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【短編小説】洗う

エアコンが黒い。
正確には、エアコンの風がでてくる送風口が、いつの間にか、黒い。

ゆう子が、このマンションに住みはじめて、6年が過ぎた。大学を卒業して、就職と同時にこのマンションに住み始めた。よくある1Kの部屋だ。
6年前に住み始めたときは、まさか6年も住むことになるとは考えていなかった。しかし、6年の間で、引っ越すような出来事は起こらなかった。結婚や同棲に発展しそうな恋愛もなく、仕事は辞めようと考えたことはなくもないが、なんだかんだで続いている。
部屋は少し狭いかなとは思うが、設備も利便性も特に大きな不満があるわけではない。特に引っ越す理由もなく6年が過ぎたのだ。

6年という年月で、ゆう子は22歳から28歳になり、その間、様々なことがあったのだろうが、特に人生を動かす何かがあったかと問われると、何もなかったような気もする。

この部屋は、6年で全体的に消耗して、古くなったはずだが、毎日暮らしている身としては、6年分の消耗も6年前との変化も日常の中で感じることはない。ゆう子自身も6年間での変化があるはずだが、あまり変化のない1日1日の積み重ねから経過してきた年月からは、日常の中で自分自身の変化を感じることは少ない。

28歳、変化のない暮らし。ゆう子は自分のことを不幸とは思わないが、特別幸せとも思わない。ただ漠然とした不安は付きまとっている。そんなことを考えることが増えてきた気がする。不安は付きまとうだけでなく、少しづつ蓄積していっているようだ。

しかし、大きな変化のない部屋だと思っていたが、室内のエアコンは確実に変貌していた。6年間酷使してきたエアコン。
先日、季節外れの暑い日があったときにエアコンをつけたとき、少し異臭がしたことで、気づいてしまった。普段エアコンの送風口なんてよく見ないので、気づきにくいが、改めてしっかり見てみると、本来白い場所が黒くなっている。白より黒の面積が大きい。
間違いない。黒は、カビだ。カビだらけである。このカビを経由して冷風が室内に入ってきているのかと思うと、エアコンを使う度、カビが部屋に充満していくイメージがわいてしまう。何とも気持ちが悪い。

マンションの管理会社にカビの件を伝えるも、入居者様自身で清掃するか、ご自身で清掃業者の手配をしてくださいとあしらわれる。
エアコンの奥までカビは侵食しているようで、自分で清掃はできそうにない。業者を手配しようとも思うが、この狭い部屋で一定時間作業されるのも気が滅入る。だが、エアコンからのカビ噴霧を受け続け、夏を過ごすことは耐えられそうになく、業者に清掃を依頼することにした。ネットで業者を調べると、好評価でお手頃な業者が見つかった。依頼をすると、スムーズに日程が決まった。

若い
そしてカッコいい

玄関扉を開け、清掃業者の男にあったとき、「若い」「カッコいい」その二つが同時に頭にメッセージとして入ってきて、ゆう子は一瞬思考停止してしまった。
そのあとで、自分の部屋着の服装、ノーメイク、部屋の散らかり具合など、解決すべき問題が頭をよぎったが、もはや対応する術も時間もない。

業者の男は、
「吉川です。エアコン清掃で伺いました。今日はよろしくお願いいたします」
と礼儀正しく挨拶し、ゆう子の目をしっかり見て、優しく微笑んだ。その微笑みは営業的な印象だったがゆう子にはとても好意的に受け取れた。

この後どう対応してよいか分からず玄関扉を開けたまま立っているゆう子に対し、吉川は一枚の紙を見せてきた。
その紙には、「エアコン清掃にあたっての注意点と清掃の流れ」が記載されている。
吉川は、ゆう子がその説明文に目を通している間、微笑みながらゆう子のことをじっと見つめている。

説明文の清掃の流れには、「1、清掃道具搬入」と記載してある。
「あ、すみません。どうぞ入ってください」
ゆう子がうながすと、吉川は少し安心したようにうなづき、室内に入ってきた。

