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戦後日本の平和思想はアクセサリーか何かだったのか?

 今から約80年前の敗戦の記念日が毎年8月6日に広島、8月9日に長崎、8月15日に終戦記念日と3つ続けて来る。
 今年は明日の長崎の平和祈念式典にイスラエルが招待されなかったことでちょっと問題が起きている。でも地味ですぐ忘れられる。オリンピックもあるし。来月は自民党の総裁選、合わせて立憲民主党も代表選挙をするという。それが終わったらいよいよ11月のアメリカ大統領選挙が終盤に向けて盛り上がる。日銀の政策も大きな曲がり角に来たみたいだしアメリカの経済指標が思わしくないことも重なって円相場だけでなくて株価も乱高下してるし、心配ごとはたくさんあるから、長崎の式典にイスラエルが呼ばれなくて欧米諸国がやんわりとした言葉で異議を唱えてるなんてことは、来月にはみんな忘れてる。
 だから逆に覚えとかなきゃと思ってここに備忘録的に書き留めておきたい。

 長崎市は今年の平和記念式典に、現在ハマスと戦争を続けているイスラエルの大使を呼ばなかった。それに対してG7の日本以外の各国とEUの大使らが連盟で長崎の鈴木市長に書簡を送った。

イスラエルを式典に招待しないことは、イスラエルを式典に招かれていないロシアやベラルーシのような国と同列に扱うことになり、不幸で誤解を招く
式典の普遍的なメッセージを維持するためにイスラエルを招待することを求める。イスラエルが除外された場合、われわれがハイレベルの参加を行うことは難しくなるだろう

 それが先月。そして今月になってアメリカとイギリスの大使は式典への欠席を表明した。

 それに対して今日、長崎市長は

決して政治的な理由で招待していないわけではなく、平穏かつ厳粛な雰囲気のもとで式典を円滑に実施したいという理由だ。苦渋の決断ではあったが、そういう考えで決定した。判断に変更はない

あす8月9日は長崎市にとって1年で1番大切な日だ。被爆者の平均年齢は85歳を超え、酷暑の中、頑張って参加する被爆者もいる。こうした式典が、いろんな妨害によって影響を受けてはいけない

 ということで、明日平和記念式典だという今日、九州に大きな地震が来て、それが南海トラフ沿いで起きたことから、今後1週間ぐらいは巨大地震が誘発される可能性があるということでメディアはオリンピックと地震の報道が多くなり、長崎の式典にイスラエルが呼ばれなかったことなんて誰が覚えてるか、という感じだろう。

 2013年8月6日の広島の平和記念式典では当時の広島市長がスピーチで原爆は絶対悪だと言って、それに対してイスラエル駐日大使が独善的だと批判するコメントを出した。

 現在核兵器を保有している国は世界で米露中仏英印パキスタン北朝鮮イスラエルの9か国ある。ちょっとずつ増えているし、開発を試みる国もあるが、世界的な反核プレッシャーがあるため、開発を断念したり、大きく足踏みしている国もある。イランも明らかに核開発の意志を持っているが国際的な圧力があるため現在も核兵器を持つに至っていない。ある国が核兵器を持とうと思うといかに大きな騒ぎになり失うものも大きいかということを示している。反戦平和や反核を唱える意義は大きく、その中でヒロシマやナガサキの国際的存在感は国内で考えているよりずっと大きい。

 日本は戦後80年、反戦平和を唱えながら暮らしてきた。大変結構なことに違いない。ただそれは、我々日本人にとってどんな意味があるのか。これは考え始めるとたぶん誰にも分からないぐらい曖昧な要素があると思う。そこがまた日本的というか。日本人は主義主張の曖昧さや矛盾をあんまり気にせずに生きていける、しかも平和で秩序を保ちながら生きていける、かなり稀有な民族だと思う。なぜそんなことができるのか、我々自身にも説明するのが難しい。

 日本がヒロシマ、ナガサキと言いながら反戦平和を唱えてきて、それはたとえば「火垂るの墓」とか「黒い雨」みたいなすぐれた文学も生み出していて、すばらしいものだと思うが、しかしもしそれを真に受けて、対立のある中で核兵器を放棄する国があったらどうなるか?

