発達障害を持つ私の話
私は発達障害者だ。
診断を受けたのは19歳の時で当時はアスペルガーと診断された(今は自閉症スペクトラムというようだ)。
とはいえ、母曰く多少の違和感は感じていたようだ。最初の違和感は乳幼児検診の時。保健師さんが鳴らす楽器の音に私は反応せず、聾唖を疑われた。しかし、受診した耳鼻科で耳元で鳴らされた音に反応して泣いたことから「興味が無かったので反応しなかったのだろう」と判断された。それからもう少し大きくなった私は「こどもクラブ」に入れられたが、そこでも他の子達と遊ぶことなく一人遊びばかりしていたらしい。
そして、その『違和感』を自分でも認識するようになったのは小学校に上がってからだった。私は『場の空気』を読んで適切な行動をとるのが非常に苦手で次第に教室で浮くようになっていった。また、言ってはいけないことや暗黙の了解といったものを認知することが出来ず無自覚に人を傷つけてしまうことが多く、友達を作ることができなかった。もしくは、出来ても上記のようなことが続いて離れていってしまう。けれど、当時の私はその理由すらわからなかった。そんな子供が「いじめの対象」になっていくのに時間はかからなかった。
『教師』という存在にも私はあまり良く思われていなかったように思う。彼らにとって私は「いじめ」という面倒事を引き起こす厄介者でしかなかったのだろう。また、後に障害の特性の一つだとわかったが、私は出来ることと出来ないことの差が非常に激しかった。それを『やりたいことしかやろうとしない子供』だと捉えられていたらしい。「もっと周りに合わせる努力をしなさい」と良く言われた。だけど、私には何をどこに合わせたらいいのか分からず、それを先生に説明する能力も持っていなかった。
その『生きづらさ』は中学、高校、専門学校に上がっても変わることはなく悪化していった。振り返れば中学の頃には既に『うつ』になりかけていたように思う。
これは後に発達障害の人達を支援する施設の人から聞いた話だが、私が学生だった頃は『知的障害を伴わない発達障害』というのは認知されておらず、私のような『見逃された子供』が非常に多いとのことだった。
毎日死ぬことしか考えられなくなった頃、私は市の無料相談センターを紹介されそこで発達障害の診断を受けた。ずっと周囲から「努力が足りない」「お前の性格が悪い」と責められてきた私にとってそれは「そうではなかった」と知ることができて嬉しさのあまり泣いてしまったことを覚えている。
とはいえ、それは良い事ばかりでは当然なかった。というのもこの国では知的障害がない者は障害者として認めてもらえない。そのため、私達のような「ボーダー」の人間は国からの支援を受けられない。しかし、定型発達者と混じって同じように働くのは難しい。私も現在就労支援施設でA型雇用として働いているが、最低賃金で貯金もギリギリの生活に不安がないと言えば嘘になる。あまりの生きにくさに「人間に向いてない」「生きるのに向いてない」と感じることもしばしばだ。
ライターとして働く自信も正直ない。
いまだに些細なことでうつ状態になってしまう自分が、クライアントとやり取りできる自信はないし、かといって世に出せる作品を出せるほどの文才があるとも思えない。
それでも、一歩前に進んでみようと思えたのは私のことを支えてくれる人のおかげである。