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【青空文庫を読む】壷井栄「二十四の瞳」

 私の今の生活は、仕事が休みの日でもあんまり座る暇がなくて色々動き回っている。座って読書なんてする習慣自体がなくなってしまった。それで読書のかわりにネット上で調達できる活字を読み上げアプリにかけて聴くことをしている。小説、文学作品に関しては従って青空文庫から探している。キンドルなら最近の小説も調達できるけど、読み上げる場合なんか使い勝手がよくなくて。コピペしていつも使い慣れてる読み上げアプリで聞こうとしても、数ページコピペしたら、著作権か何かの関係でこれ以上コピペできません、とか出ちゃって。それで小説を読みたい(というか「聴きたい」がほんまやけど「読みたい」という表現にしておく)場合青空文庫で探すことにしている。私の生活パターンも色々変わっていくし、それ以上に時代も変わって、近い将来「こんなことができる日が来るなんて思わなかった」みたいな画期的なIT技術が出てくるかもしれない。それまでは青空文庫にある作品で読みたいものを片っ端から読み上げアプリで聴こうと思っている。
 下手に時間がたっぷりある時には、簡単な本って読めない。こういう時でなければ読めない本を読もう、って思って超長い本とか超難しい本とかを今読まなきゃ死ぬまでに読めないや、って思うので。そういうわけで、本当は子供の頃に読むべき本で読み残した本ってたくさんあるので、それが青空文庫にあるなら今読まなきゃ、っていうわけで「二十四の瞳」を読んだ。

 ここ1週間ぐらいで読んだのだが、こんなすごい作品だったのか、って思ってびっくりした。なんか子供用のほのぼのした童話かな、ぐらいの気持ちで読み始めたけれどとんでもないですね。wikipediaによると、この作品は1952(昭和27)年に発表されて以来、映画とかTVドラマなど計11回も映像化されているという。冒頭の画像はおととしNHKでドラマ化されたものらしい。真ん中に大石先生が松葉づえを突いて、その周りに12人の子供が写ってる。小説の中で実際、こういう記念写真を撮る場面があって、この写真はみんなにとってすごく大事な写真でラストシーンでも出てくる。いい歳して泣けてくるで。

 やっぱ11回も映像化される作品ってそれだけのことはある特別な作品だと思う。別に泣けてくるからいい作品というのではない。私は読む前は子供のために作者がふんわりした手で扱うような作品かなと思ってたけど。実際は、作者が力まかせにバシャーン!って投げつけてくるような感じがする。反戦的なメッセージが込められているのは間違いないけど別に怒りにまかせてという意味ではなくて、作者は冷静だけど、メッセージに確信をもって社会に突き付けている感じが。私は戦後生まれの人間として、平和な世の中しか知らない。戦争の時代というのは知らないんだけど、たとえば新渡戸稲造「武士道」の中に出てくる次の言葉を、平和の時代しか知らない我々は、どう解釈すればいいのだろうか。

この世に生を受けた人の中でジョン・ラスキン以上に温厚で平和を愛する人はなかった。その彼が激烈な人生を崇拝する熱情をもって戦争を信奉したのだ。彼は「野に咲くオリーブの冠」の中でこう述べている。「私が『戦争はすべての芸術の基盤である』と言う時、それは、戦争は人間のすべての高貴な美徳と能力の基盤であることも意味する。これを認めるのは非常に奇妙だし、また怖ろしいことでもあるが、しかしまったく否定できない事実だと認めざるを得ない。ありていに言えば、すべての偉大な国は真実の言葉と思考の強靭さを戦争から学んだ。彼らは戦争で培われたものを平和で台無しにした。戦争に教えられ平和に騙された。一言で言うならば、彼らは戦争の中から生まれ、平和の中で息絶えたのだ。」

