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小説『反面教室』2024Rewrite Ver.
——前編——
私のたんにんの先生は、どこかおかしいです。うまく言うことができないのですが、とにかく私にだけはいつも変にやさしいんです。正直、とても怖いです。
今日も普段通り、浅津第一小学校の「お悩み相談室」に出勤した私は、すぐに気がついた。机に一枚の手紙が置かれている。私はそれを、おずおずと手に取った。封筒を汚さないよう、念の為、額から滴る汗を拭う。今日も暑い。
差出人は6年3組の南由利香。
早朝の相談室に同僚は一人もおらず、悩める子羊もまだ姿を見せていない。耳を澄ませば、小鳥のさえずりも聞こえる朝だ。昨日は午前授業だったので、私の帰った後にそっとこの手紙を置いて行ったのだろうと、生徒の顔を思い浮かべる。
相談員・カワムラの視点Ⅰ
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私はまず、当該生徒の家系を整理することから始めてみた。
彼女の両親は共に超一流企業の社員だったが、父親と母親は幼い頃に離婚したらしく、それからは母親が女手一つで彼女の面倒を見ているという。母親が勤めているというその企業の名前を聞くだけでも、給料が平行線のこの職業に嫌気が差してしまうが、今はこの手紙の内容に相談員として何かしらの答えを出さなければならない。時計が7時を指し、私は焦り出す。一部から、悪い噂の発生源を瞬時に突き止め、揉み消しているのではないかと疑われている菜津奈先生が出勤してくるからだ。
女教師・ナヅナの視点Ⅰ
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いつもと変わらず社員寮で目を覚ますと、今日も気怠い一日が始まるのだなと布団から抜け出してカーテンを開けた。腰まで伸びた長い髪を手入れするだけでも時間が掛かる。朝からぼんやりしていたせいで黒焦げのトーストを食べなきゃいけなくなったが、文句を言っている暇もなく7時20分に家を出た。教員の朝礼は七時半からで、学校までの時間は約15分。急げばギリギリというところだった。
ガラクタのようにボロボロの自転車を目一杯漕いでいると、こんな自分が惨めに思えてくる。いつも通る道の、地区を区切っているボロボロのフェンスには、ピンクのスズランテープが沢山結んである。呪いの一種だろうか。私が幼少の頃は、ミサンガが流行ったのを覚えている。世間一般的な認識だと、ミサンガが切れたら願い事が叶うのだということだった。しかし、私の地元は違った。ミサンガが切れることは、〝この世で命を終える〟ことを意味していた。もうすぐ差し掛かるトンネルでは、かつてミサンガの祟りか分からないが、陰惨な事件が起きた。そこに住んでいたホームレスが、ミサンガをつけていた女子高生を襲い、生命を奪ったのだ。それ以来、そのトンネルは通れなくなっている。祠が作られたから、今ではお供え物が溢れ返っている。と、そんなことを思い出しながらペダルを漕いでいる。このままでは遅刻してしまう。速度を上げる。
5分遅れで学校に到着。私は、校門付近の職員用駐輪場に自転車を乗り捨て、職員室に飛び込んだ。自分の机に荷物を置きに行く時に陰口が聞こえた。学年主任の教師が「菜津奈先生ギリギリでしたね! 今始めようとしていたんです!」と笑顔で言う。なんでそんなに朝から爽やかなんだ、と一人苛立つ。「今日も宜しくお願いします!」と高らかに声が上がった。
1階の職員室を出て、2階にある教室へと向かう。その道中の階段で、「行きたくない」とごねる少年と厳しくそれを叱り突き放す母親が目に入る。そんな親子の傍を横切って進み、教室のドアを開けると、楽しげに他愛もない話をし、くだらない冗談で笑う生徒たちが、いつも通り異様な活発さで、教室を沸かせていた。
「ほら〜、朝の会やるわよ〜」
手を叩いて着席を促すと、自分を見るなり生徒の顔がにやけるのが分かった。顔に何かついているのかと思ったけれど、朝起きてからここに来るまでにそんな場面には出くわしていないし、触って確かめる程でもない。そんなこんなで、いつも通り朝の会が始まる。今日の日直は直斗くんと由利香ちゃんの二人だった。それにしても、ぶっきらぼうな直斗くんの横で天使のような笑顔を浮かべる由利香ちゃんが可愛い。できるものなら私の監視下で保護してしまいたいが、そんなことは立場上無理なので諦める。今日も憂鬱な一日が始まろうとしている。溜め息をつくたびに、生徒たちの顔が濁って霞む。
ミナミユリカの視点Ⅰ
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菜津奈先生が私を見る目はいつも優しい。けれど、私にはそれが気味悪く感じる。先生が他の子に向ける顔はあくまで生徒と先生という関係性を感じるが、私にだけはそれが極端に薄いようだ。例えるなら、ボンタンアメを包んでるオブラート。
私は怖くなって、つい昨日、お悩み相談室の先生に宛てて、そのことを相談した。私が登校した8時過ぎには、机の中に返事の手紙が入っていた。内容は、それについて詳しく調べてもらえることと、先生も秘密にするから私自身も安易にこのことを言いふらさないでほしいということだった。そして手紙の最後には「こまったときにはいつでもたよってきてね」と言葉が添えられていて、心の底から安心できた。
今この瞬間も、聖母の如く慈しみに満ちた目で朝の会の進行を見つめられているが、やっぱりこのままいけばこの先危ない目に合う気がして仕方がない。私は菜津奈先生と少し距離を取ってみることにした。
ミナミユリエの視点Ⅰ
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カレンダーをぼんやり見てみると、びっしりのシフトに狂気を覚えた。久々に取れた休日は、何をすることもなくただ、だらしなく過ぎていく。気怠い身体をソファに横たえていると、暮れゆく街に5時の鐘が鳴った。
「そろそろ娘が帰ってくるわ」
私はゆっくりと、ソファから立ち上がった。
日当たりを重視して構えた一戸建てはいつも、家族水入らずの温かさで溢れていると思っていた。だけど、由利香を育てるのが私一人になってからは夜に帰ることも多くなった。家の前に着くと必ず、窓硝子から見える娘のシルエットを眺めることにしていた。私が家を空けている間にも娘はどんどん背が伸びて、すぐに私を追い越してしまうのではないかと怖くなった。寂しさを感じれば感じるほど、私は家を空けた。
今日こそ娘にちゃんと向き合おう。悲しみに暮れているのは、きっと私だけじゃないはずだ。由利香とお菓子でも食べながら、さっき考えていたことを素直に伝えよう。そう心に決めて棚を覗いてはみたが、もはや最近は何も買ってきていなかった。今から買いに行くか、娘を待っていようかと迷っているとドアが開いた。逡巡のうちに帰ってきたのだ。「あれ、お母さんいるの珍しいねー」と娘は目を丸くした。お菓子を買いに行こうとしていたことを伝えると、娘は「いらないよ」と笑った。本当にいらないと思っているのか、うちにお金がないことを悟っているから出た言葉なのか、私には読み取れなかった。傾いた陽が鬱陶しいくらい温かくて、思わず娘を抱き寄せた。
「わたしが食べたいのよ」
どうしてもお菓子を食べさせたくて呟いた言葉は、母娘の立場を簡単に逆転させた。子供のワガママみたく響いてしまったことに笑おうとして、瞳に溜めていた涙が溢れた。困ったように笑う顔が、ぼやけた視界の中で揺れた。しょうがないなぁ、と私の昔の口癖を娘は真似た。
家を出て、お菓子を買いに行く。駅前にはアーケード街があり、その端っこにスーパーマーケットがある。徒歩5分ちょい、そこまでの道を二人、手を繋いで歩いた。仕事をしている時、何のために働いているのか思い出せなくなる夜がある。そんな時に娘を思い出せたらいいのだけれど、オフィスから見える体温を感じない夜景の中に娘はいないのだ。今はせっかく隣にいるのに、ふとそんなことを思い出してしまう。苦い記憶を振り払うように頭を横に振ると、突如、娘が一歩後退りをした。
