悲しい少年 Un garçon triste
ニコラ・サルコジ元仏大統領への懲役3年うち2年猶予1年実刑の有罪判決のニュース(2021年3月1日)、予想されてはいたが、大ニュースには違いない。
すぐに収監されるわけではいだろうが、—— 1年以内ならGPSブレスレットの措置もあるし、これから控訴審がある —— その一方、あと3件ほど同様の判決につながりかねない事件で起訴されており、彼の運命の先行きは不明。
妻のカーラ・ブルーニが彼のことを歌った《Un garçon triste 悲しい少年》をしみじみと聴く。
この歌や、彼が置かれた状況について、来るべきものは来るだろうという予感とともに昨年10月に他所に書いた記事を、以下に転載再録(長いです)。
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それは悲しい少年、待つこと待たれることをよく知っている。
それは忘れられた男の子、そのブリキの心は選ばれたり、捨てられたり。
悲しい少年が皆そんなように、彼は作り上げ、抗う。自分に気づいてもらえるように。
まるで悲しみが、その悪い魔法使いが、彼を飛び立たせたように。
先週[2020年10月9日]に出たカーラ・ブルーニ、現在の本名はカーラ・ブルーニ =サルコジ (1967 〜 )の新しいアルバム、その名も《Carla Bruni》の中の1曲、〈Un garçon triste 悲しい少年 〉。
彼女の熱狂的ファンというわけではないが、2002年に初アルバムを出し大ヒットして、本格的に歌に乗り出すずっと前、90年代に、テレビで余興のようにギターを弾いて歌っているのを聴いたときにいいなと思って以来、アルバムを出すとまあまあ聴いている。出会いのときから、私の中ではトップ・モデルというよりも、言語感覚にすぐれたマルチタレントという位置づけになっている。あとで気づいたが、私がその歌を聴いた90年代半ばは、モデル業を実質的に引退した後のキャリア転換の時期だったか。
新しいアルバムを何げなしにSpotify で聴いていて、自然と注意を引かれたのがこの〈Un garçon triste〉。いやに力の入った曲だなと思い、そして、そしてピンときて調べたら存外深い背景を持っている。
最後に歌詞の訳を全部載せたが、夫のニコラ・サルコジ氏(1955 〜 )のことに違いない、というか、そのものだ。「微笑むたびに、まるで言い訳しているよう」というのは彼の独特の表情の中で私の印象に強く残るものだった。
大統領在職中に妻にその恋人と駆け落ちされたばかりのサルコジと彼女が接近し、結婚したのには正直驚いたし、あまりよい印象は持たなかった。もともとサルコジは私が大嫌いな政治家で —— これについて語ると何千字あっても足りない —— 、その結婚は、失礼な言い方だが、いわゆるトロフィー・ワイフを求める男と野心家の女の戦略的なものと見え、あまりこの話には近づかないようにしていた。ただしカーラの歌はよいので聴きつづけてはいた。
が、この歌を聴くと二人の関係性についての認識がかなり変わる。カーラにかかると、フランスであれだけ物議をかもした大統領も、子供扱いというのもおかしいし、その少年の魅力に溺れてしまったことへの、一種の複雑な気持ち、人間的弱みというものが、歌われてもいる。その中に芯のようにある愛。もちろん自分たちが世間からどう見られているかも知っていて書かれている。
