見出し画像

私と発達障害

今テレビを見ていた。NHKEテレの「ハートネットTV キラキラムチュー“天気予報&道路”が宝物」という番組だ。ホームページの説明にはこうある。

何かに夢中になっている子どもは、キラキラまぶしい!豪輝(ごうき)くん(10)の宝物は「天気予報と道路」。毎日お天気ニュースにクギづけ!お出かけすればカーナビいらず。サービスエリアの情報はもちろん、道路が開通するまでの歴史など大人顔負けの知識が!発達障害の特性で、想定外のことが起きると感情をうまくコントロールできなくなる。そんな豪輝くんの心の支えは、宝物!(2021年12月放送の番組をリメイク)

 彼は普段の勉強はテストというのかドリルというのか、全部まるをもらって勉強はむしろできるようなイメージだが特別支援学級で授業を受けている。
「想定外のことが起きると感情をうまくコントロールできなくなる」という発達障害だというが、番組内でも鉛筆がなくなったといってパニックになりかけている様子を写していたが、それほど大したことはないようにみえた。
TVで流す用だからあんまりえぐい映像は映さなかったのかもしれないが、もし「実際もあんなもんですよ」というのなら、子どもの頃の私のほうがはるかにヤバかった。何かうまくできないと泣きわめいていたから。プラモデルができないと言って親に当たりまくった挙句「家出する」と言って、実際、本格的な家出というのはしなかったが、ちょっとだけ、数時間家出するというのなら何度かやっていた。ある時は母親は泣いてた。それを思い出すと今は私のほうが泣けてきちゃうけど。
中学、高校になるとさすがにそういうことはなくなったが、それは見栄え的な配慮をしてのことで、つまり高校生がプラモデルできないって言って泣きわめきながら家出するってさすがに世間体としてやばすぎると思ったからで、それは「成長」とは全然違うことだった。
私は常に家出を考えていたので大学進学という口実で親元を離れて暮らすようになった。それも家出の一種だった。
このように私はヤバい子供だった。今は大人として、特にヤバいということはないように思う。少なくとも自覚としては「普通の人ですよ」と言える程度だと思う。しかしそれも「成長」というものではなく、ほんまに家出というものを経験して「気が済んだ」ということのような気がする。「成長って何?」という感じである。私は人生で成長なんてしたことがあるだろうか?なんかいろんな理由で波風を立てないようになることを、それは、面倒くさいことになるから、とか、見栄えの問題に配慮するようになったとか外形的な要因で大人しくしてたりするとか、そういう色んな理由をめんどくさいから「成長」って呼んであたかも内面というか人間の質が向上したように呼んでるだけじゃないの?という気が私はする。もしそうじゃなくて、人間って子供から大人にかわる時、ほんとに質的に向上するんだ、というのなら、私は残念ながらそういうのにあまり縁がないのかもしれない。多少あるかもしれないがそれを言い出すとこの記事の本題からズレていくのでそれはここでは書かないとして。

 上記の番組に出てくる小学校の男の子。鉛筆がなくなって「ない。ない。やばい。ない」とかあわてていて、先生から「落ち着いて探そうね」なんて声かけされてる。本当にこれぐらいで済むなら子どもの頃の私なんかもっとやばい教室に隔離されててもおかしくない、という感じに打たれた。私が小学校の頃は「発達障害」なんていう概念がそもそもなかったように思う。夏目漱石「坊ちゃん」はADHDという発達障害っぽいという指摘があるが、彼が特別支援学級に通ったということは、時代的になかった。それと同じで私も今の子供だったらそういうクラスに通うべきだった人なのだろうか?と思った。

 ちなみに私は中学は普通の公立の中学で、勉強の成績は最初は並みの並みぐらいだった。それが、部活でいじめに遭って退部した時、自分の居場所がなくなり、なんか自分のキャラをつけなければいけないと思った。それは自分の存在をかけたものすごく大きな問題だと思ったので、「勉強ができる子」になろうと思った。そしたらいじめられたりすることもなく、自分にある地位が与えられ、平和裏に学校生活が送れるだろうと思った。それで必死に勉強した。今までの人生であの頃ほど危機感をもって一つのことに努力したことは他にないと思う。それでめでたく半年から1年ぐらいかけて、勉強ができる子、という位置を獲得することができた。そしたら私をいじめてた奴らも「あいつはいじめちゃいけない奴だ」と私を認識するようになった。それは明らかだった。すると以前は「お前こんな問題も解けないのか」→「馬鹿だな」→「それにお前はここも駄目だ」→「ここも駄目じゃないか」みたいに、勉強ができないことをきっかけにいろんな非を指摘されるなんてこともあったかもしれないが、成績がよくなると「頭いいね」ってなると、「馬鹿だな」以下のプロセスが進行しなくなるので、「でもちょっと変だね」ぐらいで止まる。そして私はさすが頭がいいだけあって、学習をする。ここが変だ、と言われたところは直すか、直し切れないところは隠す。それで世間的には「ごく普通の人」で通っていると思う。私の場合「成長」じゃなくて、「うまく隠す」ということを覚えた、ということだ。ちなみにそのことを私は深刻に考えたことがない。私の人生観は基本明るい。変で結構やと思って生きている。