「どうしたの?」
「あそこに担任の先生がいるの」
娘が声を潜めて言った。
「挨拶でもしたらいいじゃないの?」
そう言うと、大きく首を横に振る。
「どうして?」
怯えるような顔をした娘に合わせて私も声を潜めて聞いた。
「あの先生、私にだけは変に優しいの」
「変って? それ良いことじゃない? 気に入られてるってことでしょ?」
同じような疑問を重ねると、娘は声を大きくした。
「私を狙ってるに決まってるの!」
母親の私ですらほぼ聞いたことのなかった娘の大声に、道行く人のほぼ全員が驚いた顔でこっちを見ていたので、一度頭を下げると、数秒後には何も無かったように時間が再生した。けれど、その声はもちろん数メートル先の担任にも聞こえてしまったようだった。
花屋の軒先に立っていた担任の女は、黒いコートに紫色のスカーフを巻いていた。髪は腰まで伸びていて白みだらけだったし、ひどく傷んでいるように見えた。コートも皺だらけで、全体的に不潔な女という印象だった。年齢は60代くらいの老けた印象で、定年間近といったところだろう。それでいて厚化粧だから素性が分からず、花を持っているのもあってか不気味に見える。
嫌悪感を持ちながら一瞥すると、その女はなぜかこちらにやってきた。
「由利香ちゃんのお母さんですか? 私、担任の歌方菜津奈と申します。娘さん、優しくて可愛くてとても良い子ですよ」
饒舌に話す女に違和感を覚え、「これから雨でも降りそうですね」と返すと、「そうだったわ、早くしなきゃ」と独り言のように言って花屋の方へ再び戻っていった。
「気持ち悪い先生だね」
娘に少し同情するように女のことを批判すると、さっきまでずっと俯いていた娘が顔を上げて、
「ねぇ、私に何があっても守ってくれるよね?」
何かを予期しているみたいな言葉に「当たり前じゃない」と返して、久々に娘のことを思い切り抱擁した。遠くの空に稲妻が光っていた。
女教師・ナヅナの視点Ⅱ
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さっきは商店街で南親子に会ったが、母親が思ったよりも母親らしくて苛立った。私は花屋で買った自分と同じ名前の花を、由利香に渡しそびれてしまった。花を一度、寮に置いていくと、今度は商店街と反対側を目指した。反対側には住宅街があり、その中に目当ての場所があった。
「ただいま」
年中、簾で覆われた磨り硝子の戸を開けると、鏡を覗き込んで自分の顔を凝視する女がいた。後ろ手で戸を閉めたら、思うより音が鳴ってしまって驚いた。この家の主は、腫れ物のように慎重に接しなければならない。機嫌が悪ければ、どんなことでヒステリーを起こすか分からない。
「おかえりなさい。お前もっとちゃんとやらねぇと、このまんまじゃ減給だぞ」
女は口紅をひたすら塗り込みながら、茶封筒を私に差し出す。
「これ今日の分ね」
封筒の中身を私は覗いた。
「あの、ちょっとこれは少ないんじゃ……
「うるさい! さっさと出ていって!」
言いかけた言葉を遮るように、女はヒステリックな声を上げた。禍々しい家を出ても、胸がつっかえて道でしゃがみ込んでしまった。
ミナミユリエの視点Ⅱ
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お菓子を二人で選ぶ時間は夢のようだった。もはや最近は激務を重ねすぎて、夢を見ることさえなくなっていたけれど。
空が暗くなり始めた帰り道、娘に担任の先生のことを軽く聞き出してみた。
「ねぇあの先生の名前って本名なの?」
娘は駅前の交番を見ながら答えた。
「わからない」
死者・3名。負傷者・12名。昨日の交通事故の被害件数がチラリと目に入った。娘が幼い頃、前を通るたび火がついたように泣き喚いた指名手配犯のポスターは、当時からラインナップが変わっていない。目がチカチカするような色合い、強調された懸賞金の額、一目読んだだけでは理解できない罪状。彼らは今、どこへ逃げているのだろう。案外、この街のどこかに住んでいたりするのだろうか。物騒なことを想像したら、背筋が少し寒くなった。
話をしたがらない娘にこれ以上深入りするのも良くないと思い、そこまで聞いて切り上げることにした。その後は、娘の恋愛相談に乗ったり、直近でムカついたエピソードを聞いたりと、ごく自然な親子の会話をしている。一緒に手を洗ってポッキーを食べたり知育菓子を作ったりして、醒めない夢ならいいななんて思った。けれど、サイダーみたいに弾ける時間はあっという間に夜になった。
相談員・カワムラの視点Ⅱ
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見上げるほどに重なったマットに咳込む。よりによってこんな場所を選ぶんじゃなかったと後悔する。今日は3組の南由利香から、担任がどうおかしいのかを聞き取りをすることになっている。呼び出したのは体育館の奥の方にある今では使われていない備品庫。なぜそこなのかと言うと、もちろん担任の菜津奈先生に勘付かれるとまずいことになるからだ。しかし、それにしても、こんな湿っぽい場所を選ぶべきじゃ無かった。
5分ほど待っていると、入り口付近に張り巡らされた蜘蛛の巣の奥から南由利香が姿を現した。
「菜津奈先生の件ですよね」
「そうよ。先生は具体的に何がおかしいの?」
彼女は少し考えていたが、部屋の隅に張られた蜘蛛の巣と、それに食われた害虫を見て言葉が纏まったように言った。
「私をきっとさらおうとしてるんです」
「根拠はあるの?」
そう聞くと、彼女は目を泳がせながら呟いた。
「前の担任もきっとさらわれたんです」
言い淀む姿に、少し苛立った。私は、彼女の口から真意を聞きたいのに。話を聞いてちゃんと、じっくりゆっくり追い詰めていって、最後には然るべき罰を与える。
「とにかくあの先生を遠ざけてもらえると安心です」
「わかったわ」
彼女は話が終わったというように、背を向けて倉庫を出ていった。私は一人になり、チノパンを脱いだ。そこには、ビッシリと醜い痣が残っている。分かってるのに、何度も触れて確かめた。私、間違ってないよね。そう自問自答を何度も、何度も繰り返して、私は今ここにいる。
ミナミユリカの視点Ⅱ
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昼休みになると、クラスのレク係が珍しく声を上げた。
「今日は鬼ごっこをやりまーす」
私は教室の片隅で本を読んでいたい気分だったのだが、レク係が全員参加だと言って取り合わないので仕方なく教室を出た。グラウンドに上がると、なぜか先生が立っていた。
「あら、由利香ちゃん珍しいじゃな〜い」
しくじった、嵌められたと思い、レク係を睨みつけたが、気付かないふりを決め込んでいた。
立候補制で鬼を決め、グラウンドに散らばった。嫌になるような晴天の下、カウントはゼロに近づくにつれて高鳴りを帯びてゆく。ゼロになった瞬間、先生は物凄い勢いでこちらに向かって駆けてきた。何も知らない人から見ればこの光景は、先生がたまたま私を見つけて、迫ってきているだけに見えるのだろう。しかし、私には分かる。先生には、私だけが見えているのではなく、私以外の生徒が全く眼中に無いのだ。それでも、これが偶然であると祈りたい。遊具の陰に身を隠した生徒は、私だけじゃないのだ。他の誰かが捕まったっていい。そう思ったのも束の間、
「由利香ちゃん、タッチ!」
一緒に隠れていたはずの女の子が、私の肩に触れた。あまりの衝撃に声が出ず、心臓がぎゅっと縮こまった。そう、一緒に隠れていた子は鬼だった。こんな裏切りがあって良いのか。
「ねぇ、話があるんだけど」
