変わらないということ
街かどに流れる歌声に、胸がキュンとした。
歌詞からググったら、小泉今日子の歌だった。
1991年、未だ見ぬ恋に恋い焦がれていた頃のヒットソング。
キュンとしたのは良かったが、歌詞の中に「あなたは ずっとそのままで 変わらないで」というのがあって、ちょっと引っかかった。作詞した本人の後年の述懐によれば父に捧げる歌であったとのことなので相手を束縛するようなものではないのだが、小耳にはさんだその時は、出会った相手を束縛するかのように聞こえてしまったのだ。げに先入観は恐ろしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AB%E4%BC%9A%E3%81%88%E3%81%A6%E3%82%88%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F
しからば私はどのような先入観に支配されていたのか。それは変わることをいくら促しても、時代遅れになろうが損しようが、変わらないことを是として梃でも動こうとしない人々との出会いにほとほと困っている現状によるものであろう。時代の流れに即する形で、どんな人でも生きんがために少しずつ変わっていくものだと自分は思っている。当初思っていた理想を曲げた敗北ではなく、現実に沿って何らかの読み替えを行い生き延びるしか仕方がないから。
でも、全く何も変えず、ひたすらその場にしがみつきたい人たちも存在する。自らの場を創造的に工夫する知恵が湧かない人たち。誰かに言われると、今やろうとしていたのに、と口答えしてしまい、梃でも動かなくなる人たち。
つい最近、某所で流れてきた田中正造の評伝の感想文に出てくる渡良瀬川流域の農民は、まさに後者であったのであろう。「疾風に勁草を識る」などという美辞麗句などクソくらえの、ただひたすら土地にしがみついて生きるしかなかった人たちの、非暴力の抵抗。変わることへの全否定。
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/01/blog-post_29.html
変わらないといけない状況で自らを変えたくない人たちを前にしたとき、どのように振舞えばよいのであろうか。とりあえずやっているのは自らを変えてみせる率先垂範であるが、恐らくはこれも反発を買うだけなのかもしれない。そうして歴史の津波は、容赦なく全てを押し流そうとする。
南無阿弥陀仏。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%93%E3%81%93