サルコジという男の、特に大統領になる前、なった後のあの傲慢さ、見栄っぱり態度の裏に、何かがあるとは漠然と感じることはできるのだけど、これはやはりパートナーでなければこれほど深くは感得し得ないものだろう。矢継ぎ早に政治的アクション打ち出してきたときには、多動性障害と揶揄されたものだが、やはりそのルーツも分かる気がする。
歌について調べると、数年前(たぶん2017年ごろ)から、コンサートのアンコールとして歌っていたようであり、2017年にはイザベル・ブレーが録音して出している(今まで知らなかった)。
それが今度のアルバムに本人の歌で収録されたということだ。この機会にいろいろと、プロモーションも兼ねて、エピソードが発掘・喧伝されて来るが、書かれた歌詞をサルコジが初めて見たとき、「それはおれじゃないか」と言ったとか。そして彼女の歌の中で最も美しい歌と評する。パートナーとしてここまで自分の裏面を見ることができる女性がいるのは、怖くもああるが、まあ幸せ者だろう。
サルコジ氏って、政治的イメージとは違って、案外恋愛においては純な人なのかなとも思う。
27歳のときに結婚した最初の妻と12年の結婚生活で子供を二人もうけたあと、離婚。離婚の経緯については本人は語りたがらないようだが、次の妻となるセシリア(現在ではセシリア・アティアス (1957 〜) ) に夢中になり、離婚の2年前から関係ができている。セシリアとの結婚は1996年から11年間続き、その間に子供が1人。そして2007年に大統領になる。が、大統領就任から数ヶ月後には、いわゆるそのファースト・レディーが、有名実業家 リシャール・アティアス (1959 〜)の元へ走りエリゼ宮を出るという事件が起きる。それどころか、後者二人はすでに2年前から実質的に一緒にニューヨークで暮していて、彼女は大統領候補夫人・大統領夫人としての役目を果しに戻ってきていただけだったという事実も発覚。結局その年のうちに離婚。今から考えるとあの、大統領になる年の前後の多動性や、社交界での派手な自己顕示行動の舞台裏の一端も伺えるようだ。
コキュである事実が世界中に知られ、フランスの一つの大きな伝統の担い手になった彼の精神的打撃を埋めたのが、カーラ・ブルーニということになる。2008年初頭に、カーラがイタリア国籍を保持したまま正式に結婚(後にフランス国籍取得)。どんな気持ちで結婚したのかは、たぶん歌の中に。夢中になると、純な気持ちのまま全力であの手この手であたる男なんだろうな。カーラはずっとインテリ好みで、片や、サルコジはインテリ文化というのを馬鹿にしているところがあり、そりが合わなそうに見えたが、サルコジが押しまくったのか。あるいは、この観察眼を持った彼女なら、失意にあった彼を自分に夢中にさせるのは赤子の手をひねるようなものだったろう。
ほろっとくる愛の歌だ。
しかし、聴いたとに、とっさに、ああ、もしかしてそろそろ別れるのかなと思ったのは、意地悪な見方か。というのも理由がある。
カーラが自分と一緒にいる男性のことを歌うのは初めてではない。以前一緒に暮し、間に子供が一人いる哲学者のラファエル・エントーヴェン Raphaël Enthoven (1975 〜 )のことを歌ったそのものずばりの 〈ラファエル Raphaël 〉という熱烈な愛の歌がある
4つの子音、3つの母音
それが Raphaël という名
私はそれを自分の耳に囁く
そのそれぞれの文字が私を魅了する
トレマ (¨) が私を虜にする
…
天使のようなそぶりで、実は恋の悪魔
その腰とそのビロードのような目で
彼が私を見下ろすと、夜は眠りのないものになる
いつまでもいつまでも....