気付かぬうちに、背後に立っていた菜津奈先生が、私の首筋をそっと舐めた。ゾッとするくらい、冷たい舌がチロチロと這っている。耐えきれず「やめてください!」と叫んで振り返ると、ナヅナの生首が浮いていた。
「ひゃっ……!」
あまりの恐怖に目を瞑った。再び目を開けたら白い天井が視界に入り、私は何が起きたのか益々分からなくなった。ベッドから起き上がり、白衣姿の先生を見て、保健室にいるのだと知った。後から話を聞くと、私はグラウンドの遊具の陰でひとり倒れていたのだという。最後まで鬼は私のことを見つけられず、5限が近づいてきたから校舎に戻った。しかし、それなら、私が遊具の陰で見たものは何だったのだろう。全て夢だったとは認めたくない。ただ、菜津奈先生は今日の昼休み、保護者から寄せられたクレームの対応に追われていて、鬼ごっこには参加していなかったという。
【The face behind】Ⅰ
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残業が終わり、深夜の職員室でマッチングアプリを開く。誰かとマッチングできているだろうか?そう思って通知を見ると、圭介という男性と私はマッチングしたようだった。メールで「今夜会えたりしますか?」と聞くと、「いいよいいよ!」と五分も経たないうちに返信が返ってきた。待ち合わせ場所には駅前を指定されたのでそこへ向かった。私はさっと会える人としか付き合えないので近場で絞って男を漁っていたのだ。
DMでは銅像の横に立っていると送られてきたので、言葉通りの場所に立っているガタイの良いサラリーマンを見た。
「こんばんは、○○恵子さんですか?」
私の視線に気付いた彼は、私の元に駆け寄ってきてくれた。
「あ、今夜はよろしくお願いします」
まるで捨て猫のような上目遣いをすると、一瞬彼は欲情したように見えた。雨の降る駅前を二人、傘を差して歩き出した。
「どこに行きますか?」
分かっているのに訊ねるのは、小悪魔だろうか。彼は私の腰に、手を回した。
「一晩、雨が凌げる場所だよ」
雨が強まってくると、私たちはあっという間にホテルの前にいた。私はあなたの言う通りにしますと言うように傘を閉じると、彼は私のことをそっとエスコートしてくれた。部屋に入ってから、行為に移るまでは早かった。雨が窓を打つ音もほぼ聞こえなかったと思う。
一回戦が終わると、二人で長いキスをした。私の濃い赤色の口紅が彼の唇にも移った。
「私、結婚を前提に正式にお付き合いしたいです」
服一枚も纏わぬままそんなことを言うと、彼は私を抱き寄せて耳元でそっと囁いた。
「オッケー、じゃあ生でも良い?」
私は頷いたと同時にベッドに押し倒された。ぐちゃっと汚い音がしたけど、それも全部ひっくるめて気持ち良いと思った。二回戦が終わり、彼は私の身体を優しく愛撫した。泣きそうな顔で、私の太腿あたりに口づけた。本当に泣きたいのは私なのに。泣かなくていいよと、彼のことを抱きしめる。俺ならそんな思いさせないのにって、そう言いそうだからキスもする。大丈夫、近いうちにアイツらは痛い目を見る。だからさ、本当に私が好きなら、本当に私に同情してるなら、ちょっとだけ力を貸してほしいんだ。キミにしか頼めないんだ、お願い。
そう伝えるまでもなく、圭介は言った。
「俺がこんなことする奴のこと、懲らしめてやるよ!」
女教師・ナヅナの視点Ⅲ
朝の日差しに汗を止められず、鬱陶しさを感じていると朝の会が終わっていた。私は担任をする教室を出て、図工室の鍵を開けに行った。今日はのこぎりを使う授業だったので、図工科準備室に入る。窓ガラスに映った自分を眺め、のこぎりに長い髪が巻き込まれるのを少し危惧したが、そんなに危険な授業をするつもりはなかったので大丈夫だろうと考えた。
のこぎりのたくさん入った木箱を移動し終えると、止まったはずだった汗が再び滲んできた。息つく間もなく授業が始まると、私は自分にスイッチを入れた。
「気を付け、礼、お願いします」
最初に授業内容の説明をして、早速木の板をのこぎりで切ってみさせることにした。木の板はホームセンターに行けばすぐに手に入れられそうな比較的安価なものではあったが、ダンボールくらいしか工作に使ったことのない小学生にはとても扱いが難しいものだった。授業のテーマはそこまで決まってはいなかったが、のこぎりを用いて一番芸術的かつ技巧的な作品を創り上げた者は市の展覧会に展示することになっている。生徒たちは配られた木の板と鋭利なのこぎりを見つめながら唸っていたが、芸術センスが高そうな眼鏡の少年が一番に手を動かし始めた。それに触発されるように周りの生徒たちも手を動かし始めた。
クラスの半分程度が作業に入ると、私の大好きな生徒・由利香ちゃんも手を動かし始めた。木の板を円形に切ろうとしていたが、のこぎりでは小回りが利かないので苦戦していて怪我をしそうだった。流石に危ないので「手伝ってあげるわ」と肩に手を置くと、「大丈夫です、やらせてください!」とまたもや拒絶するように言われた。私は頭にきて「そう、じゃあやってみなさいよ!」と強めに言うと、しゃがんでのこぎりを覗き込むような姿勢を取った。彼女はのこぎりを前後に動かした。
「痛いっ!」
彼女の動かしたのこぎりは、木の板から大きく軌道を逸れ、私の首の皮膚を削いだ。全部計算通りだった。鮮血が飛び散ると、由利香は思い切り、返り血を浴びた。
「うーわ由利香怖ぇ……。菜津奈先生のこと、そんなに嫌いだったのかよ……」
男子生徒が叫ぶと、皆が振り返り悲鳴をあげ、私を心配してくれた。
「嫌いにしても、これはやっていいことの範疇超えてるだろ」
「先生のこと傷つけるなんて許さない」
「てか、先生ほんとに大丈夫?」
心配と非難の声が大きくなればなるほど、彼女の顔は青ざめていった。翌日から彼女の周りには誰も寄りつかなくなり、あろうことか人殺し呼ばわりを受けていた。これで私以外に彼女に近付く者はいなくなる。首の傷なんてちっとも痛くはなかった。
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【The face behind】Ⅱ
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産婦人科も入った総合病院の待合室は、日曜日なだけあって物凄く混雑していた。呼び出しのモニターにはディズニーランドの様な待ち時間が表示されている。不動産屋に勤務する圭介は、いつも横で私を安心させてくれる。今この瞬間も。私が今日、産婦人科に来た理由は、妊娠をいつまでも出来ないからだ。初めて出会ったあの夜から抱き抱かれ、どれだけ身体を重ねても子供を身籠ることは出来ていない。そうこうしているうちに私はまた一つ歳を重ね、居ても立っても居られなくなり、圭介に相談したのだ。
朝早くから来たのに昼過ぎまで待たされているので、空腹は限界に達し、病院をひとまず出た。病院の面する表参道の大通りには高級ブランドが軒を連ねており、食欲は物欲に負けて吸い込まれてゆく。シャネルを見た後、ヴィトンを見ていると、圭介からもっと節約しなよと言われたが、女性は常に着飾っていたい生き物なのだと耳を貸さずに散財した。その後、食事はそこらへんの小洒落たカフェで済ませ、病院に戻った。
モニターに目を遣ると、もうあと5組くらいのところまで診察は進んでいた。病院の真っ白な壁を見て不安そうな顔を浮かべる圭介に、「きっとなんとかなるわよ」と声を掛けた。そのうち自分の順番が来て、治るに違いないと信じて疑わないまま席を立った。
「私は子供を無事に授かれるんですよね?」
扉を開けた直後に医師に向けて問うと、医師は表情を曇らせた。
荷物置きにさっき買ったエルメスのバーキンを置き、椅子に腰掛けると、医師が口を開いた。
「あなたの症状はあなたが思われているように不妊症という病気です。もちろん不妊症という病気には治療法があるので、治療されるかどうかはあなた自身が選んで構いません。しかし、統計的に見まして、35歳を超えるとそもそも妊娠しづらくなるんです。それなりにお金もかかりますから、不妊治療は医師の立場からしてあまりお勧めできません」
