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タッチングザヴォイド感想

タッチングザヴォイド感想(2024/10/14PARCO劇場)

※ネタバレなど気にせずに書いた感想なので未観劇の方はご注意ください


タッチングザヴォイド〜虚空に触れて〜を見てきました。2024/10/14だからプレビュー公演の初日から1週間弱というところか。

今回が初観劇だったので変更点などわかりませんが、それでも毎日全然違ったものになるんだろうなというのは実際の登山のシーンで強く感じました。


正門くんジョーが少し足を滑らせたり、カラビナを取り付けるのに苦戦していたり、っていうのはお芝居というよりリアルなその場その場の人間の生の姿という感じがしたので、そういう段取り的な部分も変わるとお芝居にも影響があるんだろうなと。


個人的にまだこのお芝居を、物語を自分の中で咀嚼しきれていないのですが。

今のところ、虚空という何もないがらんどうの空間でありながら、仏教用語としては全てがある空間という意味もある、そんな生と死の狭間というのか、そんな虚ろな場所でジョーが見た夢と現実が入り混じったような話なのかな?という印象です。

あのジョーの追悼パーティー場面がまさに生と死の狭間の世界なんだろうなというか。

サイモンがジョーに手渡したビールをセーラがとりあげて捨ててしまうのはそのビールが黄泉戸喫(よもつへぐい)になるからなんだろうなと。

パンフレットで演出のトム・モリスさんがセーラは黄泉の世界から妻を連れて帰ろうとするオルフェウスのような役割みたいなことを言ってたけどまさにそれだなと。

あのビールを飲んでしまったら、黄泉の世界のものを口にしてしまったら二度と生きては帰れなくなってしまうからなんだろうなと。



セーラはジョーの中のもう一人の自分なんですかね。

生きようとする自分の精神がセーラの姿として目の前に現れているんのかなと。

セーラ役の古川さんはドラマのアイドルで見た時は可憐なまっちゃんだったけど、今回はなかなかハードな性格の激しい感じのお姉ちゃんで、ちゃんと正門くんのジョーより年上に見える貫禄があってかっこよかったなー。


なぜ生きるのか、なぜ生きなければならないのか、の答えはもうジョーの中に最初からあるんだろうな。

それは山に登ることと同じで、山に登らないほうが変だとジョーが言うのと同じように、命があるならば生きようとしないほうが変だ、おかしいという気持ちがジョーの中にあるからこそ、それがセーラの姿になって現れるんだろうなと。


雪山で死にゆく正門くんの姿がリアルすぎるというか、苦しむ芝居がうますぎるよな、この人。

肉体的に苦しむ芝居がうますぎるからこそ、ジョーの夢の中の自分の追悼パーティーに参加している時の穏やかな、言わば死後の世界に片足を突っ込みかけている魂だけの存在になった抜け殻みたいなジョーとの落差がありすぎて、あそこの場面がいちばんゾクッとしたかも。

同じ人間の肉体と魂の有り様を瞬時に演じ分けてるんだ、という衝撃がありましたね。


あと分かってたけど正門くんは声がいい。

ヴィンセントの時もアーシュラに対して信仰について話すときの熱に浮かされたようなトーンの声がすごく好きだったけど、今回はセーラに山について話す時、サイモンに次の登山の計画を話す時のやっぱり少し陶酔したようなトーンの声がすごく好き。

正門くんがダ・ヴィンチのインタビューで自分は「芝居の本番中毒」かもしれないみたいな話をしてましたけど、まさにそのヴィンセントなら信仰について、ジョーなら登山について、何かしらの中毒状態になってる時の声のトーンが本当にいい。

何かに狂ってるような、そういうお芝居してる時の正門くん好きなんだよな。

「本番中毒」になるくらいお芝居にのめり込めることは正門くんの得難い才能の1つで、その気持ちがあるからこそ舞台の神様に愛されているのだろうとも思うので、本当に本人のいうように毎年舞台のお仕事があるといいなあとファンも願っております。



映画を見てから舞台を見に行ったんですが、映画版の中の「岩肌につたう雪水を直接岩に口をつけて飲むジョー」と「キャンプの近くまで来て服を着たまま失禁してしまうジョー」の姿っていうのはアイドルとしての正門くんでは絶対に見られない姿だろうから舞台版の中で見られないかなー?とちょっと期待してたんですけど、映画版より少しマイルドな表現ながらもそういう場面も見られてそれも良かったなー。生々しい人間の姿を正門くんから感じ取ることができた。


