私抄【Cauldron. Case 2024.2】大循環型対話交流概念「リゾマティズム(rhizomatism)」
【注意 / CAUTION】
以下の文章は、一部の方々にとって悪影響をあたえる表現が使われています。他者の意識影響を過敏に受けてしまう方は、注意深く読み進み、危険を察知しましたら、速やかにブラウザバックもしくはウィンドウを閉じてください。
はじめに
VRChatに対して、力尽きて消えてゆく方がいます。
もっと言えば、現実世界でも、力尽きて消えてゆく方がいます。
その多くの方がきっと口にするのは、以下のような吐露かもしれません。
「誰とも出会えなかった。誰とも関係を築くことが出来なかった。誰とも、解りあうことがなかった。」
人と出会い、関わり、もしかしたら解り合う。
・・・それは素晴らしい事です。
人という生命の中で。それらは最も美しいと言われる瞬間であることは、論ずるまでもありません。
しかし、私がいつも口惜しく思ってしまうことがあります。それは、
出会えるのは、関われるのは、解り合えるのは、
・・・『人』だけですか?
ということです。
つまりは、あなたに影響を与え、喜びを与え、寄り添えるのは、
『人』だけなのですか?
ということなのです。
さて、ある時、こちらの文章が、界隈のSNSを揺らしました。
人との隔絶による、モチベーションの低下、それに伴う消失。
よくわかります。私も経験しました。
そして、対して私は、自らが過去に投稿した、一歩踏み込んだ、風変わりなチュートリアルを引用しました。
最終章に書き出したのは、人との隔絶を、世界の美しさが時に癒すことを信じた、VRの水底よりの一縷の願いです。
これに対し、(@N_Y_A_A_N_C_A_T)さんが次のような言葉を添えてくれました。
・・・・・・・
私はこの言葉をゆっくりと口に含み、長い時間をかけて嚥下しました。
その時、私の中で眠りながら浮遊していた。数々の概念が、私の預かり知らない処で、いっせいに目を覚ましたのです。
熟達の航海士は、渡り鳥の様子や、海中から響く異音の噂、生態系の乱れといった断片情報から、白鯨の到来を知ってしまう。
要所より造船所に運ばれた、各機関部の重機たちが、鉄の脈を感じさせながら組み上がり、私の脳内に重厚な起動音が満ちていきます。
結果の一歩手前に留め具を差し入れ、その留め具を抜き去る結果の一歩手前にも留め具を差し入れ・・・そして、結果の堆積を、最後の一手で雪崩状に引き起こす。
その時が来ました。
トリガーは発動し、留め具は引きちぎられ、連鎖は開始しました。
この大崩壊の先に何があるか、ご一緒してみましょう。
・・・・・・
事の始まりを思い出しましょう。
私は今までも漠然と「世界との対話」「物語との対話」といった、ライブコミュニケーションの手法を取らない関係性を是としてきましたが、それに大枠を与えることが出来ませんでした。
「そんなカンジもあるね」くらいの空気感で当時の感覚を捉えていたと記憶しています。
その世界観から、一歩踏み出すきっかけを与えてくれたのは、「モノを愛する」ことの出来る、いや、それがデフォルトに近くなる感覚を「象徴化」しようとされている方々の存在です。
そのような嗜好性は、一見すると変異的と見えるかもしれませんが、実は多くの方が何かを愛する時にたどる嗜好性と、そう変わりがありません。
その解析を担うのが、「新しい時間の概念」と「全てにひそむシニフィアンとシニフィエの存在」です。
「新しい時間」と「時間軸の獣」
現在多くの方の概念下にある「時間のイメージ」は「戻ることの出来ない『一本道』を過去から未来へ向かって歩いている『独りの人間』」そんな図ではないでしょうか?
新しい時間軸の概念感覚では、ここの捉え方が変わります。
もし、「時間」の概念上で、この世界を観測しているのが『独りの人間』ではなく『一本道』の方だとしたら?
