古典を読む
自分は大学の文系学部を出て、メーカーの事務屋稼業で糊口を凌いでいるが、実は長い文章を読んだり書いたりするのが、あまり得意ではない。
中学の頃、同級生に高名な大学教授の息子がいて、彼が難しくて長い本を読むので、自分もそんなことが出来るようになりたい、という思いで、学校の図書室から分厚い文庫本を借りて読み続けた。トルストイだとか、ドストエフスキーだとか、吉川英治の三国志とか。当時の人気作家は旧制高校を出ていたので、古典への憧憬こそが目指すべき道である、との気風も、幾ばくかは残っている時代であった。読みづらい長い本も最初の100ページを我慢して読めばあとは流れに乗れることは分かったけど、全体を吟味して何かを語る、という理解度には達しなかった。とりあえず慣れた、というだけである。
この程度で受験技術だけ身に着けて大学に入ったものだから、法律の勉強はダメだった。何となく言っていることは分かるのだけれども、大量の文献に当たって正確な意味を定義し、議論する、というのが性に合わなかった。わからないことがあるとワクワクして調べたくなる、というスケベ心だけは未だに旺盛だけれども。卒論の無い学部で、本当に良かったと思う。
そんな感じで勉強不足のまま社会人になったのに、出来もしないのにスケベ心だけは旺盛だったので、周りの優秀な方々に追いつくための勉強は続けたのだが、長い文章を丁寧に読む根気に欠けているので、優秀な方々の何倍も時間が掛かる。翻訳もののビジネス書で、何十ページもダラダラ例示が並ぶようなのは、本当に苦手だ。大器晩成というと聞こえはいいけど、要するにドジでのろまな亀なのだ。根気がない、という点では、習い事もなかなか身につかない性分なのだが、本稿では割愛する。
新しい技術を追うのにも疲れる年ごろとなり、上述の通り元々大した技術も持っていない、となると、人間としてどうあるべきか、というところを自問せざるを得なくなる。なかなかこれが、忙事にかまけると忘れがちになり、生きざまがぞんざいになってしまう。そこを何とか軌道修正しようとなると、長い年月読み継がれてきた東洋の古典を手に取り、数行を読み、行間に流れる呼吸を反芻することになる。この読み方だと、1日にほんの2,3ページ進めばいい方で、自分のような粗忽ものは、1週間ぐらい経つと気分も変わって、飽きてくる。それでもやめられないのは、人生いたるところ陥穽あり、度々軌道修正しないと足元がおぼつかない凡夫であるからだろう。げに度し難い衆生とは、自分のことである。