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新年の挨拶

新年の挨拶

あけましておめでとうございます。

と挨拶してみたがぼっちで友達が一人もいない私にはあんまり似合わないかもしれないが、でも仕事で会う人にはこういう挨拶してるからこれでいいのか。

noteを始めて半年ぐらいたったがいまだにどういう距離感で記事を書いていいか定まっていない。つまり私の記事を読んで下さる方々にはこれはもう間違いなく感謝の気持ちでいるが、やっぱ人によっていろんな距離感で読むから色々だなあと思うので、けっきょく半分独り言みたいなノリで書くことになる。私は誰にも見せることのない日記をずっと書いていて、その中で人目に触れる文章も時には書く、という感じ。以前のブログもけっきょくずっとそんな感じだったとも言えるのでそういうことになろうか。

しかし新年が始まるにあたって、なんとなく頭にあることもある。それは、世界で広がる社会の分断ということ。地球が狭くなって「地球村」みたいなことも言われる中で、隣人同士が仲悪いのはやっぱ良いことではない。しかしたとえばアメリカで、数年前にBLM運動なんてものがあり、黒人と白人の断絶があるかと思えば、最近聞いてすげー!と思ったのは、去年は大統領選挙があったが、なんと民主党支持者と共和党支持者がいて、支持政党が違う人との間で結婚する割合がなんと4%ぐらいしかないという。これは昔からそうだったのではなくて、最近そういう傾向が高まっているという。このことについては別に記事を書きたいと思っている(書けるかどうかは分からない)が、社会の分断である。同じような分断は韓国でもいよいよ深刻である。「国民の力」と「共に民主党」の間では、あるいは国会と大統領府の間で、今のところ妥協しよう、韓国の一体性のために手を組もうみたいな雰囲気が全然感じられないのは、私が半月ほど前の記事で想定した中でいちばん悪いほうになりつつあるような感じがあって、これは日本の国際環境にとって決して決して良いことではない。

これも昨年のどこかの記事でちょっと書いたこととちょっと関連することだが、まだ書いてないけど、柄谷行人という人がインタビューの連載記事を出していて、その中で、この人は以前から「文学は終わった」ということを言っているけど、そのことをやわらかい言葉で語っていて分かりやすかった。「文学は終わった」というのは、文学なんか読まないという人には別にあんなもんオワコンでええやないか、ということにもなろうが、柄谷は、文学は近代国家の形成の頃に「国民国家」と言われる近代国家のうち、「国民(の一体性)」を作り上げるはたらきをしたと言った。それがオワコンになったというのはどういうことかというと、「国民の一体性」を作り上げてきたものがオワコンになったということかな?と。今は、日本人だけじゃないけど、世界じゅうで文学が終わって、そんなに読まなくなって、かわりにネット環境の中でそれぞれが触れたい情報にだけ触れて「エコーチェンバー(反響する小さい部屋)」、自分が好きな情報だけに触れて、小さな部屋でそれが反響して、外の世界にそれとは違うものの見方があるということを忘れちゃってる現象が起きているという。これは社会の分断を助長するに違いない。

そういう中で私が意識してるのは、社会の一体感のために何が必要で、私が何かしてもしなくてもそういう流れを変えたり影響を与えたりすることはできないけど、せめてそのためにできることでもできるならしたい、ということを思う。たとえば日本の街はゴミが落ちてなくてきれいだという。これは日本人一人ひとりがゴミを捨てる人が少ないし、また公共の場であっても自分の近所を掃除する人というのが少なくないからそうなってると思う。その中で私一人がゴミをポイ捨てしても別に大局的には変わらないけど、でもやっぱそういうことはせずに、せめてゴミを捨てる時には、可能なら分別して捨てるとか、目立つゴミならたまには拾うとか、そういうような気持ちで、何かできたらいいなということを思うものである。具体的には2つ。

