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仲良くなりたい人

人と仲良くなるには、自分から心を開いて。

よく聞く言葉。

方程式のような、法則めいたものを見つけても
コトバの表面だけを受け取って、実際にやってみようとしても的が外れて上手くいかないことってよくある。

例えば、心を開くって
ただあけすけに、大っぴらに振る舞うのとは違うのは分かる。

あけすけさや、大っぴらな感じは私自身、そんなに好きではない。

例えば、今感じたことを、脊髄反射的に言葉にすること、TPOをわきまえないこと
それを発したことで、なんら発展がないことは
自分がやっている時があったとしても
今の、チクッとするなぁ
モヤモヤするなぁとか居心地の悪さを感じるし

他の人がやっている時なんて
より敏感に、ジャッジの針が動くことってある。

更にそんなジャッジメンタルな自分を、責めちゃったりして。

でも同時に、他人の子どもらしさってかわいらしく感じたりもするからややこしい。


さて、好きな人 嫌いな人

どんな人がいるかな?と考えてみた。


先日、友人がある虚偽をしていて
その思考が社会的に与える影響の大きさに気がついておらず
ごく狭い、個人レベルの欲望を充たすために
多様性という言葉を持ち出したときに

「キライ」と呟いた。

けれど私は、その人に負い目があるし
関係性を壊すのは本望ではない。

器が大きいんだか、小さいんだか…
と、数年間に及ぶ関わりの中で毎度思うことをまた感じた。


その人は、私がどんなに雑にしても私のことを好きでいてくれる人だった。

鈍感で、自分の専門意外のことにはとことん無知で、自己顕示欲、野心、嫉妬心が強くおおらかな
愛されて育った良いとこの子。

私は自分が好きか嫌いかよりも、好きでいてくれる人と一緒にいることが多かったし

私が好きになる人とは、そんなに仲良くなれない。
4歳くらいから、そんな風に思っていた。

性的に、ではなく私が好きになる人は、
素直で、おおらかで、愛嬌があって、賢く謙虚で誰にでも息をするように愛を送る人
誰からも好かれるような人

好きというか、憧れに近いかも知れない。


あるスタジオのインストラクターと、ある施設の職員がそう。
どちらも女性で、彼女たちの仕事ぶりも素晴らしいものだった。

その2人はほとんど同じ空気感を身にまとっていたと思う。
不思議と、顔立ちや体型も似ていた。
もう、会う機会はないし顔も名前も覚えてないけれど…ナゼそうなのか?そう在れるのか?
会えたら聞いてみたいところだ。

スタッフと、お客さん。
これ以上仲良くなることはきっとないし
私はこんなふうにはなれない。
と分かっていた。

ナゼそう思うかと言うと、
絶対ムリが生じてやったら自分がしんどくなるし
きっと、誰の目から見ても不自然に見えるだろう。

生まれた星というか、役割が違うように思うのもそうだし、私と彼女たちでは来し方がそうさせない決定的な何かがあると思った。

それは多分、自分自身が満たされて余裕がある状態かどうか。
今は、彼女たちに会った飢えと渇きを見て見ぬふりしていた頃とは違って

満たされる感覚や余裕がある感覚を知っているけれど
生まれてこのかた、砂漠を生き抜いてきた人が
充実して余裕を持つのは一朝一夕のことではない。

私は私なりの在りたい私を描いて
満ち足りた感覚の時間を増やしていこうと思う。

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