まるで舞台俳優の主役が最後の長台詞を言い終えたみたいに、医師は一瞬安心した顔を見せた。
「もちろん治療しますよ!」
私がカッとなって叫ぶと、医師は一瞬怯んだ。
「分かりました。ではリスクもご理解いただいた上で、治療の手続きを進めてまいりましょう」
治療はきっとうまくいく。
そう、そのはずだった。
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結局、不妊治療はいつまで続けてもお金だけが飛んでいくばかりで、子供を授かることは出来なかった。コウノトリは人を選ぶんだろう。そんなことを思いながら涙に暮れる日々が、もう嫌になった。ある日の夜、圭介の部屋で「もう不妊治療やめにしようか」と呟くと、圭介は静かに頷いて「今までお疲れ様」と後ろから抱きしめてくれた。そのまま子供を授かるためではない夜の愛を交わした。行為が終わると、私は「そこで考えがあるんだけど」と乱れたベッドの上で囁いた。圭介の表情が、固まる。
「考えって何?」
——後編——
ミナミユリカの視点Ⅲ
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黒くどんよりとした雨雲は、私の行く手を阻むように帰り道を進むにつれて濃くなる。こんな日に背負うランドセルはいつもの数倍重く感じる。アーケード街を抜けたら、見計らっていたように雨が降り始めた。傘を叩く雨粒が強くなるのを感じ始めると、もう家の目の前まで来ていた。
「あれ?」
よく見ると、庭へ繋がる窓が開いていて、中のカーテンがびしょびしょになっていた。そこから中に入ってもよかったのだが、嫌な気配を感じ、私は身を隠しつつ開いた窓の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
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見ると、仏壇の横にある金庫を物色している赤いコートの後ろ姿が見えた。腰まで伸びた髪はびしょ濡れで、綺麗だったフローリングを水浸しにしていた。
「先生……?」
思わず声を出してしまうと、女はこちらに振り向いた。タタタタタタタタと、女は一目散に玄関へ駆け出した。刃物を持った右手に怯えて、私は庭へと逃げた。女はうちを飛び出して、向かいに止めてあった黒いバンに乗り込んだ。
あれ、今日ってお母さん休みのはずじゃ……。カレンダーを見て、今日の日付にハッキリ「公」の文字があるのを確認した。
お母さんがもしかしたら連れ去られているかもしれないという危機に気づいて黒いバンを追うが、追いつけないまま遠くの方に消えてしまった。
一通りお母さんの行きそうな商店街や近くの百貨店などを覗いたが、やはりお母さんは見つからなかった。雨が止み、この心とは裏腹に虹のかかった空を見ながら交番を訪れた。
「お巡りさん、私、お母さんがいなくなっちゃったんです」
「はぐれちゃったってことかな?」
鈍感な警察官に苛立って、「さらわれたかもしれないんです!」と叫ぶと、警察官は首を傾げた。
「犯人はちなみに見たのかい?」
「後ろ姿しか見てないけど……、わたし思い当たる人がいるんです」
歌方菜津奈の名前を出すと、奥の方からもう一人の警察官が顔を出してきた。
「何? 誘拐事件か何か?」
「どうやら、その可能性も視野に入れた方がいいらしい」
夜になると、大捜索が始まった。
交番の奥の四畳半ほどの小さな部屋で、ずっと窓の外を眺めている。お母さんがいなくなってから5時間ほどが経っているが、未だお母さんが見つかる気配はなさそうだ。捜索には、県警からも捜査員が動員されているらしく、大掛かりなものだった。それにしても見つからないということは、本当にお母さんはあの時さらわれたのかもしれない。私には危険が及んでいるという理由で、今夜は家に帰れないらしい。交番の用心棒に残された一人の駐在は、私が今日寝泊まりする場所を必死に探してくれているようで、ずっと忙しなく電話を掛けていた。
「お嬢ちゃん、今夜はお友達の直斗君の家に泊まれるみたいだよ」
言いながら、差し伸べられた大きな手の中には、まるでマジックのように小さな飴玉が出現していた。駐在のお兄さんは、優しかった。私が飴玉を受け取ると、頭を撫でてくれた。
「君が渡っていく世の中は、今日分かったように理不尽なことや怖いことの方がよっぽど多くてね。信頼してた人が急に態度を変えて、犯罪者になってしまう日が来るかもしれない。けどね、それはおかしいことじゃないんだよ。先行きの見えない時代だから、誰だって不安を抱きながら生きてる。その不安が時に心を蝕んで、根幹から人間を変えてしまうことだってあるんだ。だからって、悪いことをしていいわけじゃないけどね。つまり、俺が言いたいのはさ」
お兄さんは、パトカーで私を直斗くんの家まで連れて行ってくれている。ヘッドライトの光が高速で通過していくから、その横顔は月みたいに、満ちたり欠けたりした。私はおおよそ理解できない話だと思ったが、それでも咀嚼しようとがんばって聞いていた。意味ありげにお兄さんが言葉を切ったので、私は生唾を飲んで、お兄さんの顔を見た。笑っているような、泣いているような、どっちつかずな表情だった。
「強く生きろってこと」
翌朝。そこらへんの旅館よりも上質なサービスを受け、直斗の家から学校へ向かっている。直斗と二人きりの道中はどこか気恥ずかしくて、お互いにそっぽを向きながら歩いていた。一人っ子の私は、この雰囲気を兄妹みたいだと思ったが、直斗にそんなことを言ったら絶対に嫌がられる気がしたのでやめておいた。
昨晩、交番で飴玉をくれたお巡りさんいわく、お母さんが本当に見つからなかった場合は親権者を探さなければいけないらしい。「シンケンシャ」の意味が私には分からないが、なんとなく「お母さんの代わり」だろうと思った。
いつもより早く学校に着き、教室に入ると、私の席に菜津奈先生が座っていた。蛍光灯の灯っていない教室で、一点を見つめて動かない先生は凄く不気味だった。まだ警察の手は伸びていないのだろうか。秒針が刻む音だけが響く空間で直斗と私が立ち尽くしていると、沈黙を破るように先生が口を開いた。
「ユリカちゃん、今日から私の家に来なさい。お母さん亡くなっちゃったんでしょう? 私が引き取ってあげるわよ」
十秒くらい、彼女の言っていることが理解できなかった。お母さんを誘拐した犯人はお前じゃないのか……?お母さんが亡くなった?そんなことがあってたまるか。というかそんな話をどこで聞いたんだ。心の中で目の前の女に対して嫌悪や侮蔑というような黒い感情が爆発した。
「はぁ? 誰がそんなこと言ってるの!? それに、犯人はナヅナ先生……、あな……」
怒りを全て吐き出す前に、まずいと思った。先生の顔色が悪くなっていき、直斗に腕を掴まれた。私の前まで来た先生は、不意に手を上げたと思うと、平手打ちしてきた。
「なんて失礼なこと言うの!? ……あなたは私のことを避けたのよ! そして私を殺めようともした! ほら見てこの首の傷! あなたがつけたのよ! あなたは、私の愛を裏切ったの。その代償を絶対に受けてもらう! ……それまでは絶対に、あなたのことを逃さない!」
そう叫ぶと、先生はポケットからナイフを取り出した。昨日、犯人が持っていたものと全く同じものを。
直斗が反射的に私の手を引き、駆け出した。追いかけてくる先生を振り返ることもせず下駄箱まで行くと、上履きを履いたまま学校を飛び出した。のろのろと学校へ向かう通学班を避けて曲がり道に入ると、意外と至近距離まで先生が来ていることに気付き、遮断機が降り始めた踏切を走り抜けた。
ユリカ、逃げるな、ユリカ、許さない、ユリカ、お前が悪いんだ、ユリカ、y……、ユ……リカ、ユリカ、ユリ……カ、ユリカ、ユリカ、ユリカ、ユリカユリカユリカ、ユリカ!!