1つは、元旦ということで元旦の話。昔外国に滞在していた時、キリスト教の国で、一年でいちばん大事な行事は明らかにクリスマスだけど、かえって日本のクリスマスのほうが派手で、かの国のクリスマスは、単に町から人が消えて店もみんな休み、という日だった。みんな家庭を大事にするから、それぞれの家でクリスマスを祝っているんだよ、ということだった。新年も、別に「ゆく年来る年」みたいな番組があるわけでもなく、せいぜいどこかで5、6人が「スリー、ツー、ワン、ヒューッ」って言ってるぐらいのものだ。それすら聞こえないかもしれない。仕事すら休みでなかったかもしれない。ほんとに単に月が変っただけみたいな。その町に滞在してた時は、アジア系の人がやる、スモーガスボードと言ったと思うけど、ごはんの上にかけるおかずがガラス越しにあって、「これとこれをかけて」って言ってよそってくれる食事をよく食べに行って、顔なじみになっていたけど、ある時思いがけず「ハッピーニューイヤー!」って言われた。キョトンとしてたら「あ、日本では太陰暦の正月を祝わないの?」って。「ううん、祝わない。太陽暦の正月だけ祝う」って私は答えた。

このことについてchatGPTに聞いてみた。

あなた:
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

ChatGPT:
明けましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願い致します。素晴らしい一年になりますように!

あなた:
日本人にとって新暦の1月1日は1年でいちばんの区切りとなる大切な日だと思います。しかし新暦を作り出した欧州では、1年でいちばんのイベントはクリスマスだと思います。また東洋の多くの国では旧暦の元旦のほうをより祝うと思います。イスラム圏では彼ら独特の太陰暦があるようです。スラブ社会ではユリウス暦を使っているようです。ここから考えるに、新暦の1月1日を日本人ほど祝う国は他にないように思いますがどうですか?
ChatGPT:
面白い視点ですね!おっしゃる通り、日本人が新暦の1月1日を特別な区切りの日として、ここまで盛大に祝うのは独特な文化的特徴と言えます。他の国々と比較してみると、確かに差異が見えてきます。

新暦の1月1日を祝う他の国々
西洋諸国
ヨーロッパやアメリカなどの多くの国では、新年を祝う文化がありますが、日本ほど厳粛で家族中心の祝い方は少なく、パーティーやカウントダウンイベントが主流です。クリスマスが年間最大のイベントである場合が多く、新年はその余韻の中で祝う印象があります。

中国や韓国などの東アジア 中国や韓国をはじめとする東洋の多くの国では、旧暦の元旦(春節、ソルラル)が文化的により重要視されています。新暦の1月1日も祝日ですが、主役ではありません。

イスラム圏 イスラム暦に基づく新年(ヒジュラ暦の新年)が重要であり、西暦の1月1日は宗教的意味を持たないため、一般的には特に盛大に祝われません。

ロシアやスラブ圏 ロシアなどでは、ユリウス暦に基づく旧正月(「正教の新年」)が伝統的に重視されています。ただし、新暦の1月1日も祝われており、特にソ連時代以降は国民的なイベントとなっています。

日本の新年文化の特徴
家族中心の過ごし方
年末年始は家族が集まり、伝統行事や食文化を大切にするのが一般的です。これは他国ではあまり見られない特徴です。

宗教的融合
神社での初詣や仏教の年末行事(除夜の鐘)など、宗教的要素が新暦の新年にしっかりと根付いています。

年賀状やおせち料理の伝統
年賀状やおせち料理といった新年特有の文化が社会全体に浸透している点も独特です。

なぜ日本人が新暦の元旦を重視するのか?
明治維新の影響
明治時代に西洋化政策の一環として新暦が導入され、それ以前の旧暦の文化が新暦に吸収されたことで、新暦の元旦が一種の「統合的な正月」となりました。

