01理由
「死んだら意味ないねん。」と上沼恵美子が言っていた。
嘘。上沼恵美子はそんなことは言っていない。正確には、私の頭の中の中央の席に鎮座する上沼恵美子が言っていた。
死んでしまえば、今まで積み上げてきたものの全てが無意味になるのだ。溜めてきたお金も意味がない。友情も知識も必死にブックマークをしているちょっとエロいTiktokもすべて無に帰すのだ。
それが嫌で、昔の人は天国だの極楽だのを想像し、逃避したのではないだろうか。神話とかその辺は疎いので、多分そんなことはないんだろうけど、上沼恵美子がそう言っている。
どうしたら死なないことができるのだろうか。私は考えた。私というか上沼恵美子が考えた。
その時、「人は忘れられた時に本当に死ぬ。」とONE PIECEでDr.ヒルルクがそんな感じのことを言っていたのを思い出した。なら、人の記憶に残ればいいんだ。と私はそう思った。ただ、どうやって人の記憶に残るのだろうか、忘れられないで済むだろうか。
たとえ、私が死んでも、友人、家族は私のことを死ぬまで覚えてくれるだろう。しかし、彼らが死んだ後、私のことを覚えてくれている人なんていない。詰みだ。死だ。
しかし、歴史上の人物、とくに歌や絵など作品を残している人は誰からも忘れられるようなことはない。Dr.ヒルルクの言葉を信じるのであれば、彼らは死んでいないことになる。私も死にたくない、ベートーヴェンと天国で、交響曲第九番をセッションしたい。そこで、作品を残そうと思った。
しかし、不幸なことに、私は芸術的な才能に何も恵まれなかった。絵も下手、歌も下手。人より秀でた才能といえば、みんなより少しだけ面白いことを言えるくらいだ。しかし、これも高校の時にお笑いを知り、才能の差に絶望した。詰みだ。大犯罪を犯して「令和の殺戮者」として歴史の教科書に載る以外に方法がなくなったのだ。
そんなこんな、うだうだと大学生活を過ごした。就活が終わり、自分の平々凡々とした人生が確定した感じがした。就活が終わったタイミングで日記を書き始めた。日々の面白い出来事や発想を書いていた。我ながらイタいと思う。分かってるから指摘しないで欲しい。このnoteを書いていることもイタいことくらい分かっているから、これも指摘しないで欲しい。
そんな中、友人がTiktokをやっていたのを思い出した。フォロワーもかなり多く、面白かった。私も気まぐれで自分の日記をTiktokに上げてみた。深夜2時くらいに。いいねがついた。少し楽しかった。また上げてみた。いいねがついた。笑いが出た。いいねがつく度、自分が認められているようで、救われているようで、楽しかった。私が日記をTiktokに載せているのは、こんな感じの理由。要は顕示欲。人間結局そんなもんだと思う。
でも、結果的に少しでも私のことを覚えてくれる人が増えたのではなかろうか。私の死が延長されているのではなかろうか。「なかろうか」が「中廊下」に自動的に変換される苛立ちを感じつつ、今日は早めに寝ようと思う。
おやすみ恵美子。