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忙しい日々

・最近noteを始めたのは心機一転し毎日短い文章でもいいから更新・投稿するためだが今日はまだ投稿していないので日記を書こうと思う。
短い文章ならどんなに時間がなくても投稿できるだろ、と自分でも思うのだがその答えは部屋を見渡して自ら納得した。部屋は爆発している。やらなくてはいけないものが原因で足の踏み場を作るのにも苦労する状態だ。「どんなに時間がなくても少しぐらいはあるだろ」と自分でも思うのだが、やらなくてはいけないことさえもできないということは、「時間が1時間しかない」→「10分しかない」→「1分しかない」→「30秒しかない」を通り越してマイナスになっている。たとえば仮に8時間の余裕時間があればそれを使いやるべきことがあるが時間がとれないのでそのマイナスぶんが空間の占拠という形で部屋を物理的に圧迫している。「暇な時間がない」というのは「ゼロ」というイメージだが私が今置かれている状況は「マイナス」だ。少なくともマイナス8時間。でもさらに時間がとれたとしてもそれも他の用事のために消えてしまうことが確定している。時間の負債がある。カネの負債じゃないだけましだとも言えるが、この暑い時期に…と思う。この感じは容易に怒りに変わりうるものだが、やり場がない。
これは世の中全般の趨勢のように思うが、人の忙しさの種類にも2通りあって、1つは忙しさが同じところから来るもので、もう1つは別々のところから来るもの。昔は終身雇用制度に象徴されるように、一人の人間はある一つの組織に属して、その中でこき使われるというイメージ。しかし最近はそれがなくなってきている。人が就職してある組織に入っても、上司がきつく叱るとパワハラとか色々言われる。サビ残は今もあるだろうが、終身雇用制でない今、それもやらせ辛くなっていると思う。あんまりブラックだったら転職するわ、ってなるし。だから一つの組織が人間をまるまる抱え込む時代というのは過ぎ去りつつあると思う。最近では副職を認めるなんて傾向も出てきたし、そもそも会社の中に大量にアウトソーシングの人間が入り込んでいて正社員なんかマイノリティーになってる場所も少なくない。
私は昔から一か所で飼われるのは体質的に嫌で、複数の人間ネットワークに属し、あんまり一か所に自分のすべてを捧げつくすみたいなことは避けよう避けようと生きてきた。結果は、複数個所からいろんな用事がやってきて、1か所ずつの用事は大したことないけど、それが3つぐらい重なると、人間が一度に抱え込むべきじゃない量になる。そういう時は、一つの組織の中だったら「いくらなんでも俺の負担が重すぎるだろ」と会社に抗議をすることもできるけど、そうじゃないから怒りの持って行き場がない。なんだか手足を別方向に引っ張られて体がバラバラになるような感じ。一つの組織の中で完結してれば誰かが「あいつ大変だな」ぐらいには気づいてもらえる可能性があるが、複数のネットワークの用事に体が引き裂かれそうな気持は、誰にも気づかれない。そういう孤独と共に暮らす。これは時代の趨勢であるのでこんなことを感じてるのは私だけではないはずだ。
時間がないなりに少しまとまって文章が書けた。これだけでも精神衛生上いいものだ。書くだけ、表現するだけで心が整う。私が肉体的に生きているのは食物を摂取しているからだが、精神的に生きているのは主にこの表現するということを通じてだと思う。

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