 私は戦争を肯定するためにこれを引用したのではない。ただ、人生を生きるうえでの原則として、片方しか知らない時に別のほうをただ否定し去るのはどうか?と思う。私はこう思うのだ。A国とB国が平和な時は、お互いの国について、自分たちはここが良くてあそこが悪い。逆にあなたのお国はここが悪くてあそこがいいですね、ってなるけど、戦争が始まったら、これはもうゲームの一種だと思う。すべてを賭けたゲーム。だからお互いに、自分たちが100%正しくて相手が100%悪い、って思う。そう思わない奴は非国民であり売国奴と言われてもしょうがない。それが戦争だと思う。だから、我々は平和な社会を生きている。少なくとも2024年現在は。本当の平和って、潜在的に敵対している相手(それが国であれ思想であれ何であれ)には良いところも悪いところもありますね、っていう発想が平和の発想だと思う。しかし戦後の日本は、戦争は絶対駄目だ、で80年間通してきたけど、それは「戦争に対して戦争を仕掛けている平和」という気がするのだ。相手の良い面をまったく認める心の余裕がない、って。本当の平和は、「戦争に対して平和を仕掛ける平和」やと思うのです。もっと簡単に言えば、平和の時代らしくどんなことにも寛容になればいいのに、と。10年ぐらい前、広島市長が平和祈念式典で「核兵器は絶対悪」って言ったことあったけど、本当は、もしウクライナが核兵器を持ち続けていたらロシア攻めて来なかったんじゃないの?って思うのだ。核兵器は悪だ、なら分かるんだけど、でも「必要悪」として一定の、抑止という、機能を確かに持っているんじゃないの?って。問題が大ありだけど、そこさえ否定しちゃったら先に進まないんじゃないの?って。

「二十四の瞳」に戻るけど、この小説はものすごく確信犯的な反戦メッセージを持っているんだけど、すごく強靭な議論をしている。大石先生は戦時中に、生徒に向かって死んじゃ駄目、生きて帰ってきて、って言ってそれで学校で居場所を奪われていくけど、大石先生の息子は戦争で死ぬことは誇らしいと思っている。大石先生は絶望的な気持ちになるんだけど、対立する両者の気持ちをよく描いている。平和の時代しか知らない我々は、戦争なんてただただ悲惨なだけで、どうしたらあんなもんをいいと思えるのか?って感じだけど、この小説の親子の会話を読んでると、「あ、戦争ってこんな感じの心情に支えられて成り立ってるのか」って分かったりする。同じ反対をするにしても、相手の立場に一回立ってする反対のほうが厚みがあると思うのだ。ただただ相手が馬鹿としか思えない、何を考えてるのかまったく理解できない、っていうのは、薄っぺらい思考やと思うのだ。

この小説は昭和3年4月から昭和21年4月までを舞台にしている。最初は平和でのどかで童話のようなお話として始まって、それが、戦争の混乱を経て、ひどい現実を叩きつけられるような話になっていく。まさか子供の童話がこんな話になっていくとは思わなかった。ストーリー展開は見事で、こんな質の高い小説だったなんて知らなかった。子供の本ではなく、大人こそ読んで楽しめる本だと思う。
昭和27年に発表された当初はそれほど話題にならなかったが、昭和29年に映画化されると空前の大ヒットになった。読者の年齢は小学生から80代の老人にまで及んだという。「ビルマの竪琴」も、今では小学生が読みなさい、みたいな存在感だけど、発表された当初は大人が読んで混乱の時代に希望を持つような本だったという。評判の本って「ベストセラーに良書なし」って言うこともあるけど、時代を超えて評価されてる本って、たいていすごくいいよ。そうでもないかな。「野菊の墓」も大人になってから読んだけど、泣けてくるし胸がキュンとなるし。でも、評判よくても分からないものは分からなかったりするけどね。国木田独歩「武蔵野」とか「何や?」って思っただけだった。井伏鱒二「山椒魚」とか梶井基次郎「檸檬」とか、別に面白いとは思わなかった。梶井なら他にいいものはいくらでもあるし、井伏なんか後に私は大ファンになったけど、それでも「山椒魚」だけは理解できない。相性もあるだろうしタイミングとか、年齢とかもあるのかもね。「雪国」なんか、大学生の時に読んで「悪くはないけどそれほどのものなの?」って思った覚えがあったけど、30すぎてから読んだら大ファンになってそれから川端康成すごく読むようになった。

