【青空文庫を読む】中勘助「銀の匙」
短編集又はエッセイ集というふうに呼ばれることがあると思うがこれはまとまった一つの作品と解釈することができる。「自伝的小説」と呼ばれることが多いと思うが、この呼び方には「だいたい本当のことだけど一部フィクションの部分があるかも」という感じを与えて煮え切らないが私はここにはフィクションは一切ないものとして読んだので「自伝エッセイ」みたいな呼び方のがいいかも、と思った。中勘助(1885-1965)の幼年期から青年期の自伝。1913年に漱石の激賞を得て東京朝日新聞に連載され評判になり作家活動に入った。
勘助はこれを20代後半に書いたのだがまず印象深いのが、よく指摘されることだが、よくこれだけ幼少期のことを鮮明に記憶してるなあ、ということ。読めば自ずと分かるのだ。これはフィクションではなく彼の幼少期のことを正確に記録した文章なのだということが。
我々は太平洋戦争のことを描いた種々の作品に触れることは多いが、日清戦争の頃(中勘助10歳)の雰囲気に触れることは少ない。そういう歴史の記録としても地味に興味深い。
彼の幼少期から青年期のことを時系列的に書いているが、しかし、彼が経験したことすべてを書いているのではない。すべて非常に地味な材料ばかりでよくここまで人を惹きつける作品になったなあと思った。
昔、知人にこの作品を読んだ感想を聞いたら特に何も答えなかった。どうもあんまり面白くなかったようだと思った。それで私もこの本は昔から読みたいと思っていた本だがもはや価値がなくなった本だと思って読む気があまりなくなってしまった。
私は最近は青空文庫に収録されている作品を読み上げアプリにかけて読む(「聴く」と書くべきかもしれないがなんとなく惰性で「読む」としておく)ことが多くなったが、読み上げアプリがあまり大容量のものを一度にダウンロードすると動きに支障が出るので、だいたい文庫本にして50ページ60ページの作品を読むことが多い。「銀の匙」はもっと長く文庫本1冊ぶんなので読み上げアプリでは聞きにくいのだが全体を3つの部分に分けてその1つ1つを分けてダウンロードして読むことにした。一つはこの作品がブツ切れのエピソードがたくさん出てきてエピソード一つ一つが独立した作品で他の部分との結びつきが薄いのではないかと思って、ブツ切れで読んでもOKな作品ではないかと思ったこともある。
読んだ感想は、面白かった。地味だけどだから良いと思った。だから作者の心の中、何に関心があるかとかがダイレクトに伝わってきそうな気がした。
彼の家には父母だけでなく叔母も住んでいて、叔母には子供がないため勘助をわが子のように可愛がり、小さい頃の話の中心はこの叔母である。この叔母と「私」の関係は、どうも漱石「坊ちゃん」に出てくる清と主人公のイメージと重なる。ある家に住み込みで働く女中という存在が今の日本では稀だと思うのでこういう小さい男の子と中年以上の女性との継続的な関係って今では失われてしまったと思うけれどこの作品でいちばん印象深いのがこの関係だ。親子の絆とはちょっと違うし、もちろん男女関係でもない。この何と名づけていいか分からない関係って一生切れない絆で結ばれる、一生ものの関係だと感じさせる。やがて叔母はどこか別のところへ引っ越してしまうが、「私」が青年になってからふと年取った叔母に会いに行く話が出てくるがその様子がいとおしい。
この地味な作品の中で、たびたび若い、同年代の女が出てくる。その中には美しい女性も出てくるが、「私」がその女性と男女の仲になりそうな話が出てこない。彼女たちは充分に魅力的なのにどうしてだろう?と不思議な気持ちになる。「私」はその女性たちが嫌いなわけではない。むしろ会えなくなる時寂しくて「私」は涙を流したりするほどだが、不思議と彼女たちと恋愛関係になる可能性が最初からないように書かれてる。
ここには「私」の10代後半までの話しか出てこないが、実際の中勘助は50を過ぎても独身だった。しかしあまり良い関係ではなかった病身の兄を一人で面倒をみることが難しくなってきたという理由で、嫁を捜すことになり、知人の伝てで紹介された女性と結婚した。中勘助は写真を見ると整った生気のある顔でイケメンなので若い頃から浮いた話がいくつあってもおかしくないと思うのだがどうもそういう人ではないらしい。そういうところはロシアの作家ゴーゴリとすごく似てると感じる。イケメンで、作品の中に魅力的な若い女性が出てくるのに、本人に浮いた話があったということが伝わってないところがとても似ている。どうも勘助は性的な男女関係に興味がなかったのではないかと思わざるを得ない。どうも叔母との仲が彼の元型になっていて、出会う女性との関係もこの型を前提とするのではないか?と考えてみたくなる。
でも見方を変えれば、それほど「私」と叔母の関係は仲睦まじくそれはそれで非常に魅力的である。それは「銀の匙」の魅力の核である。
数個前の記事で触れたが、私は近年「青空文庫」に収録の作品を読み上げアプリで読む(本当は「聴く」やけど)ことが多くなり、既にかなりの数の作品を読んだけど、「銀の匙」は北条民雄「いのちの初夜」、坂口安吾「白痴」、久坂葉子「女」などと並んで最も良かった作品の一つだ。最後の終わり方もいい。地味だけど美しい女性が出てくる。「私」との間に全然何の関係にも発展せず、従ってできごととしては地味だが、余韻を残してとてもいい終わり方だ。作品を通じて別に事件らしい事件など一つも起きないが、それでいてこれだけ豊かな世界を作り出せるというのは私にはちょっとした発見だった。
リンクも何も貼らんけど貼る必要ないと思うて。
(追記)書き忘れたことがあった。このエッセイは地味で、地味なのが魅力、と何度も書いたけど、なんで地味なのが魅力になるかということについて。それは自分の分身になり得るから。つまり私の生活なんて地味で地味でしょうがないのです。電車に乗ったら誰かに告白されるわけでもなく、ただ歩いて、出かけて、スーパーで買い物して、帰ってくる。そういう私には中勘助の地味な世界は地続きであるというのが一つ。それと、そういう地味なものを描写するんやけど、「ああわかる、この距離感」という感じ。中勘助があるものをどういうふうに描写したかっていう感触が伝わってくる。ここを描いてあそこは捨象する、みたいな、ああ、そういう書き方をするんですね、というのが分かる。すると、こういう感じが浮かんでくる。私は年取っているとはいえ日清戦争を知ってるというほどではない。しかし私がもしあの頃生きてたら、と想像すると、中勘助みたいに感じたやろな、と。だから「もし私が日清戦争の頃に生きてたら」というのを中勘助にやってもらうというか。私がこの世に生きていて世界を広げていくとなると情報を収集しなくてはいけない。たとえば100年前の日本。その頃の日本人はどんなふうに考えて、もしそこに私が生きたらどんな感じか、というのを中勘助「銀の匙」でやってもらってる、みたいな。実際私はあの頃生きてないから中勘助がここで書いてくれてる以上のことを私は知り得ない。でもその知り得ない頃のことも、同じ日本人である以上、それは微妙に私自身でもある。でも届かない。でも中勘助のこの本を手掛かりに手が届く、みたいな。言うてる意味が分かる人がおればええけど。