農業社会からの脱却
旧暦の正月が農業カレンダーに密接に関連していたのに対し、都市化とともにその必要性が減少し、新暦の元旦が普遍的な祝日として受け入れられたと考えられます。

国家的な一体感
新年を祝うことが国民的な儀式として共有されることで、社会的な一体感が高まりました。

結論
新暦の1月1日をこれほどまでに大切にし、家族や文化的伝統を重んじて祝うのは、確かに日本特有の現象です。他国でも新年を祝う習慣はありますが、日本のような「特別な区切りの日」としての強い意識は、歴史や文化的背景の違いから来ていると言えるでしょう。

ということだった。

ちなみにウクライナはロシアとの戦争が始まって以降、従来使っていたユリウス暦をグレゴリオ暦に替えた。ロシアとの一体性を嫌い、ロシアに精神的な決別を示す意味でそうした。これは逆に言えば、同じ暦を使い、それによる行事を一緒に祝うことがそれだけ社会の一体性にとって大事だということだと思う。

近年日本では、諸外国の行事を派手に祝うようになってきている。たとえばハロウィン。これは欧州のケルト人という民族がいて、この人たちの新年は11月だそうで、その前日の10月31日は彼らの大みそかにあたり、それをなぜか日本でも祝うようになっている。またブラックフライデーとか、買い物にいくとやってる。これは米国のサンクスギビングという、昔、欧州から移民してきた人たちがアメリカに着いたけど食べものもなくて飢え死にする人も続出し、中には人肉食もけっこうあったというぐらいひもじい中で先住民族のネイティブアメリカンの人たちが食べ物を分け与えてくれたので、次の年にはそのお礼に彼らを招いてごちそうしたことから11月の第4木曜日を感謝祭として祝うようになって、その翌日の金曜日に店がセールをして黒字になるのでブラックフライデーと言うということを私がフォローしているある方のnoteから最近学んだ。それを日本でも、意味も分からず祝うというか店が商売のために利用してるというか、している。バレンタインデーとかクリスマスだって、日本人には関係ないんだけど、なんか乗せられて祝ったり、ケーキとか買わなきゃいけないかな、みたいな、正月だからお節料理買わなきゃ、みたいなノリになってたりする。

こういうのは日本人の軽薄なところで嘆かわしい、という言い方もできるだろうけど、しかし国民の一体性の保持という観点からは、悪いことばかりではないと私は思う。ほんと意味もなく、なんかこの日にはみんなこうしてるから自分もこうしなきゃ、って心になる、ってこと自体、社会の一体性とも言えると思うし。なんか年の暮れって、せわしない心があって、年末に会えば「よいお年を」って声を掛け合ったりして。「今年はこれで最後ですか?」「いえ、明日また会いますよ」「あ、そうか」って言って、「良いお年を」って挨拶しそうになるのをおさえて、翌日会った時に、「じゃ、今日で今年は終わりですね。よいお年を」「よいお年を。来年もよろしくお願いします」「あ、こちらこそよろしくお願いします」って。貧乏人でも金持ちでも、右翼でも左翼でも、そういう挨拶して、そういう挨拶する時には、なんか同じような気持ちでいると思うんだよね。「今年最後か」みたいな。新年なら新年で、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」って言い合う。金持ちなら余計にそう思うとか、貧乏人はあまり思わないとか、そういうことなくて、みんな、1月1日だから大きな区切りがあって、新しい1年が始まる、って。昔外国に滞在してた時、クリスマスの日に人影まばらな町の様子を見に行った時、すれ違う中年ぐらいの男性が、なんか競歩みたいに早歩きしてすれ違う時に「メリークリスマス」って挨拶して過ぎていった。私も「メリークリスマス」って返しながら、それだけで温かい気持ちになった。でもかの国はそれぐらいだった。町にクリスマスツリーなんかどこかにあるの?っていうぐらいだったけど、日本なら、各種行事の時に、その行事の雰囲気を作る飾りがあふれている。それはお店が売り上げ促進のためにやってるんだけど、とにかく結果として社会の雰囲気を、一体性を作り上げている。日本だって昔は太陰暦の正月を祝っていたし、七夕だって、今みたいに真夏の7月7日じゃなくて、旧暦の7月7日、つまり秋の真ん中の、その日は太陰暦だから必ず半月で、夜の12時には月は西の空に沈んで、もう秋だから空も澄んで星空もよく見えるという時が本来の七夕だけど、今はそれがそのまま新暦にシフトして、そんな時期に天の川なんて、かなり田舎でもけっこう見づらいというかほぼ見えないはずなのに、新暦の7月7日に祝うし。それだって今日本人がハロウィンを何のことか分からないまま祝うという体質があるのと同じだけど、それが日本人が一体感の保持しやすさであり、それはそれで問題もあるけど、でも社会の分断が世界じゅうで深刻な問題になってる時には、いい面として認識していいんじゃないか。

