睡眠についての短い考察
1時間ほどの時間があった。その間にひと眠りできればあとあと楽だなあと思いながら運転席の座席を倒して横になった。しかし何かうじうじと考えながら目をつむっているが寝付けない。あと自由になる時間は15分、10分と減っていく。それでも往生際悪くひと眠りしたいと思う。
もうずいぶん昔、夜、タクシーに乗っていたら運転手の人が、こちらが何を言うわけでもないのに話しかけてくることがあった。そう、思い出した。夜遅かったから、そしてこちらが酔っ払っていると思ったらしくて、ひと眠りしてもいいですよ、着いたら起こしますから、と言った。優しい運転手だった。疲れてる時、ちょっとだけ、たった5分とか10分でも寝ると疲れがとれるもんですよ、と。中途半端に長く寝るとかえって疲れがとれない、みたいなことを。大昔のたったこれだけの言葉を、こういう時に繰り返し繰り返し思い出している。それで、あと10分したら動き出さなきゃいけないって時にもまだひと眠りしようと思っていたがけっきょく寝れなかった。仕方なく起き上がり、なんかうじうじとあまり愉快でないことをああでもないこうでもないと考えていたと思ったけれど、何を考えていたのか忘れちゃった。その忘れちゃったということによってそれが睡眠に変わったという感触があった。もし何を考えていたかというのを忘れなければそれは睡眠にならなくて、忘れたから睡眠になったという面白い感覚。
その意味するところというのは、睡眠と忘却との関係。睡眠というのは忘却を伴うから睡眠ということがあるんじゃないかと思う。まず睡眠というのは意識を忘却するから睡眠だけれども、今日の事だったら、何を考えていたのか忘れちゃった、っていうことによってそれが睡眠になる。睡眠というのは相対的なものかもしれないということ。
今していたことなのに忘却してしまうことについて、ポジティブな意見を私は何度か聞いたことがある。ドストエフスキーの、どの作品か忘れたが、農民が野良仕事からの帰り道、ふと景色を目の前に立ち止まり、しばらく眺めながら何か考えているが、次の瞬間ふと我に返った時には彼は自分で何を考えていたのか自分でも思い出せない。そのことにドストエフスキーは神秘的な価値を見出しているようだった。禅仏教学者の鈴木大拙は講演の中で、遊びから帰ってきた子供に「何をしてきたの?」と聞くと「何にも」と答えるという。本当は何かをしていたはずだが、子どもは何かをしていたという意識を持たずに何かをしていた。それがなんか禅の真理と関係があるらしい。私には分からないがそうだという。
忘却ということ、意識が別のところに移るということの意味。忘却というのは意識が別のところに移るということを意味すると思うが、意識が別のところに移るということ自体が睡眠じゃないか、という大胆な仮説。ちょっと荒っぽいけれども、でもそういうことを考えたりするというのは発想の問題として面白いんじゃないか。
一日が終わって感じるのは、やはりあれは睡眠として機能していたんじゃないか。