私を何度も呼ぶ声が、たしかに迫ってきていた。怖くなって振り返ると、遮断機がほぼ水平になりかけてた踏切に先生が飛び込んできた。
「あっ!」
声が出たのと同時に、目の前を電車が遮っていた。ドンと嫌な音がして、電車が通り過ぎた。
先生は死んでいた。私は取り乱して、その場を逃げ出してしまった。
翌日、学校に行くと、机に赤文字でびっしり暴言が書かれていた。「人殺し」という言葉や、「お前が先生の命を奪ったんだ」と私を責め立てる棘のような言葉の数々だった。
「由利香ちょっと来て」
後ろから肩を叩かれ、ドキッとすると直斗が立っていた。直斗についていくと、パソコンルームに通された。直斗が学校の裏掲示板を開くと、恐ろしいものが目に飛び込んできた。
【拡散希望】6年3組 ミナミユ✕カ
担任の菜津奈先生を踏切で押し倒し
殺害……!
yesterday 8:12
投稿者:@ryo__6☆ᐕ)39
匿名性を利用して、悪意ある内容を書いた誰かに対し悪寒が走った。黒い背景に赤い文字が揺れ、いつの間にか涙が出ていた。下の方までスクロールすると、証拠写真というように、菜津奈先生が倒れている写真と、私が取り乱して逃げ出した背中が写っていた。
「これ、みんな信じてるのかよ……」
私が完全に被害者だったことは、今隣で私のことを誰よりも心配してくれている直斗にしか証明できない。けれど、なんでこんなにも私が酷い目に遭わなければいけないのだろう?
直斗が、口を開いた。
「由利香、お前らがあいつにしてた事とこの一連の出来事って関係してたりしないかな?」
私は一人の女の顔を浮かべた。
ミナミユリカの回想
話は去年に遡る。先に断わっておきたいのだが、直斗と私はまだ友達ではなかった。しかし、当時担任を持っていた女が憎たらしい奴で、全員が苛立っていた。教師に採用されたばかりということもあってか、気合いが他の教員たちとは違い、鬱陶しかったのだ。しかも、最も腹立たしかったのが、そいつは私たちのことを「理解の及ばないガキ」と看做して話をまともに聞いてくれなかったことだ。その理由を突き止めたくて、私がその女について嗅ぎ回っていたら、思わぬ形で真相に突き当たった。
クラスメイトのやんちゃな男子が、ある朝松葉杖をついて登校してきたのだ。何があったのかと聞くと、彼は地元の暴走族と絡みがあるらしく、昨夜もいつも通り河川敷で屯していたという。河川敷の上には土手があり、昼間はジョギングやサイクリングをする人々が通っているが、日が沈んでしまうと人はまばらになる。そんな時間に、担任が現れた。彼はその時飲酒もしていなければ、煙草や火遊びもしていなかった。何一つ彼にはやましいことなどなかった。しかし担任は、当時地元民の間で噂になっていた〝ピンクのスズランテープが結ばれているフェンスの付近では、それが結ばれている分女の子が暴行されて殺されている〟という話を信じていた。そう、彼らが屯していた場所に程近い土手にはフェンスがあって、そこにスズランテープが今さっき結ばれた形跡があったのだ。新米教師のその女は、始業式のスピーチで「治安の悪いこの街を浄化し、危なっかしい児童たちに健全な教育をしていきたい」と言っていた。実際、この街は治安が悪かった。理解の及ばない事件が昼間から多発して、頻繁に警察が出動していた。しかし、それら事件に私たちが関わっていないことは、私たち自身が最も分かっている。それなのに、担任は私たちを「犯罪者予備軍」のような目で見たり、執拗にパトロールをしたりしていた。そのパトロールの途中で、分かりやすく「非行」と呼んでいいような場面に彼女は出会したわけだ。
「強姦魔」と罵られた彼は、「教育」を受けることになった。午後10時ごろ、その教師はゴミが沢山浮いているドブ川を対岸まで泳がせた。その後、河川敷に再びあがってきた彼に寝技をかけ、「ごめんなさい」と言うまで暴行を続けた。異性に暴力を振るわれる恐怖は当事者になってみないと分からない、そう頻りに口にしながら、鉄拳を振るわれ続けたという。しかし、彼がつるんでいた暴走族の中には、本当に女子高生に性的暴行を加えていた奴がいたらしく、容疑者は警察に引き渡された。ただ、結果がそうだったとはいえ、彼は暴走族と絡んでいただけで、骨折をするほどの寝技をかけられた。これは果たして「健全な教育」なのだろうか。違和感を拭えなかった私たちは手を組んで、先生を懲らしめることにした。「犯罪者予備軍」を一人でも減らすために始まったらしい「教育」が、クラスの生徒全員を共通の罪人にした。
翌日から、私たちは先生に壮絶ないじめを仕掛けた。教室のドアを開けた先生にバケツで水を被せ、近くにあった金属バットで思う存分殴った。教壇に縄を張って、先生を顔から転けさせたりもした。そんなことを続けていたら、ある日先生は学校に来なくなった。理由は明白だったが、代わりの教師は「行方不明」になったと言った。教師たちは、私たちがやっていた鬼のような所業から目を背けているようだった。
「俺さ、最近見ちゃったんだよ」
直斗に声を掛けられて回想から引き戻されると、外には雨が降っていた。
「何を?」
聞き返してみると、苦虫を噛み潰したような顔で直斗は話し始めた。
ミナミユリカの視点Ⅳ
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「俺が最近、隣町に出かけた時の話なんだけどさ、たまたま葬式場の前を通りかかったんだよ。そしたら、〝河邑〟って方の葬式をやってたみたいだったんだ。もちろん、そんなにジロジロ見るのも良くないからさ、そのまま通り過ぎようとしたんだよ。でも、恐ろしい光景を目にしちゃったんだ。これ言って大丈夫かなぁ」
この期に及んで探るように語る彼に苛立って「早く話して!」と急かすと、直斗は少しだけ口調を早めた。
「その葬式は、親族だけでやってたっぽいんだけどさ、霊柩車に棺が運ばれてきた後出てきたのが……
途中で直斗が口を閉ざした理由は、背後で〝ガチャッ〟と音がしたからだ。
「由利香ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
直斗が音の方向を見て、口に手を当てたのがわかった。私が気づかぬうちにパソコン室の入り口には相談室の先生が立っていた。いつもより化粧が濃い先生を気味悪く感じていると、直斗に背中を押された。
「はい、今行きます」
ヒンヤリとして、来た時とは空気の違う廊下。その先に、禍々しい未来が待っているような気がした。
「机にあんなもの書かれてカワイソウね。酷い人間がいるもんだわ」
先生が、振り返ることもなく言った。
「どうしてあんなことされるんでしょうか」と聞き返すと、先生は長い廊下の途中で足を止めた。太陽の光は青白く、彼女の背中を包んでいた。
「あら、分からないの」
