「障害」について考える
私は、ありのままの姿で自分らしく生き続けたいと願っています。
それが一番心地よい生き方だからです。
でも、その自分らしさは必ずしも普通の一般的な自分らしさではないようです。
私の"自分らしい"は世の中では「障害」と呼ばれるものに分類されてしまうことがあります。
しかし、私は自分が障害を持っているとは思っていません。
障害とは何なのでしょうか。
「自分らしさ」は生きものの数だけあります。
見た目も性格も能力も体のつくりも、みんが違っていて誰一人として同じ人はいません。
でも、現在の社会システムは未だ自分らしさの多様性を受け止めきれるだけの力と器を備えていません。
社会が要求する"普通"の生き方と自分らしい生き方の折り合いがつかないと軋轢が生じてしまうことが多々あります。
その軋轢が「障害」と呼ばれるものなのではないかと私は思います。
私は、当事者(障害者)が障害を有しているとは考えません。
当事者の周りの環境に障害があるのだと考えています。
当事者の周りにハードルがたくさん置かれているイメージです。
このハードルを取り除いていくことが、当事者と社会の軋轢を除去することに繋がり、「障害」による苦しみの軽減に繋がると思うのです。
ハードルは色々なところにあります。
政治や経済、法律、交通、教育、就業など、社会生活を営む際のあらゆる場面にハードルは立ち現れます。
そして、社会を形作っている私たち一人ひとりもまたハードルを作り出してしまっています。
例えば教育。
一クラス30人の生徒がいるならば、そこには30の異なった性質があることになります。
教室の中は多様性の"るつぼ"です。
彼らの中には一人として同じ生徒はおらず、成長のスピードも能力も考えも全て異なっています。
ですが、授業はその多様な30人に対して同じ課題を要求します。
教師らは仕事として規定のカリキュラムをこなさなければなりません。
限られた授業回数の中で年間カリキュラムを終えるためにも、計画的・効率的に授業を進めていく必要があるのです。
しかし、30人まとめて同じ授業を行っても、一人ひとりが同じように学べるとは限りません。
本当は一人ひとりに適した学び方があり、適した学びのスピードがあるのです。
でも、効率的にカリキュラムを進める必要があるために、30人まとめて同じ授業を受けさせているのです。
その結果として、効率化された授業のやり方やスピードについていけない生徒が出てきてしまいます。
所謂"落ちこぼれ"が生まれるわけです。
この"落ちこぼれ"は、最近では「発達障害」と呼ばれています。
規定の授業方法とスピードについて来れない生徒は発達障害とみなされてしまいます。
最近では、親が学校教育に馴染めない子どもを医者に診せて発達障害の診断を仰ぐ姿が当たり前になっていますね。
でも、私には、この「発達障害」は、一人ひとりの能力の違いや成長スピードの違い、身体の作りの違いでしかないように見えるのです。
「障害」ではなく、あくまで「違い」だと思うのです。
生徒一人ひとりの違いを軽視して効率的に授業を行おうとする教育制度が、発達障害というハードルを生み出しているのではないかと思えるのです。
就業、つまり仕事を例にとっても教育と同じですよね。
決められた仕事を決められたとおりに実行する必要があるけど、私たちの身体は個人こじんで違うので、みんなが同じ働き方をすることは出来ません。
それぞれの人にそれぞれの手足、頭、内臓があります。
仕事を覚えるスピードなどもみんな異なっています。
なのに、そうした多様性に合った仕事をすることが出来る職場が極端に少ないのが現実です。
高いハードルに周りを囲まれて自分に合った仕事に辿り着けないのです。
そうして、マジョリティに同化出来ずハードルに囲まれてしまった彼らは「障害者」に分類されてしまうわけです。
私自身も、いわゆるマイノリティーに分類される性質をいくつか持っています。
私が持っている周りと異なる性質の中には、障害という言葉で表現されるものもあります。
ですが、私自身はまったく自分に障害があるように思えないんですよね。
自分の持っている固有の性質は私の宝物なんです。
これは絶対に障害なんかじゃないんです。
ですが、社会に出るとあちこちに私の性質を阻むハードルが置かれてて、自分らしく生きられないんです。
これがすごく苦しいんですよね。
ハードル(障害)によって社会や人と分断されてしまうのも苦しいし、"普通"に合わせるために自分を変えなければいけないのも苦しいんです。
各々固有の性質を障害と捉える社会ではなくて、もっと個人の性質が大切にされて尊ばれる世の中になって欲しいです。
そして、みんなが自分らしく生きることが出来るように社会に置かれたハードルをどんどん取り除いていきたいです。
また、私自身にもよくあることなのですが、姿形が異なる人たちを常識のふるいにかけて、健常者と障害者にわけてしまうことがあります。
社会制度や法律だけでなく、一人ひとりの心が障害を作り出すことがあるわけです。
自分自身がハードル(障害)になってしまわないように、違いを受け止めて助け合っていく生き方をしていくことが必要だと思っています。
長い記事になってしまいましたが、伝えたいことは
障害は当事者の中にあるものではなく、外の世界に置かれたハードルのことなんじゃないかな
ということです。
障害を作り出さないためにも、よりたくさんの多様性・自分らしさを許容出来る社会を作っていく必要があると思います。
私の大好きな共生社会を実現するためにも、ハードル(障害)を作り出さない助け合いの生き方と暮らしを実践していきたいです。
まずは、周りの人たちとバリアフリーな関係を築くことから始めようと思います。
この記事が何かの刺激になって、読んだ人が「障害」に向き合うきっかけになれば幸いです。