ラファエルとしては、そんなふうにおっぴらに歌われて、男冥利につきると思うか、背中のあたりがこそばよくなるかどうか経験がないからわからないが、まさかそれから5年と少しであんなことになるとは。人生はハッピーエンドに向かってまっすぐに進んではくれないもの。
もっとも、ラファエルとカーラの縁は、後者が前者の父親で作家・編集者の ジャン=ピエール・エントーヴェン (1949 〜 )と恋仲でいっしょに住んでいたことを媒介として始まり、前者の離婚を副産物に生んでもいるので、とにかく愛には曲がり角いっぱいというのは関係者全員がすでに骨身にしみるほど承知しているはず。にしても別れてから、別の男と結婚した今でもこの歌をたびたびコンサートで歌う彼女や、それを聴く男たちの高度な心の管理能力というのは、皇帝ティートのそれと同じく見習いたいものだ。
そして、このラファエルの先例から、彼女が男に向けた愛の歌を書くということについて、何か別の感慨が浮かび、あらぬ想像力が働くのである。
サルコジ氏は、2012年の選挙でオランドに敗れ大統領職を退いた後、複数の汚職事件で告発され、裁判を抱えていて、先週[2020年10月12日]も4つめの事件で起訴されたばかり。このままでは、実刑判決をくらうこともあり得る。〈悲しい少年 〉が、3年前、彼の逆境が本格的になってきた時期に書かれたというのは、またこの歌に別のニュアンスを与えてくれる。詩の内容を額面どおり受け取れば、その彼の転落に、後悔なくとことん付き合うということだ。その破滅型のテイストというかスパイスは、ゲンズブールの 《La noyée 溺れる女》 —— 彼女はこの歌を最初のアルバムでカバーしている —— に一種通ずるものがある(イザベル・ブレーのバージョンのPVは、男がもがきながら転落するさまを強調している)。
そんな歌が、彼にとって心の支えになったし、なっているのは確かだろう。そしてそしてその一方で、この今の時期この歌をカーラがとり上げたのは、意識的か無意識かは分からないがイメージ戦略の一つでもあるのは間違いないだろう。メディアの扱いを見ても確実にサルコジ氏へのシンパシーは高まっている。
サルコジが首相として、そして大統領として、その権勢欲のため、新自由主義思想と結託してやったことの多くを、私は許せないが、この歌を聴き、嫌な相手に対する人間的理解ができるのも確かである。
それにしても、複雑怪奇な恋愛模様も、こうした心の深層を抉るようなポエジーも、それに覆いかぶさってくる戦略も、あれこれの虚実含めて、文化の底力だろうなと思う。フランス文化というものの。アメリカ大統領、日本で前首相、前々首相の夫妻でこうしたことが起きるのは今のところ、完全に想像外でしかない。
それを取り囲む様々な文脈を脇においても、音楽様式的では古いシャンソンのそれを踏襲するこの歌は、何か心の深いところをくすぐるものがあって(曲はジュリアン・クレール)、ヘビロテしてしまう。
Un garçon triste 悲しい少年
詞 カーラ・ブルーニ
それは悲しい少年、待つこと待たれることをよく知っている。
それは忘れられた男の子、そのブリキの心は選ばれたり、捨てられたり。
悲しい少年が皆そんなように、彼は作り上げ、抗う。自分に気づいてもらえるように。
まるで悲しみが、その悪い魔法使いが、彼を飛び立たせたように。
そして、悲しい少年が皆そんなように、彼は休みなく描き続ける。自分を慰めてくれるものを。
震えを、悦楽を、ひと時を、隠れ家を、夢見る何かを。
私はその悲しい少年を愛している。微笑むたびに、まるで言い訳しているようだから。
愛している。彼が信じることを知っているから。自分に酔うことを知っているから。生きているということだけに。
私は悲しい少年のことを歌う。溺れてしまわないために偉ぶってしまう彼のことを。
悲しい少年が皆そんなように、彼は親玉を気取り、街角の王様を気取りたがる。
そしてその悲しい少年が私の人生の中に入ってきた。
彼がすべてをひっかき回した。私の夢、その下描きを、私の思い出、私の悪さ、それを全部さらっていった。
悲しい少年のために、私は自分の武器を置いた。ゆっくりと彼の足下に。
そしてその悲しい少年のために、私は苦しんでもいいと思っている。震えてもいいと思っている。
彼は、たとえば、私の約束の地、私の叫び。そして私の遭難者。
彼は、私の心を優しく溶かしてくれる唯一の人、私の愛、私の警報機、私の子供、私の罪。
彼は、たとえば、私の約束の地、私の叫び。そして私の遭難者。
彼は、私の心を優しく溶かしてくれる唯一の人、私の愛、私の警報機、私の王子さま、私の罪。