 ウクライナはかつて核兵器保有国だったが1994年11月の「ブダペスト覚書」で米英露が安全保障を約束することと引き換えに核兵器を放棄した。ウクライナの核放棄を主導した当時のクリントン米大統領は2023年4月4日のアイルランドRTE放送局のインタビューの中で、もしウクライナが核兵器を持ち続けていたらロシアの軍事侵攻はなかったから、ウクライナに核放棄させたことを後悔していると述べている。
 アメリカがウクライナの軍事支援を打ち切ることをトランプ大統領候補は示唆しているが、無責任な話だ。アメリカはウクライナに、「いざとなれば俺たちが守ってやる」と言ってロシアからの攻撃に対して自衛する手段を奪っておき、今になって、なんであんな遠い国のことにアメリカが巻き込まれなきゃいけないんだと言っている。そんなこと言うなら最初から核放棄しろなんて言うべきでなかったのだ。

 それはともかく、ヒロシマ、ナガサキ周辺の人たちは「今こそ勇気をもって核放棄を」と言うけれども、実際に核放棄をしたウクライナのことをどう評価するのか?「それでもウクライナは正しいことをした」って言うのかな?それならそれでインテグラルだと思うが、たぶんだんまりを決め込んでいるのではないか?

あす8月9日は長崎市にとって1年で1番大切な日だ。被爆者の平均年齢は85歳を超え、酷暑の中、頑張って参加する被爆者もいる。こうした式典が、いろんな妨害によって影響を受けてはいけない

と長崎市長は言った。この式典はいちおう世界の平和とか普遍的な真理の啓発活動という建てつけになっているように見えるが、実際は長崎というローカルな町のの高齢の方たちの記念日に化しているのでは?

 靖国神社とか護国神社も、日本国全体で支えられているみたいに見えて、実は寄付金や会費を納める戦没者遺族が高齢化し年々減って財政難である。それでも中国人や韓国人が神社にいたずらしたと分かるとネット上で非常にたくさんの日本人が怒るから、なんか靖国神社は日本人全体に確固として守られてるみたいなイメージがあるけど、そう見えるのは表向きだけで、実際は張子の虎みたいになってるんじゃないか?それは靖国だけじゃなくて反戦・反核運動もそんなところがあるんじゃないか。
 もし本気で反戦・反核を唱えるならむしろ、ロシア、ベラルーシ、イスラエルの大使こそ広島や長崎の式典に呼びつけて説教してやる、ここに来て核兵器のむごさ、平和の尊さを思い知れ、ぐらいの勢いでやるべきではないか?戦争してるから呼びませんでは世界平和なんか実現できるわけがないのだ。平和を守っている人たちだけで核放棄しましょうって言ったらウクライナみたいになってしまうだけなのに。

 我々は戦後80年間、ヒロシマが、ナガサキが、と言って、夏休みの課題図書とか読まされて、さかんに反戦平和、核放棄ということを聞かされてきた。毎年この頃になると、TVでもそれ関係のアニメとかやってたりして、それは美しいですね。日本人の情緒をはぐくむ意味ではとてもいいことだと思う。でも政治的には破綻してると思う。今回G7やEUの国々からやんわりと書簡で抗議されたのもそのあらわれだと思う。地味な事件ですぐに忘れられるけど、実はずっと後まで続いていくできごとだと思う。我々が80年間唱え続けてきたこの思想は我々の社会の平和を守ってくれるものではないということ、これは防衛行政に関わる人には最初から分かっているはずだが、一般の国民の意識にも上ってきつつある。核兵器を放棄して平和になるんだったらウクライナの現状をどう位置付ければいいのか?日本よりも厳しい地政学的環境下いるイスラエルはだからヒロシマの思想を独善的だとして嫌悪感を露わにしたのだ。

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