少女じゃない私の「きみ」は少年じゃないけれど。
彼女と出会う前に修士論文を書きながらひたすら聞いていた曲の一つが、ピノキオピーさんの「きみも悪い人でよかった」だ。久しぶりに作業BGMにピノキオピーさんの曲を流していたら、ひとりの頃聞いていた曲を彼女と共にいるようになって聞き返すことになった。私は思わず彼女を抱きしめたくなった。思いっきり彼女を抱きしめたあと、歌詞を見返しながらこの曲を聞き直して、私は思わず泣いてしまった。彼女と生きるという私の選択とこの曲が重なって感じられた。そのことを書きたい。
この動画のコメント欄で下のように指摘している人がいる通り、この曲のタイトルでもある「きみも悪い人でよかった」とは、何が悪い人で何が良い人なのかという社会的なあるべき価値との距離が離れているということと、その距離の離れ方が自分と同じような人と出会えたということの二つを同時に伝える秀逸なメッセージになっている。
社会的なあるべき価値との距離が離れているために、”そう言う感情”になるべきとなっている感情を共有できないがために、私たちは「少し寂しい二人」になってしまう。そんな二人で抱き合っていても「周りには滑稽に見える」だろう。そもそも、この二人で生きていくことが本物の「幸せ」であるということ自体が理解されないだろう。そんな二人にとって、社会は「瓦礫」の山であり、「革命」の対象である。しかし、二人の力は小さく実際の革命をするにはあまりにも「あどけない」。それでも、二人は社会に抗って「はしゃぎまわ」り、「くすぐりあう」。その生活の中で「きれい」なもの、「かわい」いもの、「おいしい」ものを見つけ、普通なら「駄作」とされるストーリーに「紐解く」べき深みを見つける。そのような価値の転倒自体が、実のところ「あどけない革命」の実体を為している。そのような革命に従事することができるならば、それはきみと共にいるからできることだが、この世界で「生きていたい」。
これが、私がこの曲に見出しているストーリーである。私はこれを、良い娘にも正しい女にもなれない私が、私と同じように「悪い人」にされてしまう彼女と出会う体験と重ねている。私は、操を守れてもいないし(性暴力被害に遭い、その数年後から再演的に夜の街に出て行くようになった)、安定した職にもつかないし(アカデミアに残る選択をしている)、男と結婚して子どもを産んだりしないし、親の望むような孝行はもうできない。この全部を知ってもなお、彼女は私を「抱きしめた」。「まるで、初恋のように」。まるで、私が何も悪い人ではないかのように。まるで、私がただの「少女」であるかのように。心から、ただ純粋に愛を込めて。
抱きしめてもらいながら、私もまた彼女と同様に「悪い人」にされてしまう人でよかったとも思っている。コメント欄のこの指摘のような感じだ(伝われ)。
しかしながら、私と彼女は「違う生き物同士」だ。私は実際のところ、彼女がどのようにして「悪い人」にされてしまったのかの詳細を知らない。彼女もそうだ。私たちは、相手にとってとても嬉しいことやとても苦しいことを、お互いにそうとは知らずにしてしまいながら、それでも一緒に快適な家を築いていくという「淡い夢」を実現していくということを信じている。
最後に、この曲を女性同士のカップルに引き付けて解釈するということをもう少し試みたい。この曲は「少年と少女のように」という歌詞にも表れている通り、男女のカップルを想定して作詞されているとは思うが、むしろ性的な社会規範から逸脱していくカップルの当たり前の日常を「あどけない革命」として勇気づけ、その出会いを「よかった」と言ってくれる曲だと感じている。ここで「ように」という部分を強調して読んでみよう。「ように」というからには、実際にはそうではないということである。この曲で歌われる「ぼく」と「きみ」は、「つまらない世界」では「少年と少女」がするように振る舞っているが、実際には「少年と少女」ではない。実際は女同士かもしれないし、男同士かもしれないし、ノンバイナリーやジェンダーフルイドの人を含むかもしれないし、ヒト同士ではないかもしれないが、それでも社会が「少年と少女」に認めるような純粋さも愛情も持った関係を築いている「二人がいた」。そんな可能性として、クイア・リーディングすることもできるだろう。つまり、ジェンダーを特定した「少年と少女のように」という歌詞を、あえて社会的なジェンダーへの規定を提示して「ような」という言葉で解体するものとして読み砕いてしまうのだ。