本も人と同じで相性があるんやろね。
青空文庫で短編を中心に色々読んできてるけど、「二十四の瞳」の壷井栄、こんなすごい作家なのにあんまり評価されてないような気がする。女性作家なんやってこないだ知った気がする。二流作家がたまたま大ヒット作1作だけ書いた、っていうんじゃなくて、すごく力がある作家だと思った。具体的な描写の魅力だけじゃなくて、物語が展開して、記念写真撮るという場面があって、そういうのが後々まで伏線になって生きてくる。一つ一つのエピソード自体が魅力的だけどそれが積み上がってストーリーが展開していくのは見事やと思った。まさかここまで広がっていくとは、って。ただの童話のはずが、時代とか社会とかの広がり方が「え!」「え!ここまで広がるの?」ってびっくりする思いで聴いていた。
小説って活字を読むもんだと思ってたけど、本当は読み上げアプリに読ませてそれを何かしながら、あるいは寝る時に、聴くべきものではないか、と最近の私は思っている。基本、本を読むんじゃなくて何か雑用しながら、あるいはこれから寝る、という構えで聴くから、油断している。そういう時にストーリーが意外な広がりを見せ始めると、不意を打たれて、真面目に読んでる時よりも心を揺さぶられることが多いような気がする。この小説も最初は子供の時に読み忘れてたから一度サラッと聴いとこう、という感じで聴き始めた。大石先生が岬の分校に赴任して最初に出席をとる。牧歌的でみるからに子供の本という感じがするので読み流すんだけど、大石先生が受け持つ12人の生徒がみんなそのうちキャラ立ちしてくる。でも12人も覚えられないから、とにかく生徒のうちの誰かが出てきて先生とやりとりして、みたいなあいまいな知識でもって読み進めていく。それでも十分楽しめるんだけど、12人の名前とか家庭の背景を頭に入れたうえでもう一度通して聴いてみよう、みたいな感じで、全部で2、3回読み直したというか聴き直した。机に向かって読む場合、いま一回読んだ小説をまた全部読み直すってことはまずないと思うけど、読み上げアプリにかけて聴く場合、そういうことが簡単にできる。それが、なかなか小説を楽しむのに合ってる気がする。これは「銀の匙」や「オリンポスの果実」の場合も実はそうだった。聞き流してるから、「なんかどこか抜けてるな」感が残るのでそれを補うためにやはり2度、3度と聞き直すのだけれど、こういう読み方もいいと思う。12人のキャラを頭に入れておいて読み進めると、やっぱ味がある。ああこの子がこんなふうになるんか、って。こういう時代だったのか、こんな時代をこの頃の人たちは生きてきたんか、とか。1回目はただ思いがけないストーリーの広がりに迫力を感じただけだったけど、12人のキャラクターを覚えて聴き直すと、ええ歳して泣けてまう。