私は一年前のことをわざわざ今年来た先生には話したくないと思い、黙った。時間が止まったような廊下では誰一人すれ違うことなく、気づけば相談室の前まで来ていた。
「なんて、冗談よ。何事にも原因があるから気をつけたほうがいいわよって私は言いたかったのよ」
相談室に設えられた流し台で紅茶を淹れる彼女は、笑いながらそう言った。私はソファに座ったが、いつもより背筋を伸ばした。そうしていないと、なぜだか分からないけど怖かった。
「はいどうぞ」
先生は普段と変わらず、紅茶とクッキーを私に出してくれた。その時、洋服がはだけて、先生の綺麗な胸が見えた。だけど、私は気づいてしまった。そこに生々しい傷痕があることを。でもすぐ誤魔化すように笑って、向かいのソファに座ってしまった。
「ねぇ、今日から私の家の子供にならない?」
真面目な顔に見えた。見えた、という曖昧な言い回しなのは、この時急に眠気が襲ってきて、目を覚ましてから振り返っているからだ。本当は面倒になって、頷いてしまったんだ。ここ最近、相談室に行くと、安心からかすぐに眠ってしまう。だけど、いつも眠る瞬間の記憶が無い。あと起きたあと、理由は分からないけど身体をたしかめるようになった。うまく説明できないけど、誰かに悪さをされているような気がしちゃう。痛くはない。むしろ気持ちがいい。だけど、これ以上は危ないと危険信号が鳴っている。先生じゃないですよね。私は怖くて、確認できない。嫌われるのが怖くて、そんなこと聞けない。
ミナミユリカの視点Ⅴ
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先生の家に着くと、先生は身長よりも高い門扉を前にして、スイッチを押した。ガガガガガ……と音を立てて開いた門扉の間を通ると、豪華絢爛な住宅の全貌が見えた。
こんな住宅が隣町にあるとは知らなかった。噴水は無かったが、幼い頃に絵本で読んだような豪邸を目の当たりにして怖気付いていると、後ろから「さぁ行きましょう」と先生に肩を叩かれた。迷路の様な長い玄関アプローチを進んでいると、後ろの方でガガガガガと、さっき入ってきた門扉が閉まる音がした。もう帰れないような気がしてちょっと怖かったが、先生は足を止めなかったので、私は前に進むしかなかった。
庭には色々な花が咲き乱れ、野菜を育てる家庭菜園があった。とはいえ、それはほぼ畑の規模だった。ただ、少し不思議に思ったのが、そこには異常なまでに異臭が漂っていたことだ。中央に一体、肉ばかり食べて肥満しているババアのような、畑には似つかわしくない案山子かかしが立っていた。
尋ねると、先生はこう言った。
「野菜の肥料っていうのはこんな臭いがするのよ。全く今の子は、肥料の臭いなんかにも敏感に反応するのね」
けれど、玄関までの道に立ち並ぶオリーブの木々は素敵で、前じゃこんな家には住めなかったななんて皮肉なことを思った。画廊のような狭い道を抜けると、この家の顔が姿を表した。玄関の上は、ほぼ全面がガラス張りで吹き抜けになっているようだった。家の外壁には漆喰が塗られていて、角の辺りにはタイルやレンガがあしらわれていた。何気なく見上げた空に、烏の群れが飛んでいる。案山子の上空まで血気盛んに飛んできたと思えば、急に何かを思い出したように翻していった。
「お邪魔します」
重厚感ある木製の扉を開けると、中央には階段があって、二階、三階へと続いているようだった。
「まずは手洗いうがいをしようね」
小学生の私をいじっているのだ。悔しくて、笑ってしまう。
しかし、先生が玄関でマスクを外した瞬間、血の気が引いた。あの女だ。目の前にいるのは、私が去年いじめていたあの担任の女だ。マスクの上は整形していたのだろうか、目や鼻の形から全く気が付かなかったが、噛んで噛んで噛んで噛んで腫れ上がったようなたらこ唇は確実にあの女のものだった。
ニヤリと笑った女は、下足入れの上にあったトレーにマスクを置くと、私に一歩ずつ近づいてきた。私は後ろの階段に気付かずに足を引っ掛けて思い切り後頭部を打った。
「痛いっ!」
素早くロープで縛られ、私は飼い犬の様に引っ張られた。そのまま失神スレスレの状態で納戸に連れて行かれた。足と手が縛られた私は、思いきりゴミと段ボールの山に投げられた。
ドアを閉められ施錠をされると、私は死んだように眠るしかなかった。日光がほぼ入ってこない納戸は、昼間でも夜のような暗さだったが、日が落ちるとマンホールの底に追いやられたように、何も見えなくなった。
眠りから醒めた私は、納戸が面する廊下の奥から何者が近づいてくる足音を聞いた。部屋の前で足音が止まり、牢の鍵が開いた。
廊下の光を背にシルエットになった誰かは、男の体格で、恐らくあの女の夫だった。男は近づいてくるなり私の腹に思い切り蹴りを入れ、「俺の妻をよくも傷つけてくれたな!」と怒鳴った。腹の虫が治まらない様子の男は、私の全身が腫れて、膨れ上がるまで殴った。そして、やがて男の攻撃は言葉責めに転じ、精神までも抉り始めた。
「ちょうど子供もできなかったし丁度良い。今日からてめぇはうちの子だからなぁ?」
男はそう言って、ベルトで私のお尻に鞭打ちをした。その日最後の一撃だった。私は三途で小石を積むような、救いのない日々を覚悟した。
明くる日、男は部屋に改造したような電撃殺虫ラケットとバケツいっぱいの水を持ってきた。這いつくばって逃げようとする私を捕らえ、水を浴びせると、電撃殺虫ラケットを思い切り私の皮膚に当てた。
「……やめてっ!」
バチバチと音がして、身体に電流が走った。それからも、突然牢屋を出してもらえたと思えば冷たい浴槽に顔ごと埋められたり惨い拷問が半年ほど続いた。それに加えて、食事もろくに与えられなかったから、生き地獄のような日々に自殺したくなった。けれど、自殺をする道具さえ、私には与えられなかったのだ。
意識が朦朧とし始めた頃、河村恵子は私の元に来るとこんなことを言った。
「由利香ちゃん、もうここまで復讐を受けたら過去のことは反省したでしょう?」
こくりと頷くと、彼女はニヤリと笑って話を続けた。
「もしあなたが私の要求を飲んでくれたら、今日付で復讐は終わりにしてあげてもいいわよ。これからは私の目的達成の為に、私の下で働くのよ」
目の前の女がよからぬ事を考えていることだけは分かった。けれど、もう精神的にも限界を迎えていた私は、この生活から脱出できるのならと思い、あっさり口を開いた。
「私は何をすれば良いんですか?」
ナオトの視点Ⅰ
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僕のクラスメイトだった南由利香は、あの日を境に学校へ来なくなった。夕立降る放課後、僕は彼女と相談室の先生が車で学校の外へ出ていくのを見た。何かあることは察していながら、僕にはどうすることもできなかった。僕はただ、黒いアウディが遠くへと消えていくのを見届けた。次の日になって学校に行くと、「南由利香さんは転校されました」と教師は明らかに嘘をついた。
