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恥じらいが生まれる理由
他人との会話で自分の考えを話す時、
snsで自分が映る写真をアップする時、
みんなの前で何か失敗をした時、
なんだか恥ずかしい。
よくよく考えてみれば大したことじゃないと思うんですよ。
自分の考えや思想に驚かれたとしても、それが軽蔑にまで繋がることはほとんどない。
(そもそも関係値が浅い人間と共有する思想などたかが知れている。)
sns上に写真をアップロードしたところで一般人のアカウントにはそこまで影響力はない筈。
(知人には見られるけどそもそも上げたくて上げているのにね。)
醜態を晒しても、その場で笑われることはあるかも知れないが、それもその場の話だろう。
それでもなんだか小っ恥ずかしい。
この感情はなんなのだろう。
絶対ない方が楽な場面が多い様に感じる。
僕は恥じらいは全て
過去のトラウマ、不安から生まれる。
と考える。
結局恥ずかしいという感情を深掘りしていった時、全て過去の経験に起因していると思う。
勇気を出して伝えた自分の考えを馬鹿にされた。
笑われた。後ろ指を指された。
snsにアップした写真を
不細工だ、痛い、きもいなど、
心無い言葉をかけられた。
学校など、みんなの前で失敗して
笑われた。目線が凄く集まり気になった。
噂された。仲間外れにされた。
辿ってみたらこんな所なのではないかと思う。
勿論これらは本人にとっては大きな傷であり、
いたたまれない記憶である。
嫌な記憶は妙に鮮烈で、長く頭に刻まれるものだと思う。
しかし記憶は記憶である。
過去のこと。
もうすでにこの世の中には存在していない。
今の自分を形成していることに間違いないが、
現在の自分の行動に直接的に起因しているものではない。
それに足を引っ張られ続けることは、自分の可能性を潰していると言って差し支えない。
じゃあなぜ、僕達は恥じらうか。
それは防衛本能だと思う。
僕は脳の構造とか心理学などの専門分野の知識がある訳ではないけれど、僕達の脳はきっと失敗を危険と捉えていると思う。
失敗する(馬鹿にされる、笑われるなど)→危険と脳が捉える→失敗を防ごうとする→恥ずかしいという感情を形成する→それらが積み重なり記憶となる→(現在)行動を起こそうとする→失敗を防ごうとする→過去のトラウマから形成された記憶から恥じらいが生まれる◀︎今ここ
大体こんな感じなんだろうなと。
人間の脳って意外と単純とか言いません?
ただ人の歴史はやっぱり長いので、
原始から紡いできた本能というものは間違いなく現代の我々にも影響している。
昔だったら一つ判断を間違えただけでマンモスに踏み潰されてたんだからね。🦣
そりゃあ防衛本能も残ると思う。
しかしそれに流されすぎるのも良くない。
社会という共同体を形成しその枠組みで生きていく以上我々は本能に打ち勝っていく必要がある。
本来それでこそ現代人と呼べるだろう。
自分が幸せになるための行動を起こすためには、
過去に引っ張られてちゃいけないと思う。
それでもなかなか忘れられないですよね。
僕達は都合の悪い記憶を、都合良く拾い上げている。
そうして自分を守ろうとしているし、それが行動を妨げている。
だからどうしても恥じらいが付き纏う。
僕はドレスコーズの志磨遼平が大好きだ。
いつか彼が言っていた、
アーティストとして大成するためには?という質問に対して
「思い込むことです。」
そう答えていた。
自分が今行なっていること、やろうとしていることは正しい、絶対に意味があると思い込むこと。
確かにそれが出来れば、周りの意見に振り回されることも、過去の記憶に引きづられることも無くなるだろう。
だって思い込んでいるから。
それを正解にしているから。
確かに何かを成し遂げている人は確固とした自分を持っている様に感じる。
時々自分のしていること、やりたいことの有用性や正しさが分からなくなってしまう。
本当にそれでいいのか?って
僕は美に耽って死ぬと決めている。
文学にしろ、音楽にしろ、詩にしろ、
何かをしたい理由なんて
「それが一番美しいから。」
何かを否定する理由なんて
「美しくないから。」
それぐらいでいいんだろうなって最近気付いた。
優しいみんなだからこそ難しいんだろうけど、もっとエゴを出して生きていこう!
自分のやっていることが世界で一番価値がある。
ずり落ちそうになったら、再び這い上がる。
綺麗な思い出を拾い上げながら、
背負いすぎたものを降ろしながら、
適度に力を抜きながら、