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ほとばしれ なきむし
こんにちは、うなうな鳴くいきものです。
突然ですが、みなさんは泣き虫ですか?
私はとーーーーっても泣き虫です。
勘違いしては泣き、悔しくて泣き、嬉しくても泣くし、感動すればしゃばだばに泣く。
あくびで出る涙の量もそこそこなので、めちゃくちゃに眠い時は泣きながらねむい……と鳴いております。
そんなこんなで、涙の量って一生にいかほどなのか、なんてことを考えるくらいには鼻をすすりながら泣き虫を自覚する日々です。
泣くことに対しての社会イメージとしては、
・大人なのに恥ずかしい…とか、
・感情のコントロールができない未熟者…だとか、
・泣けば済むと思っているのか…とか、
……まぁ〜散々言われておりますが。
それはそうかもしれませんが、出ちゃうものは仕方ないじゃないのよ、と割り切らないとやっていけない場面もたーーーくさん。
泣いていいことなんて無いとは思う。
けれど泣き虫の私にとって涙とは大事な人生の友人でもあるわけです。
これまで大事にしたいことをぽつぽつと書いてきた文字たち。
その中身は勝手に我慢して、勝手に無理をして、他人の期待に応えて誰かのために何かをすることでしか自分に「存在してていいよ」と許可をだせない私自身のこと。
自分が好きではない私にとって、散々なイメージを持つ「泣くこと」はまさに「悪いこと」でした。
だから泣くこと自体を我慢する。
けど我慢しきれず泣きわめいて、結局自己嫌悪の自責プレイに走る夜もたくさん。
おかげで少し前までは泣くことと同じように涙そのものが大嫌いでした。
そんな自分が泣くことをなんとなく嫌いじゃなくなってきたのは最近のことです。
一番の理由は、泣くことも感情の発露として捉えられるようになってきたから。
テキトーな言い方をすれば、「泣き虫も自分よ、まあしゃあないね」と良くも悪くも自分のことを諦めて受け入れるようになってきたからです。
それに加え涙自体を自分の現状を測るバロメーターとして活用できると知ったからというのも大きな要因。
"涙のしょっぱさは感情によって変わる。
しんどい時に流れる涙ほど塩分が高くなるためしょっぱい。"
そんな説に疑問符を浮かべながら、あくびで流れる涙はそんなに味がしないのだから、いつだって変わらなだろうと思っていたある日。
仕事で嫌味を言われ、顔の全面に悔しさが滲む程度にしんどい思いをした日。
我慢できずに涙がこぼれてしまったため、悔し紛れに舐めとった涙のしょっぱいさたるや!
感情で味が変わる話、本当だったのか…。
色んな物事の実体験ってしてみるもんだなと思った次第でした。
そんな体験を通じてやっと泣く行為は肯定できても、泣くのは悪いことというイメージは書き換えられない今。
とはいえ強烈な悔しさや、悲しさから流れる涙に、感じたことだからいいんだよ、とまたひとつ自分に許可が出せたなら。
少しずつ自分の人生を軽やか生きていける。
そう信じていられる今日この頃です。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました。
うなうな鳴くいきもの