吉川は居室のキッチン前のわずかな床スペースを右手で指差し、
「ここ、いいですか?」
聞いてくる。ゆう子は最初なんのことか分からなかったが、すぐに荷物を置いてよいかということだと理解した。
「どうぞ。荷物置きやすいように少しスペース作りますね」と言って部屋を片付け始めた。

吉川が室内に道具を運び終えると、さっきの説明文を改めてゆう子に見せて、「2、エアコン動作点検」を指差し、
「いいですか?」
と聞いてくる。
清掃前にエアコンに不具合がないか点検するということなのだろう、
「いいですよ」
とこたえ、エアコンのリモコンを渡す。
ゆう子は少し会話に違和感を感じる。
もしかして。

「清掃時間、どれくらいかかりますか?」
ゆう子が質問すると、吉川は説明文の中の「作業時間60分程度」という文章を微笑みながら指差して、「ここ」と返してきた。

やっぱり。
吉川は少し、会話が苦手なのかもしれない。何らかのハンディキャップで、相手の言っていることは理解でき、話すこともできるようだが、長く話すことが苦手なのかもしれない。最初の挨拶以外は一言二言しか言葉が出てこない。

最初に会ったときの緊張感が少しほぐれた気がした。なぜだろう、さっきこのイケメンが目の前に現れたときは、色んな感情がわき出て、特に緊張が強かったのに、相手が何らかのハンディキャップでうまく話せないと思ったら緊張が薄まり、親しみやすくなった気がした。

エアコン点検が終わると、吉川は手際よく、エアコン回りを汚れないようビニールで養生し、エアコンカバーや、フィルターなどを外していく。エアコン清掃を見るのは初めてだが、吉川が手際がよいことはゆう子にも分かるほどだった。

エアコンパーツを取り外し終わると、吉川は説明文を指差し、ゆう子に確認をしてきた。
「パーツを洗うのにバルコニー、もしくはお風呂場を使わせていただきます」と記載してある。ゆう子の部屋はバルコニーがないので、風呂場で作業してもらうことになる。風呂の状態は確認するまでもない。汚い。風呂の排水口にたまった毛を捨てたのはいつだったか思い出せない。

「すみません、風呂汚いんですけど。。」
ゆう子が気まずそうに言うと
「大丈夫」
またもゆう子の目を見て優しく微笑んでこたえてくる。さっき少し感じた営業的な微笑みという印象はなくなり、心根の優しさがにじみ出す微笑みのように感じられる。

パーツを風呂場に運び終えると、吉川はエアコン本体をビニールで養生し、エアコン清掃用の水受けカバーを被せ、エアコン下のバケツに水が落ちるようにセットをした。
その様子をゆう子は見つめる。
吉川は20代前半だろうか、色白で女性のような面立ちをしている。細身でありながら、腕は健康的で質のよさそうな筋肉がしっかりついている。無駄のない機敏な動きからも、見た感じは、何らかのハンディキャップがあるようには全く見えない。

それにしても室内で作業をされると、ゆう子は何をしてればよいのか戸惑う。2部屋あれば、作業してない部屋にいればよいのだろうが、1Kの部屋である。テレビを見ようにも、集中して見れるわけもなく、携帯をずっといじっているのも感じが悪い気がする。清掃を手伝うのもかえって邪魔になりそうである。
狭い部屋に2人きり。ゆう子は邪魔にならない程度に吉川と会話することを選択した。

「エアコン、汚れてますよね。6年住んでて今まで清掃したことなかったんですよ」
声をかけると吉川はこちらを振り向き優しく
「大丈夫」
とこたえてくる。
「この部屋、狭くてすみません。作業しにくいですよね」
「大丈夫」
「この時期忙しそうですね。そういえばネットの評価すごく高かったですね」
「ありがとうございます」
やはり吉川は会話が苦手なようだ。こちらの話は理解してるようだが、単語でしか言葉が返ってこない。だが、その短い言葉はゆう子には心地よく届く。短いからこそ偽りが漂う隙間もなく、ストレートに受けとることができる。