 私の子供の頃はたぶん専門家以外は発達障害という考え方を知らなかったと思う。今も私は病院とかで診察を受けたことがないが、もし本気で受けたらアスペルガー症候群っぽいって言われるんじゃないかと自分では思っている。空気読むのが下手とか。ネットで調べたら、カタカナの「ツ」と「シ」、「ソ」と「ン」を区別して書けないというのがアスペの特徴として出ていて「ズバリ俺やん!」と思った。私は30を超えて、職場でカタカナの書き方を上司から習っていた。彼は親切に教えてくれて、そこで私は初めてそれらカタカナを区別がつくように書けるようになった。「ツ・ソ」は中の点をタテに長細く書き、「シ・ン」は中の点をヨコに細く書く、それだけで問題は解決した。これも「成長」ではなく「うまく隠す」ということだ。まんまと私は自分のアスペ的特徴を隠しながら今日も普通の人として生きている。この「自分の本性を隠しながら生きる」ということにうっすらと快感がある。

 ただ、是非とも隠しおおしながら生きなければいけないかというとそうでもない。私はネット上の情報から自己診断して「自分はアスペっぽい」と発見した時はむしろうれしかった。なんか自分の身を飾るアクセサリーを一つも持ってなかったのが、小じゃれたネックレスを一つもらったみたいな。アスペだけじゃなく発達障害全般がたぶん人間関係に何かしら問題があるような気がするが、私が社会に出た頃は今みたいにアルハラとかパワハラなんて概念自体がなかったので「俺の酌で酒が飲めねーのか?」みたいなことを実際言われるような世界だった。「お前付き合い悪いな」なんてことも。そういう時に殺し文句としていざとなったら使えるなあと。「すみませんアスペルガー症候群なもんで」って言ったら、それはあなたを拒否してるんじゃなくて、これのせいなんです、ってそのアクセサリーを見せるみたいな。水戸黄門の印籠みたいな。

 しかし、私は他の人と比べて変だ、なんか発達障害だ、性格に欠点、瑕疵があるでもいいけど、じゃあそうじゃない人が果たしているのか?ということも思うのだ。坊ちゃんがADHDだったのにそう指摘せずに野放しで生きていたのは、当時の社会が未発達だったからなのか?それとも昔は普通の人として生きていたのに現代では異常な人と認知されるというのは、現代社会が病理に陥っているのではないのか?

 戦争や徴兵制度があった頃は、身体測定されて「甲種」とか「乙種」とかランク分けされて、あるランクより下だど兵隊にすらしてくれなかった。詳しくないがたぶんそんな感じだったと思う。しかし戦争や徴兵がない今、我々は自分が甲種なのか乙種なのか自分で知らない。昔はそのランク分けで優越感とか「自分は駄目や」とか落ち込んだり、人間の質を規定されてしまったと思うが、知らなければ知らないで、問題にもされないで生きていける、そんな社会がある。血液型だって、日本人は、「自分はA型だから神経質」「自分はO型だから大雑把」「自分はB型だから変人」みたいに考えたり、「血液型別性格なんて科学的根拠がない!」ってムキになる人がいたり。しかし世界的にみれば、れっきとした先進国でも自分の血液型知らない、調べたこともないっていう人がたくさんいる。だから発達障害だって、別に自分がどれに当てはまったって当てはまらなくたって問題にならない社会だってあると思うのだ。それはたまたま今の社会が要求する何かに不都合だからそういうことが初めて問題になるのであって。車の運転だって、高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えるのだって、それは車というものがあって、アクセルとブレーキが10センチ横に並んでついているから初めて問題になるのであって、もっと離れてついていれば10センチ横についているものを踏み間違えるという運動機能は何の問題にもならないと思うのだ。

 政治家という人たちがいる。色々問題を起して変な人たちがたくさんいるが、では彼らは普通の人たちよりも変で問題のある人たちなのかというと、私は違うと思う。やっぱ彼らは一般市民を代表して議会に送り出され、その中で頭角をあらわした人が国政の場に送り出され、その中でも特にすごい人たちが当選を重ねることができ、大臣になり、その中でも選りすぐりの人が総理大臣とか財務大臣とか幹事長とかになると思う。でもそういう選りすぐられたスーパーマンみたいな人たちでもボロクソに言われるのは、それはどんなすごい人たちでも光の当て方によっては欠点がいくらでもあるからだと思う。たとえば森喜朗元総理大臣が総理の時もオリンピック組織委会長の時も失言ばかり繰り返すという。安芸高田市の元市長で都知事選で2位の得票率の石丸伸二氏の論点の出し方が変だとか。兵庫県知事がパワハラをしたとか。全部その通りだと思うけれど、たぶん彼らは人間の中でも特別優秀な人たちだと思うけれど、それでもあんなえぐい欠点をそれぞれ持っている。人間ってそういうもんだと思ってる。私が彼らと違って自分の欠点を隠しおおせながら過ごしているのは、誰も私の欠点を根掘り葉掘りしないからだ。もし鳩山由紀夫氏が政治家になんかならずに学者でいたら、家柄も毛並みも申し分なくて上品で欠点などどこにもない立派な人として生涯を終えたと思われる。あんな優秀な人でも政敵に色々指摘されたらあんなふうに問題だらけの人というふうになってしまうんだと思う。もし私が総理大臣になったら就任30分後に辞意表明に追い込まれそうだ。人間ってそんなもんじゃないですか?

いいなと思ったら応援しよう!

quehistoriamesmo
あなたのチップは夜更け過ぎに 私の体脂肪へと変わるでしょう