自分という存在は、時間軸上の孤独な一点ではなく、存在の発生から消滅までを一つのフォルム、シルエットとしてもつ、時間軸上の龍のような姿だとしたら?
この感覚は、次元の繰り上がりにおける「観測者と観測対象」のお話にも通じます。
時間軸を四次方向に加えた世界線での私達の姿をデフォルトとして捉え、不可逆な時間軸を平面上の地図に見立てて、あらゆる関係性を再定義しようとしている試みです。
ちょうどそれは映画「メッセージ」に登場する地球外生命体「ヘプタポッド」が観ている世界の様でもあります。
そんな、時間における関係性が均一化された、時間軸の獣としての私たちにとって、他発信との「過去における(過去からの)接触」と、「未来における(未来に出会う)接触」は、同義の事象です。
実は、この「同義である」という感覚は、既にこの社会でも言語化されており、私はこれを、不登校や引きこもりで悩む「自身の人間関係の希薄さ」に対する回答の一つとして、過去に学びました。
過去からの表現であるアート作品が、未来のある地点へ影響を与える(過去→未来)
未来からの表現である新規の歴史観や、諸事情が、過去のアート作品の輪郭を掘り下げ価値を浮き彫りにし影響を与える(未来→過去)
そういった、外周スケールの大きい「対話」が、既にこの世界でも起こっており、これをサンプルスケールとするような、時間軸上でフラットな対話関係性という地平を、「新しい時間概念」は示してくれます。
つまりは過去における表現・発信・語り掛けを、私たちは現在下の対人交流、ライブコミュニケーションと同じように扱うことが出来るという事なのです。
「モノ」。そのシニフィアンとシニフィエ。
さて、それらを踏まえたうえで、「モノ」や「セカイ」への愛へと至る旅を続けましょう。それは、愛そのものを紐解く極北の旅となります。
さて、あなたは、人に恋することが出来ますか?
魂の定義を社会が認めたAI搭載アンドロイドとはどうですか?
では、魂の定義は認知されていませんが、
チューリングテストを完璧にこなすAIとの恋は?
更にタイトにいきましょう。
あなたの声には答えませんが、
あなたの理想とピタリとあうフィクションのキャラクターとの恋は?
ハードカバーに装丁された、文章だけの世界の人物に恋したことは?
文字さえ無い、一枚の絵に佇んだ誰かに恋したことは?
誰かがSNS上で語った、
好みのシチュエーションにいた好人物に心動いたことは?
・・・・
人が感情を動かされる。関わりを感じる。もっと言えば、愛を感じる。
「それ」は若しかしたら、対象が人ではなくても良いのでは?と感じましたか?
大きく首を振っているあなたは、「ここ」が、誰かの作った、箱庭でなく、愛する隣人が、用意された、用意されていた「何か」ではないと言い切れますか?
失礼しました。
思うに、センシティブな表現になりますが、
できうるだけドライに現象を切り出すと、私達は「受肉した人物」というシニフィアン(表記)ではなく、絶えずその人物がジェネレイトしている人物としてのシニフェ(意味)に恋をしていると言い換えてもいいように思います。
だとすれば、だと仮定すれば、この「受肉した人物」を他のシニフィアンに入れ替えても、私たちの恋心は成立するのではないでしょうか?
