どん底と宝物
私のお掃除(テハナシ)で一番お掃除対象であるヒトにタイミング悪く会って、ご飯に行った。
俯瞰して観察すると、ただの良いヒトなんだろうなぁ〜
何がそんなに嫌なのかな?
と、サヨナラした後に思った。
今日そのヒトから、あるメッセージが送られてきて、凄くシンプルなメッセージには重さがなく素直に受け止めれるモノだった。
誰でもそうであるけれど
私には、私の境界線がある。
そこは誰にも入られたくない。
それをぶっ飛ばして侵入しようとする、それが私が一番お掃除を必要とするその人物だ。
境界線が曖昧でそこを共有する時期があった時もあるし、皆が生まれながらにその体験をしているだろう。
でも、常にお互いが変化することや、相手の自立を認められないと、片方が自立へ向かう時に相手が無意識で囲うような構図が起きる。
一般的は反抗期が自立の一つだろう。
今体験して、早く来た反抗期のほうがある意味スムーズな気もする。
私のような世間的に「大人」なのに、精神は子どものまま、あるところで子どもを演じていることになりバランスが最悪だ。
(どんな大人でも純粋で素直な部分もある。ここでの「大人」は自立について)
そして、私に一番の理解を求めてくる。
それは、私以外のヒトを諦めていて、私に求めなくて良いことまで、私で誤魔化そうとしているんだ。
それを敏感な私は返してあげてしまっていたし、不快や違和感がすごい中でも、私自身も依存していたから、演じていた過去がある。
ある時、そんな風に演じることさえ馬鹿馬鹿しく、その体力も気力もゼロになってしまった。
それは身体の不調となり、私以外の人のことなんてどうでもいい!
面倒!
そもそも、自分のことさえ諦めた。
絶望の中で、最初から何も持っていない私であることに気づいた。
それは肩書きも家族でも私の所有しているものなんて何も無い。
物も過去も何もない私が存在しているだけだった。
家族だ!
肩書きだ!
過去だ!
世間の目だ!!
と、私は自分を失くすことに命を掛け、
疲弊してきた。
こんな人生なんてクソだ!と感じた。
そこから、私はお掃除対象人物と物理的に距離を置くことにした。
心の距離が保てない時にできることは、物理的に離れることしか思い浮かばなった。
本当は誰も知らない所へ引っ越ししたかった。全てを捨ててしまいたかった。
それほどに私は自分の体調不良をキッカケにどん底まで落ちたんだった。
それから、私のお掃除(テハナシ)は、本気度を増した。
それまでも良美さんに色々教えて貰ったり、セッション、オハナシをするの中で、進めてきたつもり(ツモリってとこが重要)のお掃除(テハナシ)だったけれど、どん底にいってしまっては、ツモリ
では何も変化していかないことに気づいた。
だだ、そこまでの気付きや私が歩んできた道があったからこそ、たどり着いたどん底であるので、過去の自分も否定するつもりもないし、その時の最善であったことは間違いない。
そして、そのツモリもあったからこそ、どん底に落ちれたんだなとも思える。長い期間の準備体操だったんだなぁ。
そして、お掃除は続く、どこまでも。
ホントに私の中で一番の対象である人物は、もういい加減終わりにならないかな?と良く思う。うんざりだわ‥ともね。
でも、相手を変えることも、変わるように伝えることもする必要はなく、私が変わる、気にしなくなるまでお掃除(テハナシ)を粛々と進めていくのみ。
明日の私はまた、また無理だわ〜となっているかもしれないし、イケルんじゃない?と思うかもしれないし、その変化を受け入れながら、向き合っていくとこだけは確かだわ。
本当に体力も使うし、このことを共有できる仲間は貴重だ。
ただ、この体験を話しても、感覚で捉えてくれる仲間と、思考で良い悪い判断をするヒトがいる。
だからこそ、同じ感覚で繋がってくれる仲間と出会えることが宝物だなとその頃も感じてきたし、今もそれはとても強く感じる。
そして、私の大切な人達は、その頃突然どん底に落ちた私を手放さないで、一緒にいてくれた。
どん底に落ちた私は、同時にとても大きなギフトをいただいた。
だから私ももしそういうヒトと繋がったら、後先関係なく傍で存在できたらと思うようにもなっている。