1年前、能登半島で大きな地震があり、被災地では今でも大変だと思う。それについて、我々被災しなかった他の日本人が何ができるかというと、寄付というのがいちばん直接的やけど、被災者の人たちが言うのは、自分たちのことを忘れないでほしい、って。まったく同じことを、阪神淡路大震災の被災者たちも言っていた。つまり、我々被災してない日本人が、被災者の人たちが苦労してるってことを、単に忘れないでいる、ということが大事で、被災者の人たちの心をささえる役目をしているということ。

昔読んだ本から引用したい。

村上 神戸ではカウンセリングというのは行われているのですか。

河合 それはだいぶやっています。…特徴的なのは、ぼくははじめから予言していたんですが、PTSDは欧米などにくらべると少ないです。…大きなショックを受けた人が、しばらくの間普通にがんばっているんだけれど、ずいぶん長い間経ってから、突然症状が出るという現象です。それはアメリカなどではだいぶあるんですね。…もちろん日本でもある程度はあるのですが、日本人の場合は衝撃を個人で受け止めなくて、全体で受け止めているのですよ。     (「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」新潮文庫)

今年の新年一般参賀で天皇陛下も能登半島地震のことに触れて被災者の人たちにお見舞いの言葉を言われた。それを日本に住む多くの人たちが聞いて、今いちど被災地に思いを馳せる。そういうことが大事やと思うのです。

