚になるだろうな」
 「じゃあ、だ、だって、それじゃ、あんたも……」
 「そうだよ。早くあおになりたいものだ」
 うっとりと狂人はその伴侶、若しくは支配者を見つめる。
 「彼女たちは何処から来たのか……何時からいるのか……訊ねても答えはない。彼女たちはただ生きる為だけの存在に徹する事で、不要なものを捨て去り完全となった。進化の到達点だ。実に美しい」
 生命の流れのその先は白痴であるというのか。
 人面の魚は、どういう感情も感じられない相貌で、頭を撫でられている。
 人間から人間らしさという鱗を削ぎ落とした顔だ。
 人間に擬態しているとすら感じる。
 人間と思えない。
 人間なら何か言え。
 私は私だと叫べ。
 「君らには色々、知られてしまったな……すまんが、砕いてあおのエサにさせてもらうよ。悪く思わんでくれ」
 化け物が拳銃を向ける。
 殺人すらも造作ない。
 遺体は恋人に食わせて万事解決という。

 愛とは狂ふことなのか。

 「……ちくしょうっ……」
 ジンジが呻いた。

 ゴバアアアアアッっっっ─────────

 突風とひょうが叩きつけられたような音がした。
 熱。
 蒸気。
 火炎。
 火の粉。
 亞胡屋の側面、外壁が吹き飛び、炎上していた。
 半壊したプールから水が溢れ出し、高熱の蒸気がもうもうと立ち込め、飛び散る火の粉は水に落ちては消えていく。
 “あおおおおおおおおおおおんんん”
 人魚が恐慌をきたして奇声を上げる。
 屋根は落ち、建物自体が軋んでいる。
 「な、なんだァ!!!???」
 博士も混乱し、狼狽うろたえる内に床が大きく傾いた。

 ✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕

 博士と人魚の城が崩落した。
 建物の2/3が崩れ、バラバラになった。
 粉塵と轟音、炎が全てを蹂躙する。
 近隣から混乱の声とサイレンの音が響く。

 「ぐっ……いってぇ……」
 屋上にいたことが幸いだったのか、ジンジは大きな怪我は負っていなかった。瓦礫と炎の中、倒れている七美が目に入る。
 「大丈夫?」
 「大丈夫なわけあるか……」
 重傷だろう。
 それは博士に負わされた傷であるが。
 「早く逃げないと!」
 「ああ……」
 はだけられた着物から裸体が目に飛び込み、一瞬戸惑うが、そんな場合ではないと己に言い聞かせて、ジンジは肩を差し入れた。半ば、七美を引き摺るように歩き出す。
 煙の中、裸の男がいる。
 トメゾウだ。
 トメゾウは凄まじい硝煙を吐き出しているメルトキャスターを構えて、ぶるぶる震えていた。
 「トメさん!」
 「お、おうよ」
 声も震えている。
 「貴様が撃ったのか……」
 ちっ、という七美の舌打ち。
 「だ、だって、お前ら遅くて助けに行こうとしたら、入り口に鍵掛かってるし、どこも閉まってやがって、そこら中、二重の鍵だし、用心棒までしやがって、いっそ、壁を壊してやろうと思ったんだけど……こ、こんなに強力だなんて」
 怖かったよー、とトメゾウは泣いた。
 「いや、いい。助かった」
 「そ、そうかい?」
 「さっさと避難しよう……私も深手だ」
 「お、おう、手をって、この手錠なんとかしてくれ」
 「後でな……此処は、人外境だ」
 トメゾウが手を貸そうとした刹那、、、、、

 “いえええええええエエエぇぇぇぇんん”

 夜闇を切り裂く悲鳴、或いは雄叫びが響いた。
 驚き、見れば水を失い、その上、瓦礫に潰されて白い内臓をぶちまけた人魚がもがいている。
 タールのような血を吹き出させて。
 「なななななんだあれ……」
 「人魚だよ!」
 助けるべきか、助けるも何も、助けようもない。
 諸悪の根源のようでもあるし、意思の疎通が出来そうにもない。かと言って、止めを刺すのも躊躇われた。
 「不様な……」
 ずるべたと尾鰭をうねらせる人魚を見つめ、吐き捨てるように七美は呟いた。
 滅びるべくして滅びる生き物なのかもしれない。
 博士は進化の到達点のように語ったが、ならば、何故希少な存在であるのか。乱獲しようにも、見つからない。彼女らの衰退に、人間はほぼ関与してはいない。
 “突然変異”
 消えゆく異形。
 腫瘍のようなものだった。
 「応援か…………」
 サイレンが近付いてくる。
 人々の声がする。
 炎は明るく、闇は深い。

 「あおぉおぉおぉおぉぉぉ!!!!」

 瓦礫の中からふらふらと博士が現れた。
 顔半分が潰れている。
 博士は人魚にすり寄るが、最早、どうにもならないと悟り、泣き叫んだ。
 あおの方はどうだか知らないが、博士の愛情だか固執だかは本物に違いない。
 愛故にか──────
 狂っている。
 愛とは狂ふものだった。

 「おのれええええ!!」

 ずるり、と潰れた頭蓋から何かが盛り上がった。
 脳ではない。
 顔だった。
 魚の顔、あおの顔だった。
 人魚の餌食だ。
 いびつに飛び出た魚の顔と、博士の顔と…………
 「私の私の私の私の私私私のあおをあおあおあお愛しい愛しい人魚の私のあおあお人魚を愛しい私をよくもぉぉぉぉぉお!!!!!!」
 歪んだ怪物は、よく分からない咆哮を上げる。
 水中から叫び声を上げるように。
 「進化の行き詰まりめらぁ!!」
 博士が握ったままだった拳銃を構える。
 片方しかない目で狙い、引き金トリガーを引く。
 ぱんぱんぱんという音。
 一発がトメゾウの胸に当たり、彼は仰向けに倒れながらメルトキャスターを七美にほうった。
 それを受け取り、構える。
 再びぱんぱんぱんという銃声。
 腹部に被弾しつつ七美はメルトキャスターを博士に向ける。