「本当はここに6年も住むつもりなかったんですよね」
「清掃の仕事って色んな人に出会えて楽しそうですね。私はオフィスワークでいつも同じ人たちと過ごしてるんですよ」
「給料上がらなくて引っ越しもなかなかできないんですよ」
吉川の雰囲気に触発されたのか気がつくとゆう子は色んなことを話していた。
家のこと、職場のこと。
それにしても話は総じて愚痴っぽくなってしまった。吉川からの反応が薄いこともあり、話題を終えるときは、つい自虐的に話を締めくくる感じになってしまい、結果的に愚痴になっていた。
吉川はいちいちこたえはしなかったが、作業しながら、うなづいていた。嫌そうな顔せず、時折ゆう子の話に微笑んでいた。

エアコンに洗剤をまき、高圧洗浄機でエアコンを水で洗い流すと、エアコン清掃カバーに汚れが凝縮した黒い水が落ちてくる。カバーに落ちた汚水はバケツに貯まるようになっており、バケツは黒い水でいっぱいになっている。
洗い流し終わると吉川は清掃結果を伝えるようにバケツの汚水をゆう子に見せて、
「外に流してきます」
と言って、バケツを持って外に出ていった。
バケツの中の黒い汚水は、時間をかけて蓄積していった汚れである。

エアコンは乾燥させるため、送風モードになっており、清掃で生まれ変わったエアコンから吐き出される風には安心感と心地よさがあった。

風呂場で洗浄されたエアコンパーツを取り付け終えると、清掃は完了したようだ。
吉川は道具や養生を片付け、帰り支度をしている。
ゆう子はしょうもないことを話しすぎてしまったことを少し恥じてはいたが、吉川と話せたこと、エアコンがきれいになったことに喜びも感じていた。

荷物を室外に運び終え、吉川がいよいよ帰る段階になったとき、
「すみません、色々愚痴っぽいこと聞いてもらっちゃって」
とゆう子が言うと、吉川は部屋にきたときと変わらない笑顔で
「大丈夫です」
とこたえた。
そして、少し違和感のある間を置いた後、

「何か行動してるんですか?」

と、ゆう子に質問してきた。
敵意や軽蔑、嫌みが一切含まれない、純粋な疑問として、質問している様子である。
一瞬なんのことか分からなかったが、会話の流れからして、
ゆう子が愚痴ってたことに対して、ゆう子は何か行動して解決しようとしているのか?
そういう問いなのだろう。
ゆう子はまさか質問されるとは思っておらず、
「え、ああ、そうですね」
と回答になってない場を濁す言葉しか出なかった。
吉川は、よく分からない回答に対しても、全く否定する様子もなく、その回答さえも受け入れるように、笑顔でゆっくりうなづいた。

「今日はありがとうございました。失礼します」
吉川は来たときと同じように、礼儀正しく挨拶し、静かに玄関ドアを閉め、帰っていった。

ゆう子は、吉川が帰った後も吉川の最後の問いが頭から離れなかった。
吉川からしたら、愚痴りたくなるようなことに遭遇したら、何か行動する。行動して解決するということが当たり前のことという認識なのかもしれない。愚痴と行動はセットになっているからこそ、純粋に行動について聞きたかったのかもしれない。

「え、ああ、そうですね」

間抜けなこと言ったな、と振り返りながらも不快な気持ちにはなっていない。

この6年で行動したことを考えてみた。
だが、意外にも、振りかえると、自分にも行動して解決してきたことはいくつかあり、安心した。何もなかったように思ってた6年でも、具体的に行動してきたことは小さいことなら色々あるものだ。
エアコン清掃を依頼したことも、具体的な行動の1つである。その行動により、今、快適な風を浴びることができている。
これからも自分から具体的に行動すればいくらでも不満は解決できていける。吉川の影響なのか、素直に前向きな気持ちがわいてきた。

ゆう子はきれいに清掃されたエアコンから勢いよく吐き出されている風を感じる。送風口から吐き出される安心感のある風、吉川のおかげで心地よく感じられるようになった風が、ゆう子の心に少しづつ蓄積してきていた不安感を吹き飛ばそうとしてくれている感じがした。

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