他にもう1つ。それは、上でちょっとあげたけど、「文学は終わった」と柄谷行人が言った。興味ある人は「柄谷行人 じんぶん堂」で検索すると当該記事が出てくると思うのだが、それは説得力あった。しかし柄谷が触れていないことも思った。たしかに国民にアピールするコンテンツとしては、ドラマとか映画のほうがもっと直接ビジュアルに訴えかけてくるということがあるけど、でも我々普通の人間には、ドラマとか映画なんか作れない。でも小説とか、字で書く物語とかは、下手だとしても書くことは可能だ。まして、俳句とか短歌なら小学校の宿題でも我々みんな作ったように、みんなが参加できて直接アプローチできる形式として、文章でできている作品で共感するというのはコミュニケーションの手段として別格やと思うのです。
私はアスペ気味でひきこもり体質なので他人とのコミュニケーションはスッとできない、嫌いというのではないけど、他人よりうまくはできないな、という意識を持っている。それでも、このnoteでも、誰かが小説とかの感想文を書いたりしてる記事に、私としては珍しいことにコメントを書き込んだりしたことが何度かあった。それを思うにつけ、文学作品は、明治維新の頃に国民の一体性を形成したことに役立ったというけれど、今もある文学作品について感想を言い合ったりするという形で役に立っているように思う。別に国内の作品だけに限らなくて、日本人ならだれでも知ってる海外の作品っていくらでもあると思う。アンデルセンの童話とか、フランダースの犬みたいな。
 私はそれで思うのが、日本人が日本人同士で語り合える共通の土台になりうる文学作品を50とか100ぐらい選んでそれを列挙するような記事をいつか書きたいと思っている。
 これも昔読んだ本に書いてあったけど、日本人はかつては「論語」の知識が皆にあって、それをもとに親子の会話が成り立っていたという。その本には、渋沢栄一が父親に、自分はこういう道を歩もうと思う、と話し、父は「論語にこう書いてあるからこうしたらどうか」みたいな、そういう会話をしていたという。その本は山本七平という人の本だったが、現在、親子の会話がなくなって困るみたいな話をよく聞くが、論語を読まなくなった、共通の古典がなくなったから親子で話がなくなるのは当たり前だ、みたいなことが書いてあった。だから、もし論語があまりにも遠い話すぎるとしたら、せめて共通に読んでる、知ってる何かが少しでもあれば、親子でも国民の間でも、共通の話ができる基盤がそれだけできると思うのだ。そういう基盤として、たとえば「源氏物語」とか「遠野物語」とか、あとは「坊ちゃん」「吾輩は猫である」とか。漱石の作品は文化人類学の話で、外国人が日本人の特徴を語る時にけっこうよく出てくるので、好き嫌いは別として、一緒に話し合えるといいと思う。これは昔ベストセラーになってた「国家の品格」という名前だったと思うけど、著者がイギリスかどこかに行った時、「漱石の「こころ」の先生の自殺と三島由紀夫の自殺には共通点があると思うか?」みたいな質問をされたそうだ。これは答えるのが難しい質問やと思うけど、まず基本として、「こころ」読んでないとそもそも答えようすらない。こんなふうに、いろんな会話の前提として、知っておくと、読んでおくといい文学作品っていろいろあると思う。私は基本好きではない太宰治なんかも、これはどこに行っても、好きな人と嫌いな人がはっきり分かれてそれ自体興味深いし、やっぱ好きでも嫌いでもいちおう何冊か読んでおくと「私は好き」「えー、私は嫌い」みたいな会話に参加できるし。同じく、太宰ほどではないだろうが、好き嫌いがけっこう分かれるのは三島だと思う。「潮騒」なんかは健全さを前面にフィーチャーしてるからあんまり文句はないと思うし、「金閣寺」はこれはけっこう難しかったイメージがあり、あんまり会話のベースとして成り立たないかもしれないけど、「仮面の告白」はけっこう変態性がフィーチャーされてて好き嫌いが分かれそうで、会話の基盤としては面白いかも、とか。そんな作品を列挙する記事を、いつできるかできないか見当がつかないが、いつかそんな記事を書いてみたい。
あと、今年はnoteの記事として、今まで書いてこなかったタイプの文章もできたら書いてみたいと思う。モデルはあるのだが、自分はこういう文章は今まで書いたことがないかもしれない、というもので、それは、私は文章というのは内容が充実して詰まったものがいいような気がしてきたが、中にはそうではないのに読ませる文章があると思うようになった。有名な作家でいうと、川端康成の文章は、書いても書いても、それが降り積もって高い建造物になっていくという感じがなくて、むしろ何か構築物があったとしても、文を書くごとに既にあったものが取り除かれていくような感じの文章だ。どうやったらそういう文章が書けるのか今のところ私には見当がつかないが、目標としては、8万字ぐらいの記事で、特に何か意味があることが書かれているわけでもないのに、つい最後まで読んでしまって、何かが残るわけでもないのに、読み心地がいいから読んでしまったな、読後感もいい、みたいな。なんかね。

copilotに「日本のお正月にふさわしいイメージを作って下さい」ってお願いしたら、盆踊りしてるみたいなのとか、桜の花が咲いてて花見してるみたいな、ズレた画像ばかり作られてしまったので、「富士山に初日の出が昇ってるイメージを下さい」ってお願いしたら、わりといいイメージをくれたのでそれを冒頭の画像に使うことにした。

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quehistoriamesmo
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