そう、それは情報を発信し続ける架空の創作キャラクター。
そう、それは話題絶えない謎めいた出自をもつ絵画に佇む美しい誰か。
そう、それは万物が不変に表す、「変わらずそこに居る」という然るる姿。
過去生じた、その物体(シニフィアン)に与えられた意味(シニフェ)、それをライブコミュニケーションと同義に扱うことの出来る新しい時間概念の元では、この世界そのもの全てが対話をする相手と言えます。
これは負の側面では、過去からの総体としての常識や、善意からの必要悪や、市場という暴力機構それらの群体たる集団意識が生み出す「都市という獣(リヴァイアサン)」との対話を、多くの人々が「対話」と気付かずに吞まれていくという問題があります。
正の側面では、発信の意味を持つ物質を個人が認識し続ける限り、そこに社会性充足度が発生したり、発信の意味を原初の創造主までたどれる個人は、遍くを「神」からの神託ととることができるでしょう。
やおよろずに神を見る感覚や、「目にうつるすべてがメッセージ」という全能感や多幸感を得ることが出来ます。
ここに至って、あらゆるシニフェを含んだモノ、転じてセカイそのものとの対話が出来る素地が整いました。
それは世界を知り、世界に恋する呪法。
これらを受け、私はここに、「ヒト」を含み「モノ」を含み「セカイ」を含む。大循環型対話交流概念。「リゾマティズム(rhizomatism)」を提唱します。
リゾマティズムは「リゾーム主義」。
ジル・ドゥルーズの提唱する「リゾーム」の在り方を、構造を越え父権的ツリー構造を排し、半ば呪的に自己の世界構造に取り入れる、試みです。
この概念上では、時間と空間を同義として捉え、その内部で出会う(出会った、出会うかもしれない)関係性を、「表記」ではなく「表意」として捉えます。
その地平では、過去からのメッセージも、現在のライブコミュニケーションも、また未来の想像としての可能性も、同じ対話のステージとして評価します。
その中で育まれる、関係性の軸索、若しくは地下茎の在り方が問われるこの概念下では、原生生物的繁殖に模した、時間と空間への繁茂が評価軸とされ、そこでは事象の良悪、自他利害に左右されません。
解りやすく言えば、
「深く知ろうとし、そして知れたか。(成否問わず)」
「深く愛そうとし、そして愛したか。(成否問わず)」
これが是となります。
【注意 / CAUTION】
「現社会性逸脱の危険性あり」
これは、父性的Lawの世界から、意識をもって大釜(Cauldron)へと意識を差し出すとても危険な行為です。かつての人格障害による悪魔付き、狐憑きなど、使用法を間違えば意識を深淵に引きずり込まれる破滅行動でもあります。
しかしなお、「妄」より至る「魔」に対して克己心を持ち、愛のもと勇気をもって、現社会性を超えた自己世界の完成をめざす旅人であれば、あなたの背を守る陽光となるでしょう。
この概念の副産物として、逆説的に、自らが居なくなった後に引きおこる他者との対話を考えることが出来、疑似的な不死性を身に着けることが出来ます。
あなたはそのままの状態で、遍く時間と空間に価値均一化され、その茎が届く範囲であれば、その有無を問うことなく、他と関係し、時に壊し、時に愛され。先にはあなたの種子を残すこととなるでしょう。
バナナ型神話におけるバナナと石。かつて隔たれた二つの存在。
蛇足かもしれませんが、私はこの話題を頭で燻らせている間に、ずっとまとわりついていた「バナナ型神話」のことを思い出すのです。
またこのバナナは一説には、失楽園のマクガフィン「智恵の実」との共通点もあり、大きな神話体系にも思いを馳せてしまいます。(石に対応するのは「生命の実」)
ライブコミュニケーションが可能なかわりに、変化し、失われ、定命とされる命あるもの。
今回のような広義の対話に長年区分けされるかわりに、不変性の強度が高い、表意持つモノやセカイ。
それらの違いが、このバナナと石の関係性の様で、失楽園以前の神話上においては、ヒト・モノ・イノチ・ジショウの区別なく恋と愛と、安寧が広がる優しい世界があったのかもしれないと妄想してしまうのです。
おわりに
さて、長い戦いの末。
白鯨はアビスより出でて、私の手を離れました。
美しいその姿を陽光にさらして、往くは狂気か、未踏破の海原か。
後のことを、後継に託し、私はこの旅路に一端の道標を立て、先へ進みたいと思います。
ありがとう。
思い出してくれて。
私抄につき、場所は伏します。