私はかつてキャベツとレタスの区別がつかなかった
YouTubeを見ていたら、ある発達障害の人がネギとニラの区別がつかないと言っていた。両者はたしかに細長くて緑色で、似ていると言えるが、簡単に区別をつけれる人にとっては、なぜ区別がつかないのか不思議に思うだろう。
私はその話を聞いて昔のことを思い出した。私は大学進学で親元を離れ独り暮らしを始めたが、当初、キャベツとレタスの区別がつかなかった。自炊をするからスーパーでこれらを買うこともあったが、売り場で「キャベツ」と書いてあるからキャベツだ、「レタス」と書いてあるからレタスだ、というふうに買い物をしていた。そしてその買ったものを、レタスだったら1枚1枚むいてちぎって皿に乗せ、マヨネーズをかけて食べた。キャベツだったら包丁で小さく切ってフライパンで炒めて食べた。
キャベツと春キャベツとグリーンボールの区別もしっかりつくようになった今これを思い出すと、あの頃なぜこんな簡単な区別がつかなかったんだろう?って不思議に思う。たしかに形状は似ている。緑色で、1枚1枚が内側を包むようにして、全体として丸くなっているのは同じだが、やっぱ質感が全然違うし。過去の自分のことながら、今の自分にはまったく理解できない。しかしまあ、人間って同じものを見たり聞いたりしても、それをどう認識するかは個々人の想像力の上をゆくような違いがあるということだろう。
中学生や高校生の頃、クラス替えがあると新しく同じクラスになったA君とB君の区別がつかないということはありがちだと思う。しかしそれも最初のうちで、毎日見ていると普通に区別がつくようになり、「どうしてこの2人の区別がつかなかったんだろう?」って、我ながら不思議に思うということはよく経験することではないだろうか?職場でも、自分とCさんが一緒に別の部署に移って、そこの偉いさんから、何か月たっても私のことを「ちょっとCさん」って呼ばれたりして。「私とCさんでは性別以外は何もかも違うだろ?目の玉腐っとるんちゃうか?」と思うんだけど、関心が薄いと、あるいはなにか認識の琴線みたいなものに触れないと、人って、まともに区別をつけて認識がつかないんじゃないかと思う。
英語の発音でも、日本人にはLとRの区別が難しい。hallとholeはカタカナでも「ホール」「ホウル」と書き分けができるので比較的簡単だろうが、heartとhurt、hardとheardは「ハート」「ハード」とカタカナでは区別して書けないので難易度が上がるだろう。しかしこれらは並べて聴けば、ああ確かに違うわ、というぐらいの区別はつくだろう。カタカナであえて区別すれば、不自然極まりないが、前者はハートとフート、後者はハードとフード、という感じで、とにかく別物には聞こえるだろう。でもearとyearなんか、並べて聴いても「よくこんなもんの区別がつくなぁ…」と思う。それが現在の私の英語力。英語は日本語よりも母音も子音も種類が多く複雑なので日本人には大変なのだが、アメリカ人でも日本語の「こんにゃく」と「婚約」は区別がつきにくい発音だという。日本人なら両者を混同する人はほとんどいないと思われる。書き言葉については逆に、英語よりも日本語のほうがはるかに複雑で難しい。英語のネイティブの人に、日本語は「待」と「侍」を区別するし、「刀」と「カ」、「ナ」と「メ」も区別する、「エサ」の「エ」と「工場」の「工」も区別する、って言ったら、たぶん私がearとyearが違うと聞かされて途方にくれたのと同じような気持ちになると思われる。
どんな認識の仕方が習慣になっているかということについて、人間はすごい違いがあるものである。
動物でも日本ではワニと呼ぶものにも、クロコダイルとアリゲーターと二種類あるとか。ハトにもドーヴとピジョンの2種類あるとか。わかんない。でも英語だとトカゲとヤモリはどちらもリザードと呼ぶので、両者は区別がつかないというし。
諸外国ではカブトムシとかクワガタなど子供が虫取りに夢中になるということがほとんどないようだ。たぶん彼らはミヤマクワガタ、ヒラタクワガタ、ノコギリクワガタ、コクワガタなどの区別はつかないのではないか。これらの違いは私にとっては小学校の低学年の時から非常に重要なものだった。オスはまだハサミの形で明らかだが、クワガタのメスは皆同じ姿をしているので区別は難しいが、色、つや、産毛みたいなものが生えているかどうかなどで我々はちゃんと区別をつけていた。今思うとそれらの区別はキャベツとレタスの区別よりもはるかに難しいと思うが、ちゃんと自信をもって区別がついた。小学校1年生の時から。
私はネギとニラの区別はもともとできたように思うが、しかしネギと似たものに「ワケギ」とか「アサツキ」というものがネギとどう違うかについては未だに分からない。しかし、たとえばモーツァルトの弦楽四重奏曲18番の演奏が、ハーゲンカルテットとエマーソンカルテットでは演奏がずいぶん違うという区別はつく。18番については私はハーゲンカルテットの演奏がいちばん好きで、エマーソンカルテットの3楽章の演奏はなってない、と思う。19番については逆でエマーソンカルテットのほうがいいと思う。こんな区別はレタスとキャベツの区別よりもはるかに難しいものだと思う。たぶんネギとワケギの区別よりも。
これはちょっと違う種類のことのようにも思うが、私は保育園の時、同い年の「かずえちゃん」という女の子のことを、おばさんみたいな顔をしてると思った。しかし小学校の高学年の時に保育園の時のアルバムをみると、かずえちゃんの顔はちゃんと保育園の幼い女の子の顔だった。顔かたちでそれはたしかにかずえちゃんだと分かるのだが、おばさんみたいな印象をそこに読みとることはできなかった。私は「かずえちゃん」を見る時、そこにいちばん表面的な「かずえちゃん」の絵柄以外に、「おばちゃん」の印象を見ていた。しかし何年も後で写真で見たかずえちゃんからは、表面的な絵柄は残っていても、あの頃感じた「おばさん性」は消えていた。それは対象のほうが変わったのではなく、私の主観が変化したのだ。つまり私が対象を見る時、単に対象を見るのではなく、自分の主観を巻き込んで見ているようで、それがその対象をどうみえるかにものすごく影響を与えていると思う。私が10代の頃は30を超えた女性は「おばさん」以外の何物でもなかったけど、今では30代の女性は「おねえさん」だし。
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