山に登る前には山で死ぬなら仕方がないというか、山で死んだ登山家の生き様に対して「見事だ」と言ったりとかサバサバとしてドライな一面が強く見えていたけど、実際に遭難して足を骨折して身動きがとれなくなって間近に死が迫った時には「死にたくない」って言ったり、なんかやっぱり人間って思う通りには生きられないし、思う通りには死ねないんだよなという当たり前のことをジョーを通して改めて認識するなどしましたね。

他人の死を「見事だ」と言えても自分の死には「見事」なんて言えないよな。

ジョーの中の相反する感情をはっきり表すための存在としてセーラが必要なんだなあと。


セーラへの手紙の中で「サイモンのこともリチャードのことも正直嫌い」ってジョーが書いてるところも好きだったな。

「正直嫌い」な相手をクライミングパートナーとして命を預ける相手にするんだ、っていう驚きもありながら、でも命を預けるからこそ好きとか嫌いとかで選ぶものではないってことなんだろうなとも思えたし、信頼はできても好きと嫌いとかそういう感情の部分はまた別なんだなーと思うとクライミングパートナーって本当に不思議な関係なんだなあと。


ビバークしてる時にサイモンがジョーに「紙タバコを巻いてくれ」って頼むシーンでジョーが「俺のほうが巻くのが上手いから?」とかちょっと冗談ぽく言い返すと、サイモンが「凍傷で指が動かしにくい」って答えるところも好きだったな。登山家ってそういうものなのか、ずっと冗談みたいなやりとりしてたのにここで急に「凍傷」って生々しいワードが出てきて死が隣り合わせなことを一気に客席側にもわからせられるというか。


サイモンも何となく掴みどころがないというか、サイモンに限らず登場人物全員みんなあまり内面を見せないんですけどサイモンは特に見せてない気がしましたね。

だからこそリチャードがギターを弾きながら歌ってるのを「やめて!」って強めに止めるところが、仕方がなかったとはいえジョーを見殺しにしてしまったサイモンの苦悩がそこにこもってるみたいで辛かった。

サイモン役の田中さんは朴訥として淡々とした声がすごくサイモンに合ってたなー。


リチャードもたまたまそこに居合わせただけみたいな人だからジョーのことについて語る時に良くも悪くもデリカシーがないというか、たぶんジョーがリチャードを嫌いなのと同じように、リチャードもジョーのこと嫌いだったんだろうなーと笑

なんかそれがいい感じの軽さ、明るさになっててよかったですね。感傷的じゃないところがいいなと。


映画版だともうジョーが帰ってこないと判断したサイモンがジョーの服を燃やしたことに対して、山から生還したジョーが「なんで燃やすんだ!」って怒ったことについてリチャードが「なんだこいつ」と思ったみたいなことをインタビューで話してるくだりがあって、やっぱりジョーのこと好きじゃないよなーと笑

どちらかというとサイモンと仲が良かったから、もしどっちか一人が死んで戻らないことがあるなら、ジョーが死ぬほうがいいなーと思ってたみたいなこともインタビューで言ってたしな。ジョー本人もその映像見るんだろうにすごい赤裸々なこと言うじゃん、と思って面白かったんですよねー。


ジョーとセーラに感情移入して見るならリチャードのことは嫌いになってしまいそうなところを、浅利さんはいい塩梅で憎めない存在として演じてらっしゃるなーと思いました。



全編にわたってジョーが痛みと死の恐怖にもがき苦しむ話なので見ている方もグッと力が入ってしまうというか、座ってただけなのに足がガクガクになってたなー。


カテコのあとにジョーやサイモンたちがこの事故の後にどうしているのかみたいなことが書いてあるエンドロールが流れるんですけど。

ジョーもサイモンも元気で生きてるみたいで良かったなーと思うと同時に、セーラについては事故当時「ケニアでハイジャックに合っていて、事故のことを知ったのはその6週間後だった」みたいなテロップが出て、セーラもセーラで登山しなくてもめちゃくちゃ危険な目にあっとるやないかい!!と思わされるのがなんかね、良かったですね。エンドロールのあの演出いいな。



あと余談ですけど。

1幕のラストがサイモンがジョーと自分を繋いでいるザイルを切るところで終わるので、これからジョーどうなるの!?ジョーこのまま死ぬの!?絶望的すぎない!?ってなるんですけど、幕間中ずっと舞台の上の雪に模した紙吹雪を掃除する掃除機の音が聞こえてきてて「あ、これお芝居なんだったわ」って思えるというか、あまりにも絶望的な状況で1幕が終わってハラハラしっぱなしで幕間休憩の時間を過ごしている客席がちょっと和んだ感じがあってよかったですね。

アレは別に意図した演出とかじゃないんだろうけど笑

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