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遠方に引っ越した友人に執着した話



京都に行ってしまった友人がいる。
婚活をはじめたかと思ったら、あっという間に出会い、2年ほど東京で新婚生活を営んだのち、夫の生まれ故郷である京都に引っ越すことになった。
なんでも東京での暮らしに倦んだ夫が帰郷したいという希望を彼女に伝え、彼女も京都での暮らしを何度となしに夢見たことがあったから、2人の意見は無事一致した。また親族所有の戸建ても市内にあったことから、衣食住のまず住問題は速やかに解消し、とんとん拍子に移住は決行された。

困ったのは私である。なぜなら当時すでに結婚し子供も生まれていたとはいえ、息抜きに休日友人と会うとなったらイコール彼女、というくらい、頻回会っていたからである。彼女なしに私の休日はどうなるのか。気軽に「観劇行こうよ」とか「美術館行こうよ」とかって言える相手がいなくなってしまうではないか。

移住前の最後の日はあっという間にやって来た。最後の遊び場として我々が選んだのは神保町だった。欧風カレーでおなじみのボンディでランチをし、三省堂書店をぶらぶらし、最後に山の上ホテルのティールームに赴いた。
これは2021年初旬のことであるから、三省堂書店も山の上ホテルも改装前の在りし日の姿である。いずれも改装後の姿を見たら、あっという間に記憶は塗り替えられ、改装前がどうだったかなんて忘れ去ってしまうのだろう。かつての渋谷駅がどんなであったか、誰も覚えていないように。

ボンディは安定の混みっぷりだったので、速やかに食し、店を出た後は神保町の古書街を当てもなくぶらぶらした。
行きついた三省堂書店では入り口で早々に解散し、銘々自分の気になっている本を見つけに行った。店内を上からざっと一回りして目当ての本を手に取り、1階のレジに並んで購入後、同じく1階にある雑貨を扱うショップをみたりして時間を潰した。それでも、彼女はまだ降りてこない。
近くの本棚には当時話題になっていた「52ヘルツのクジラたち」が平積みされており、手に取ってパラパラとめくっていたら引き込まれて、4分の1も読んでしまった時にようやく彼女は降りてきた。手には重そうな紙袋が握られており、文庫本10冊以上が詰まっていた。「選ぶのに迷っちゃって」とほほ笑む彼女にどんな本を買ったのか聞くと、たしかそのうちの数冊は女流作家の歴史小説だった気がする。その時は興味を惹かれて近いうちに読もうと思ったのに、どなたの本だったか今や皆目思い出せない。

どこかでお茶をしようという話になって、彼女から山の上ホテルの提案を受け、小躍りして喜んだ。いつか行ってみたかった文豪ゆかりのホテル。ドアマンが扉を開けるや否や、にこやかで慇懃なホテルマンが傍らに立ち、滑るようにホテル深部へ案内されると、いつの間にか明大通りの喧騒は消え失せた。そして静謐とくつろぎのティールームで、おいしい紅茶とケーキをお供に何時間もおしゃべりをして楽しんだ。

そう私たちは2人ともカレーが好きなのだ。本を愛し、ハイソでレトロな空間に心惹かれるのだ。よく考えたら、本を愛する人間はカレーとハイソレトロを愛するだろうから、神保町界隈がああいった状況になっているわけで、なんらの不思議も矛盾もないわけだが、相手に合わせて食事する場所を変える私としては、真に自分好みのコースを周れたことに感激し、しかしこうした時間を過ごせるのはもう最後なんだなと、迫りくる別れの時を意識しながらじんわり悲しみをかみしめていた。

その時はあっという間にやってきて、私は御茶ノ水駅に、彼女は神保町駅に向かうから、明大通りでさよならを言い合う運びとなった。「元気でね」「ご家族様によろしく」みたいな月並みなことを言って握手でもしたような気がするけれど、拍子抜けするほどあっさりしていて、まあ今生の別れでもないしと無理矢理納得したけれど、それは去る者と残される者の温度感の差だったかもしれない。新生活に向けて期待と不安を胸に、こなすべきTODOで頭がいっぱいの「去る者」と、明日も、明後日も、ただ彼女の居ない日常を耐え忍ばなくてはならない「残される者」と。

それから3年経っても、まだ「残された者」感が消えない。どうやら彼女は新天地で、知的な会話をたしなむ優しい配偶者と、可愛い子、さらには理解ある義両親や親戚に恵まれ、日々育児と仕事の両立など大変なことはあれど、幸せに暮らしているらしい。
最初こそ頻繁にLINEでやり取りをし、こちらから京都の家を訪ねていったり、または彼女が家族で東京に来た際は会ったりもした。