彼女のことを助けてやれなかった後悔を引きずりながら、僕は中学生になってしまった。今思い返すと、学級委員としても、一人の男としても情けなかったと思う。県道沿いにびっしり並んだ桜の花びらが散りゆく様を、感傷的な気分で眺めた。
朝の鐘が鳴って、我に返ると、担任の先生が入ってきた。だが、それを見て、僕は愕然とした。つい最近卒業したばかりの母校の相談員だった教師が担任になっていたのだ。
「今日から一年A組の担任になりました、河邑恵子と申します。この時間は自己紹介をしていきましょう」
小学校の時には名前を聞いたこともなかったその女は、平然と教壇で名を名乗った。
あれっ、河邑……? 河邑という苗字は、去年の地元新聞で報じられた事故かなんかの記事で見かけたような気がするが、誰だったかまでは思い出せない。担任の女は僕の戸惑いに気づかないように、淡々と指示を出していった。
隣の人、前後の人、気になる人という順で自己紹介をし合っていく流れらしい。気になる人に話しかけに行くというスタイルを取ったところで、初日からそこまで積極性を出すような奴はいるのだろうかと疑問を持ったが、それよりも、自分の中で渦を巻く何とも言えない担任への不信感の方が気にかかった。
まずは隣の女子からだったが、その隣の女子は見た瞬間から目を奪われる様なルックスだった。やや紅潮した頬に艶のある髪、人形のような整った顔立ちを見て、彼女を射止めたいと思った。出来もしないことを言って見栄を張ると、彼女は目を輝かせて言った。
「わぁ、物凄くタイプだわ。もし良かったら今日の放課後、私の家に来ない?」
願ってもない誘いに、断る理由が無かった。
彼女は、自分の名前を美波と名乗った。僕の中学校は、小学校からの友達が意外と少なかったので、友達を作るのが大変そうだ。ただ、彼女を作るのは案外難しくなさそうだなと隣の美波を見ながら思う。中学校の横の、傾斜が急な坂を一段ずつ「よいしょ」と言いながら下りていく後ろ姿はとても愛おしかった。
坂を下りると、歯医者さんがあったりスーパーマーケットがあった。十五分ほど歩くと、住宅街の中に自分の家を見つけたが、彼女に腕を引かれ、通り過ぎた。「遠くない?」と僕が話しかけると、彼女は「でもうちめっちゃ広いし綺麗だから楽しみにしておいてね!」と言った。
合計三十分ほどで、やっと彼女の家に着いた。彼女の家は想像以上の豪邸で、入るのも躊躇してしまうほどの規模感だった。
「じゃあ行こっか」
頷きながら、僕はソワソワしていた。この後、彼女とこの屋敷の中で、あんなことやこんなことをすることになるのだろうかと。手馴れた手つきで彼女はスイッチを押す。映画に出てくるような門扉は、ガガガガガと音を立てて開いた。踏みしめるような足取りで敷居を跨ぐと、門扉は背後で閉まった。豪華な建築を見ていると、ワクワクする気持ちが強くなっていった。玄関まで着くと、ドアを開ける前に美波は「お母さんにちゃんと挨拶してね」と言ってインターホンを押した。いや、お母さんいるんかい。
「はーい、今開けるからちょっと待っててね!」
甲高い声が聞こえたと思うと、扉から顔を出したのは担任の河村恵子だった。
「美波、どういうこと?」
僕が尋ねると、彼女は顔色も声音も変えてこう言った。
「特別講義が始まるんだよ。君は直接手を下しはしなかったけど、見ないふりをした。それだけで、残念だけど同罪。選ばれちゃったんだ、私の次の生贄にね」
はっとした。僕が狙っていた女子は、いなくなった南由利香だ。去年は眼鏡をしていたから、おおよその印象でしか見ていなかったが、彼女は綺麗な顔立ちをしていた。
でも、なぜだ? なぜ、僕が今この二人に囲まれている? 二人はグルなのか?
立ち竦む僕を嘲笑うかのように、5時のチャイムが鳴った。燃えるような夕暮れの中、ミナミがニタニタと口を開いた。
「何突っ立ってんだよ、先生いるんだから早く教室入れよ。鐘が鳴ったの聞こえなかったんか」
取り乱す直斗の背中をなぞりながら、担任の河村恵子が言った。
「あなたは今日からうちの子供になるの」
「は? 俺、親いるし」
「もういないわよ」
「何言ってるんだよ!」
声を上げた途端、後ろからガタイのいい男に蹴りを入れられ、数メートル飛ばされた。全身に走る痛みを庇っていると、頭を掴まれた。
「お前さ、俺の奥さんに去年何してくれた?」
あまりの形相に震えてしまう。僕は見えない影に囲まれ、取り込まれそうになっていた。暗くて心許ない視界の中、何度も瞬く。
「随分と躾がなってないのね。最初から私の元に生まれてくれば良かったのに」
恵子が閻魔のように笑った。
これから、世にも恐ろしい講義が始まる。
ミナミユリカの視点Ⅵ
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直斗を誘拐し、その上、私と同じように復讐という名の暴行をしようとしている先生の取り憑かれたような顔を見て、私は我に返った。
——自分は、我が身の為に犯罪に加担してしまったのではないか……。
そう思った途端、私は至る所にこびりついている誰のかも分からない凝血を拭き取る雑用をやめて駆け出した。
直斗が監禁されている納戸の前まで行くと、そこには南京錠がかかっていた。四桁の暗号を当てなければ鍵は開かないが、施錠をするのはいつも恵子の夫だった。復讐に加担するくらい愛妻家(悪い意味で)なのだから、きっと恵子の誕生日に違いない。あっさり開いた南京錠を外すと、素早く中に潜り込んだ。助けを求める直斗は助けてやるか迷ったが、二人だと逃げるのにも倍のリスクが伴う。残念だが、自分のことを見捨てた男を助ける義理は無い。投げられていたランドセルから財布を取り出した。このまま正面玄関から飛び出した場合、あの長い門扉までの道のりで捕まる可能性が高い。
私は一瞬で思考を巡らせ、ガレージに出る裏口があるのを思い出した。納戸の鍵を閉め、廊下の奥にある寝室を覗き込むと、四本の素足がベッドの上で絡み合っているのが隙間から見えた。恵子の夫は腕っぷしが強いくらいしかイメージが無いが、先程からずっと『マティーニ』という単語を連呼しているようだ。行為の途中で喉がカラカラなのかと思ったが、発語するタイミングを意識してみると、恵子のことをそう呼んでいるのだと気付いた。どうやら、『マドンナ』とか『アモーレ』とかそういう意味だと思っているらしい。吹き出しそうになっていると、彼の息遣いが荒くなってきた。
先を急がなければと思った。彼は数秒後には絶頂を迎え、恵子と重ねた身体を引き剥がして、水を飲みに来るだろう。そうなれば、今日中に逃げ切るのは難しくなりそうだ。私は弾かれたように走り出した。
しかしその数秒後、廊下にある備え付けの電話が鳴った。驚いてよろけると、寝室から不機嫌な顔をした裸体の男が出てきた。
