見出し画像

太宰治『待つ』太宰の作品感想 9/31

太宰治の作品を10月中、毎日投稿すると決めて9日目にして、諸般の事情で投稿が途切れてしまった。この遅れを31日までに取り戻すことをお誓い申し上げて、今日は『待つ』をご紹介することにしたい。

先日、『十二月八日』について記述したが、『待つ』も1942年の初期に書かれた作品の一つである(次回は『新郎』をご紹介する予定でいるが、この作品も同様である)。英米との大戦争の始まりに国民は歓喜しつつ、緊張感も大いに極まった時代。太宰のこれらの作品から、1942年当時の時代状況を読み取ることは可能だろうか?

太宰はウソつきの名人である。 名人ともなればホントの事もウソみたいにしゃべれるようになるらしい。けれども、詐欺師では断じてない。もはや逆説でしか言えないようなせっぱつまった状況の中で、それでも待ち続ける太宰、 それは喜劇精神に支えられた強靱な精神が在ってこそ可能な事ではないだろうか?

佐伯昭定「太平洋戦争下の太宰文学」

太宰の作品から時代状況や大衆心理を読み取ろうとするのは、不適であるかもしれない。太宰はウソつきの名人、上手に時代に合わせた作品を世に提出しながらも、最終的には大衆に迎合するようなことはなかった作家であるように僕には思えてならない。

『待つ』という作品で、少女は誰を待っていたのだろう。who?と問うことは過ちで、what?と問うべきものかもしれない。『待つ』の文中にはこのようにある。

「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。」

太宰治『待つ』

主人公が待っているのは運命の人か、日本の勝利か、或いは死か。主人公が何かを待っていることそれ以外、この作品について僕が断言できることは何もない。


本作は短い作品である。待ち時間にでも是非、読んでみて頂けたら嬉しい。リンクは以下に示しておく。一種の不思議に貫かれながら、読んでいてどこか心地よい作品であると感じた。


いいなと思ったら応援しよう!