しかし東京に来たからといって、必ずしも私に連絡をくれるわけではない。「近く東京来る予定ある?」と聞いた時「実は今東京居るの」とメッセージが返ってきたときはひっくり返りそうになった。なぜ?!私は隙あらば会いたいと思うのにあなたはそうではないのか、と言葉にせず飲み込んだ分胸がひりついた。彼女はこう続けた、「観劇したらトンボ返りだから今回会うのは難しそう」と。
この間など、同じ劇場内で同じ時間に同じ演目を観劇していたのに、私が3階席、彼女が1階席で、休憩時間に会えるかと思いきや、厳格な携帯電話抑止装置のせいで連絡もままならず、願いむなしく「子供預けているから帰ります!」というメッセージだけを終演後に目にすることになった。

上記の2例とも後日すぐ会える機会を作ってくれたから、別に嫌われているのではないと思う。
便りがないのは、親として、勤め人として、毎日奮闘していることの証だと思う。
かつ、たまの休みに羽を伸ばしたいというときに、決まった人間に必ず連絡しなくてはいけないという義理もないと思う。
何より本を愛する人間は孤独に強い。孤独を愛してすらいる。友人と過ごす最後とも思える時間を、一人での本の吟味に半刻以上充てられるほどである(これは大いなる美点である)。配偶者や親族以外知り合いがいない未知の土地でも、本という最良の友を片手に荒野を切り開いていけるのだろう。リアル友人だった存在なんて吹けば消し飛ぶ。消し飛んだあとは?「残された」のではなく「捨てられた」…

それでも。SNSぐらい繋がってくれてもいいじゃないかと思うが、Xに何を投稿しても彼女からリアクションが返ってくることはまずない。もちろん彼女への直々のメッセージではない、些末な日常のつぶやきでしかないのだけど。
こちらのXアプリも何の空気を読んだのか、フォローしているにも関わらず、彼女の投稿がタイムラインに出なくなったから、彼女の投稿を読むにはわざわざアカウント名を検索して読みに行かなくてはならなくなった。リアクションの薄さからして、彼女のアプリも同じ仕様になっているのではないかと思える。「愛情の反対は憎しみではなく無関心」というけれど、アプリまでそれを如実に具現化してくるからほとほと嫌になる。

読まれているかどうか分からないまま今日もせっせとXに投稿する「東京でこんな楽しいことがある」「東京ライフ最高」「東京大好き」…。
これらを書いていて自覚したことは、(これが彼女に里心をつかせたらいいな)、と密かに企図していたことである。最初は全くの無自覚だったが、何回目かの投稿でこれが実は彼女への「私信」だったことに気づき、我ながら「かくも執着!」とゾッとした。
彼女が、私の投稿でかつて謳歌した東京での暮らしを思い出し、京都へ旅立ったあの軽やかさで、再び東京での暮らしを志はしないか…そんなことを夢想していたのだ。そうしたら、またここ東京で、家族ぐるみで楽しい日々が送れるから。

自分の浅はかさと身勝手さに嫌気が差すし、3年経ったのにこの体たらく、このままでは京都まで生霊でも飛ばしてしまいそうなので、改めて整理したい。

友人とは、好きなものや興味関心を寄せるもので結ばれ、何らの契約もその間には発生しない。
心躍る時間を共有し、時に悩みを打ち明け合う。
忌憚ない意見を交わした上で相手の選択を尊重する。
相手の幸せを心から願い、相手が心身ともに健やかであってほしいと常に祈る。

そうだ友人ってものはそういうものだ。幸せでいてくれさえいれば、別に近くにいなくたっていいんだ。相手の勇気ある人生の選択にエールを送り続けよう。
そりゃ時間を共有したい。本の、映画の、舞台の感想を聞きたい、言い合いたい。間違いなく、寂しいは寂しい。私が寂しいと思うくらい、相手も私がいなくて寂しいと思ってくれないことが悲しい。しかし恐らく、人間はいつだってそういうものなのだ。果てしない孤独を本や観劇やその他美しいもので癒し、また現実の人間関係に立ち返る…

ここにつらつら書いてガス抜きして満足するじゃなしに、久しぶりに連絡もしてみようと思う。久しく連絡とっていないので話題は何にしたらいいか。
「お元気ですか?皆様もお変わりない?ところで神保町ご一緒した時三省堂書店で山と買っていた本のうち、女流作家さんの歴史小説があったかと思うのだけど…どなたの本だったか覚えている?」なんて書き出しはどうだろう。
またいつか、学生の頃のような旧交を温められる日がくることを願って、それまでの日々、孤独を愛でつつ精一杯生き抜く所存である。





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仲 真理恵
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