壷井栄は「二十四の瞳」の他は、「母のない子と子のない母と」というものがあるぐらいしか知らなかったが、わりと作品数の多い人だという。それで青空文庫で読めるもので他の作品もちょっとだけ読んだら、なんかいい感じがした。「風」というのを今読みかけているけど、「あ、こんな都会を舞台にしたものも書くんや」と思った。やっぱすごいストーリーの組み立てがうまくて、けっきょくどうなるんやろ?って思わせるうまさがある。こんなすごい作家なのに、評価とか知名度は不当に低くないか?って思うてしまう。もちろん「二十四の瞳」は日本人やったら名前は知らない人はいないぐらい有名だけど、壷井栄自身は、私はついさっきまで男かな?ぐらいに思うてたというぐらい無知だった。ほんとは、漱石、鴎外、壷井栄、ぐらいに評価されてもいいんじゃないか、とか。
私は文学の鑑賞眼なんて別にないので評価なんか滅茶苦茶かもしれないけど、青空文庫を読み上げアプリで聴き始めてたぶん1年ぐらいになるだろうか。その間の感想としては、昔の作家すげー、と思う。こんなすごい人が今は忘れ去られているのか、みたいなことをしばしば思う。その一方で、島崎藤村って、今まで読んだことなかったので短編などを何度かトライしてみたことがあったんやけど、まったく頭に入ってこない。私が昔誰かから聞いたところでは、作家というのは長編に向いてる人とか短編が得意な人とかいろんなタイプがあるけど、藤村は長編も短編もどちらもよくて、こんな作家は珍しい、って。どこがいいのだ?って今のところ思ってる。谷崎潤一郎も、今のところ、「変な作家だなあ」って思ってる。女性崇拝的な傾向がすごくて、変態の域に踏み込んでるような感じで、これは………………って。「春琴抄」なんか、川端康成が絶賛してたから楽しみにして読んだけど、確かにこれだけはすごくいいと思った、あ、これはある感覚の極致や、谷崎世界に咲いたいちばん美しい花やないか、とは思うけど、今まで読んだ何作かで評価する限り、そんなノーベル賞候補になったというほどのもんか?って思う。壷井栄のほうがすごくない?って私は思うてまう。

壷井栄は瀬戸内海のどこかに生まれた。香川県だったかな。家は別に金持ちでもなんでもなかったけど、10人兄弟の中に生まれ、しかも親が身よりのない子供を2人ほど養子にしたという。そういう子供に愛情たっぷりみたいな親だったらしいけど、この12人の子供の中で育ったので、それを兄弟じゃなくて瀬戸内海の岬の田舎にいる12人の生徒という設定にして物語を書いてみたいとずっと思っていたという。でも時代が激変したので予定が狂ってなかなか書けなかったという。でもその激変を取り込んで長年温めてきた12人の子供の物語を書いたのがこの、珠玉という言葉がよく似合う作品になった。

私は自己紹介にも書いたようにアスペ気味であるので人間関係って、必ずしも嫌いではないけど、苦手意識はある。しかも男やから。なんだったろう、脳みその話だったか別のホルモンか何かの話だったか忘れたけど、男と女では、なんか人間関係に関するスキルが女のほうがもともとすぐれている、みたいなことを聞いたことがある。中野信子がたしか言ってたので脳みその話だったかもしれない。だから、人間関係で、こういう時にどういう態度をとるべきか、というのは、女性の場合、キマってるな、これは男では真似できないな、みたいなことを感じることが多い。加えてアスペ気味なので、こういう場合どんな態度をとるのが正解?って人生を通じて常に心もとない気持ちで生きている。壷井栄は12人兄弟の中で育ち、戦争という最も過酷な時代を生き、この小説の中でも大石先生の教え子も、いろいろひどい境遇に置かれて、そういう人とどう接していいのか、私なんか途方に暮れてしまう気持ちだけど、あー、こういう時にはこんな接し方かぁ、みたいな感心の仕方をした。これは女性作家の強みだと思う。大石先生の周りに引力が働いて、世界を作り上げることができる力。こういうのは普通男には持てないと感じる。女性の書く文学作品の魅力の一つだ。

私は文章を書くことが好きだ。noteを始めてから2、3カ月ぐらい経って、まだ書き方を試行錯誤している。以前やってたブログは、すごく長い文章を時間を何週間もかけて書くみたいな書き方になってしまったので、このnoteみたいに、ろくに推敲もせずに勢いだけで書くという書き方を久しくしてなかったのでこういう書き方のほうがいいなあと思ったりするので、本記事もそういう書き方をしてみたが、どうも散漫な書き方になったような気がするが、明日自分で読み直してどんな印象の文章になったかを確認して悪いところは次回以降の課題とし、引き続き試行錯誤していこう。

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