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【読了】小酒井不木 / 変な恋
とりあえず、小酒井不木の作品の中でも
気になるものを片っ端からかき集めた。
その当時は気になったのだろうが、
読み始めようとしている今思えば、
なぜこのタイトルに惹かれたのかわからない。
私は基本的に恋愛コンテンツは苦手分野である。
「変な人間が恋をすると、変な結末に終り易い」
という一文から始まる。
読み進めていくうちに、
これはエッセイ本か?と思った。
しかし、「アメリカ合衆国のニューヨークに住む
ジョン・グレージー」が登場してからは
ほな、エッセイ本とちゃうか〜 と
己の中のミルクボーイが合いの手を入れる。
いや、でもやっぱり、なぜかわからないけど、
自分自身を語っているかのように感じる。
まるで、
「これは俺の友達の話なんだけど、」と前置きをして、
別の友人から相談された話という前提で
目の前の友人に自分の恋の悩みを相談する、
恋愛初心者の不器用な青年のようだ。
小酒井不木は、小説を通して
客観的に「自分は変な人間」かどうか、
知りたかったのかもしれない。
いや、そもそも小説にするつもりはなかった場合も。
現代人がnoteに悩みを物語形式に記すように、
彼もそこらへんのノートに
自分の特徴を物語っぽく描いてみたものが
のちに見つかって、
勝手に短編小説として出版されただけかもしれない。
そんなことを考えた。
正直、この小説は、
物語として私の中には なにも残らなかった。
なぜなら、登場人物のジョン・グレージーは、
大して変な人間でもなく、
変な恋の結末でもなかったからだ。
“けいずかい”の宝石買取屋のグレージーは
確かに、まあ、変な人間なのかもしれない。
ただ、20世紀末に産み落とされ、
(いわゆる)Z世代の私にとっては、
正直、変な人間のうちには入らない。
なんか、そういう人も いるよね〜
といった具合である。
正確に言うと、
自分自身のことを変な人間だと思っているため、
私以外の人々がどんな特性を持っていようと
「変ではない」と感じる。
この物語の結末、
つまり、グレージーの恋の末路には、
住野よる「君の膵臓を食べたい」の結末に
近いものを感じた。
誰もが考える「こういう結末になるんだろうな」を
あっけなく裏切り、かつ、なんてことない終り。
言い換えるならば、
誰もが想像しうる“おもしろい”結末ではなく、
フィクションとは思えないほど現実的であり、
地味な終幕。
このかんじが、なんとなくキミスイに似ている。
ただ、「変な恋」には予め伏線が張られていたため、
「君の膵臓を食べたい」よりかは
結末が非常にわかりやすかった。
さて、この物語が小酒井不木自身の話だと仮定するならば、どういう考察ができるだろうか。
(彼の人生を調べてみたが、
恋愛に関するエピソードは出てこなかった)
研究者は変人が多いと聞くし、
実際私も大学院生になって研究をし、
研究者である教授たちと密になればなるほど、
変態の集まりやな。と思うことはあった。
大学生はまだしも、大学院生→研究者と
学びの分野が狭まるにつれて、
その学問や分野に対し 強い好奇心を持たないと
学び続けられないことは明白である。
これは変な人間になれる近道かもしれない。
というか、変な人間にしかできないかもしれない。
医学者であり犯罪研究者である小酒井不木、
小説家でもあり翻訳家でもあるゆえに
一般的な研究者よりも
さらに煮えたぎった変な人間であった可能性はある。
彼の恋愛遍歴はわからないが、
なんていうか、その、キモかったのかな。笑
かくいう(変な人間の自覚がある)私も、
キモくて変な恋の結末を迎えてきた。
ただ、そのエピソードが他人のものだとすると、
「恋の結末はそんなに変でもなさそうである」。
そう、おそらく、大半の人間が
自分自身を「変な人間」だと思い、
自分の恋は「変な結末に終り易い」と感じるのだろう。
もっとわかりやすく言うならば、
自分自身を「特別な存在」だと思い、
自分の恋は「普通じゃない結末に終り易い」と感じる。
思わぬnoteから それらしい教訓が生み出せた。
みんな違って、みんな普通。