「何やってんだ!」
獣のような怒鳴り声を背に、私は豹のような速度で駆け出し、ガレージに飛び込んだ。ボタンを押すとゆっくり上がるシャッターに体を滑り込ませ、目の前の国道を裸足で駆け出した。
シャッターはまだ一定の速度で上がっているが、恵子の夫はきっと追ってこないはずだ。なぜなら彼は裸だったから。
辺鄙なところに建つあの大きな家は、駅へのアクセスがとてつもなく悪い。私は、夏真っ盛りで日に焼かれるアスファルトを涙目で走り続けた。母親は私に付きっきりにはなれないからと、多めにお金を持たせてくれていた。きっと、これで東京で暮らす父親の元を尋ねることができる。顔も思い出せないが、住所だけはなんとなく知っている父親に一縷の望みをかけるしかなかった。最寄り駅に着くと、周囲を窺いながら中に入った。切符を通して改札を抜けると、ホームのベンチに座って、河邑恵子が語った事件の真相を振り返った。
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去年、担任の歌方菜津奈が踏切で亡くなった次の日、地元新聞は一面で事故を報じたが、そこに載っていた名前は全く知らないものだった。
——河村和美。
私が衝撃を受けたのは、歌方菜津奈を名乗っていた河邑和美と、スクールカウンセラーであったが名前を明かすことはなかった河邑恵子という女は、親子だったということだ。私たちのいじめによって心を病んだ河邑恵子は、去年の夏、実家に帰った。元々、河邑恵子はファッションモデルや配信者などのインフルエンサーになるのが夢だったが、両親はそれに猛反対し、教員になるよう強制したらしい。親に言われるがまま教員採用試験を受け、無事に合格、華の学園生活が待っていると思えば待っていたのは学級崩壊寸前の世紀末クラスだった。
恵子は、実家で怒りをぶちまけた。父親は既に病気で他界しており、いたのは母親だけだったという。それを聞いて、和美は「あなたを救ってあげたいわ」と言ったらしいが、具体的な考えはなかったみたいだ。恵子は和美が教員免許を持っていることを思い出し、夫の病気の看病で教職から離れていた母親を教師として復帰させた。それも、悪役として。悪役を作ることによって、善良ぶった自分にターゲットはホイホイ近づいてくる。あとは関係がある程度構築されれば、鳥籠の中で暴力を振るう。それが、彼女の復讐スタイルだった。母親は悪役をやることを嫌がったため、毎日謝礼を渡すことによって我慢をしてもらっていた。そして、最後に踏切で死ぬことを指示したという。捨てられたと感じた和美は傷ついて本当に自殺した。悪役として、あいつは優秀すぎたよ。そう言って白い歯を見せたあの女の笑顔を思い出し、私はゾッとした。しかし、私は直斗をあの家まで連れ込む役割を、悪役を、全うできただろうか。評価をここに来る前に、聞いておけばよかった。どんなに手を汚しても、彼女は最高の先生だった。もうきっと会うことはないから、私は心に決めた。自分もあんな先生、いやスクールカウンセラーになるのだと。
遠くの踏切で遮断機が下りる音がして、電車が来ているのだと、ふと回想から現実に引き戻される。ベンチを立ち、遠くから来る三両編成の電車を覗き込むと、後ろから思い切り線路に向けて背中を蹴られた。
全く状況が飲めずにいると、いきなり電車のスピードが上がったような気がした。棒高跳びの様な目線で電線が目に入ると、走馬灯に流れたのは、幸せな想い出を全部塗り潰した黒い復讐の数々だった。風を切る音が耳に絶えず近づいてくると、思い切り鉄の塊に身体がぶつかって、再び空中に投げ出された。
その弾みに見えた駅のホームには、腰まで髪を伸ばした女が立っていた。白い着物を、左前で着付けした女が。顔はよく見えないが、あれはもしかしたら歌方菜津奈、いや、河村和美の亡霊なのではないか……?だとしたら、私はきっと生贄になったんだ。駅員が事故を察知してこちらに駆けてくるが、女が亡霊だから見えないのか、はたまた女のことを見て見ぬふりしているのか、その横を女はひらりと躱して人混みの奥の方へ消えていく。
「生きたままでいれるとでも思った?」
女の叫び声はホーム中に響き渡り、私の夏に終わりを告げた。
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【蛇足】
それから数年経ち、河邑恵子とその夫は殺人と死体遺棄の容疑で書類送検された。警察の取り調べに対し二人は一貫して無罪を主張しているが、証拠が揃うのも時間の問題だろうという見立てが強い。しかし今でも、南由利香の母親や風端直斗の両親、河邑恵子を虐めていた生徒数名の消息が分かっていない。彼らがどのようにして多数の屍体を管理していたか——、読者諸君はお分かりだろうか。
河村恵子が夫と一緒に住んでいた愛の巣、犯行現場は取り壊されることが決まった。その理由について、警察から委託を受けている業者は「話すようなことなど何も無い」としている。
畑には、復讐目的で子供が連れてこられる度、案山子の数が増えていたと近隣住民は語る。現時点でまだ案山子は回収されていないが、現場の前から件の案山子を有名霊能者に霊視してもらったところ、その辺に禍々しい念を感じるという。そう言ったきり霊能者は口を閉ざし、やがて白目を剥いて眠ってしまった。
案山子が連なった庭園の奥、ブルーシートで覆われた家の様子を車から窺っていると、奇しくもあの日のような雨が降り出した。〝あの日〟をどうか思い出してほしい。由利香の母親が誘拐された日、由利香が恵子に翻弄され、この悪夢のような屋敷に足を踏み入れた日。何かが起こる前には必ず、兆しのように雨が降っていた。雨が強さを増してゆくと、案山子の表面がポロポロと剥がれ始める。そして、そこからは妙にリアルな肌色が覗いた。
何気なく見上げた空には、烏の群れが飛んでいる。案山子の上空まで血気盛んに飛んできたと思えば、急に何かを思い出したように翻していった。理由は分かる。だけど、私には言えないし書けない。気持ちが悪いから。猛烈な吐き気に襲われ、私は車を降りる。
雨がこのまま執念深く降り続けば、真実が明るみになると思う。私はそれから空が暗くなるまで、ひたすらに歩き続けていた。あの恐ろしい家から離れたくて、離れたくて。身体がブルブルと震えているのは、傘もささずにずっと歩いていたからだろうか。そこまで考えて、それは都合のいい解釈だと思った。明日から、この事件をベースに小説を書こうと思う。これを書き上げるまで、私は死ぬわけにはいかない。なぜならば、この事件の真相は〝私以外に誰も知らない〟からだ。
【完】
原作を読まれたい方はこちらから↓
#2021080120241015
特報
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——2024年冬、
『反面教室2(仮)』制作決定。