 放った。

 ✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕

 摂氏4000℃の白熱にかれ、博士は消えて失くなった。

 ✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕

 二連射。
 人魚の巨体が炎に包まれる。
 全て終わった。
 「あぐぅぅ……」
 七美が腹部から景気よく吹き出す血を見て悶え苦しんだ。傷口を手で押さえるが、足りない指の間から破裂した水道管のように出血は止まらない。
 トメゾウはと見ると、目を見開いたまま既に事切れていた。
 再び七美を見やる。
 彼女の動きは次第に緩慢になっていく。
 「……っ……ょ……」
 何と言っているのかも分からない。
 涙を流していた。

 「…………」

 炎が勢いを増す。
 今や火炎地獄。
 屋敷の殆んどが燃え上がっている。
 ジンジは、
 逃げ出した。

 走る背中に

 『ミナゴロシ』

 と聞こえたのは幻聴と願った。


 「そうかぁ。大変だったなぁ」
 夜半過ぎ。
 ダ號へと戻り、事の次第を報告すると、万次郎はそう言って深い溜め息を吐いた。
 「やっぱり人魚なんてぇのは、災いべぇよぶんかもしれねえなあ」
 と、唸る。
 「おめえも気の毒によぉ。あれだ、おっ母さんは俺がいい医者紹介してやるから元気だせや」
 「……はい」
 「はぁ、しかしトメゾウもあのお巡りさんもくたばっちまったとはなぁ……呆気ねえもんだ。おめえも草臥れたろぉ。今日んとこは家に帰って寝ろや。警察べぇ来たら俺んとこ来いよ」
 「ありがとうございます」
 ぺこりと一礼して、ジンジはダ號を後にした。

 二人の死はショックだったが、それ以上に人魚の死はショックだった。あの炎では骨も残らないだろう。
 七美は何故、人魚を殺したのか。驚いたのは驚いたが、何となくその理由は分かる気がするし、納得もしている。あれは葬るべき存在だ。
 ただし、
 もう、人魚を食らう手立てはない。
 ジンジの目的は、人魚の肉を食らう事だった。
 そうして不老長寿となり、
 今日まで己を虐待した八百比丘尼やおびくにを逆に苦しめてやる事が目的だった。
 母は歳を取らない。
 一体、何百年生きているのか。
 聞けば、大昔、若い頃に人魚の肉を食べたのだという。
 だがそれも最近、効能が切れつつある。
 寿命が訪れたのだ。外見も急速に老化している。今や、ばばあだ。
 母はジンジに人魚の肉を手に入れて私を延命せよ、とおぞましい指図をする。老いに伴う種々の病は耐え難く、鏡に写った己の姿は絶望らしい。
 数百年を生きて尚、生にしがみつく、その浅ましさ。
 永遠の命を求める貪欲さに、吐き気がした。
 人魚はいるのはいる。母がその証拠だ。だが、どうやって手に入れるか──────
 手に入れたとして、ジンジはそれを横取りし、目の前で食ってやる事が目標だった。
 何なら、母にも少量食べさせ、同様に長寿となって、苦しめ続けてやろうか。少量なら若返りはすまい。あちらは老人だ。虐めるのは容易い。そうして何百年も責め苛むのもいい。
 これまで捨ててきた幾人もの父たちに母がしたように。
 全て虫けら、奴隷か道具としか見ていない母は、崇め奉り、身を粉にして尽くしてくる男たちを、家畜のように扱った。
 ジンジの実父さえも…………
 自分が生まれたのは、ろすのが間に合わなかったし、大変だし、そして気紛れにすぎない。
 “間違って産んだ子”と母はジンジに言った。
 そんな憎い母を永遠に近い時間、苦しめる。
 「くそっ」
 ジンジはそんな明るい未来を描いていた。
 だがそれももうついえた。
 もう母を生き永らえさせる事、苦しみの余生を生きさせる事は叶わない。
 しんば人魚が生きていても、あんな化け物を口にしたくなかった。あんなものに寄生されるなんて真っ平だった。案外、母には長命のみならず、あれの影響もあって、あんな人となりなのかもしれない、、、、、、 
 なれば尚の事、躊躇いはない。
 
 “母を殺そう”

 人児ジンジは家路を急いだ。


 「んん……」
 万次郎はコレクションに新たに加わった一品、少年の十徳ナイフを眺めていた。
 趣きがある。
 暫くの間いじくりまわし、満足してそれを瓦落多がらくたの山の一番上に置いた。

 その途端、
 
 がらがらがんがんがんがっしゃん!! 

 「おおっ!?」
 ゴミの山が崩れた。
 雪崩を起こし瓦落多どもは、船内を転がり、ぶつかり、それに当たった。
 無造作に置かれていたそれは、

 プラズマ拡散気化弾頭───────

 老朽化し、朽ちて錆びたその雷管が作動した。

 次々に誘爆する。

 閃光────────────

 命あるものは必ず死が訪れるし、形あるものはいつか必ず壊れる。
 失った昨日を取り戻す明日は来ない。
 今日あるさいわいを活かせる者は何処いずこ
 人魚取りは、
 永遠の命から限りなく遠い。

 その日、1000000℃の熱線と爆風の鼠算ねずみざんによりいちは消えて無くなった。




(了)


  

 


  
 

 
 

 

   

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