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花鳥風月コンクリート

私の決して短くない人生を一言で表すなら「不毛」。
どういう積りでこれを言うかというと、崖から突き落とされる気分を味わいたくないからと思いながら。
「たった一度の人生だから」みたいなことを私は思いながら「好きに生きよう」と思って生きてきた。それで私は変わり者だから他人と好みとか志向が合わないので人間関係は煩わしいと思い知り合いが誰も住んでいない町に住もうと思って移り住んだのが大阪。ここには長く住んだが、一人の友達もできなかった。誰かの家の中に入るということも一度もなかった。
もと住んでいた場所からあの女の子が押しかけて来たらどうしよう、なんて考えていた。色々考えてこのタイミングで来る可能性があるとシミュレーションをしていたがそんなことは起こらなかった。そんな考えが妄想だとはっきりすると、夢から覚めたような気分になった。人は(少なくとも私の場合は)いろんな妄想と共に生きてきたが、年取るとともにそんな妄想をウロコのように1枚1枚はぎ落として、年々さっぱりと軽々した気分になっていく。妄想から自由になっていく。
これだけ長く住んだ場所なのに生活感がない。公私いろんな事情から私は自分の周囲の町の昼の様子も真夜中の様子も知っていた。そこで生活をしている人は昼間の風景だけを知っていて真夜中の町がどんなふうかなんて一生知らずに暮らすのだろう。そしてそれが生活感を生む元になっているんだと私は想像する。
人生とは何だろう?たった一度しかない人生で何をすべきなのか?私が考えたのは、たとえば世界の名著、「源氏物語」でも「戦争と平和」でもいい。「ドン・キホーテ」でも「ファウスト」でも「ロミオとジュリエット」でもいい。聖書とかコーランでも法華経でもいい。小さい頃から何度も聞くこういう作品を一度も読まずに死ぬというのは、どうなんだろう、と。小さい頃から毎日通る道に箱が置いてあって、その中に何が入ってるのか知らない。けっきょく知らずに死んだとしたら、その人の人生って何なんだろう?みたいな。毎日いろんなニュースを聞きながら、よく理解できない言葉がたくさん出てくる。世界のどこかの地域で金融危機が起こって、それが日本経済にも影響を及ぼす。私のような経済的に不安定な立場の人間はそういうあおりをすぐに受けるので他人事ではないが、なぜそんな金融危機が起こったのか理解できない。台風と同じでただニュースが言ってるから、どこかで湧いて出たと思うしかない。「相対性理論」なんて小さい頃から何百回聞いたか分からないけれどそれがどんなものかもよく分からない。量子とか核分裂・核融合とかも分からないまま、原発に反対とか賛成とか言わなくてはいけないはめに陥る。私のこだわりポイントが変なせいもあるかもしれないが、せっかく生まれてきたからには、日常生活でこれだけ出てくる言葉の意味をいちおうでも理解できるようにしなくてはいけない。それをせずに他人の会社のために昼も夜も働くというのは人生の使い方として不毛ではないか、と。
それで私は気の合わない友達付き合いをやめてこの町で長く生きてきて、可能な限り好きなように生きてきた。こんなことも知ったしいろんな場所にも行ったし、限界があるとしたらそれは外から来たんじゃなくて自分の能力の限界だから他人のせいにはできない。そう言えるぐらい自分の好きなように生きてきた。よかったじゃないか、という思いがある。
しかし時々、私はあの町で長年暮らし、ただの一人の知り合いも作らずに何をしてたんだ?という思いがふと頭に浮かびものすごいショックを受けたりする。崖から突き落とされるような、あんまり味わいたくない感触が不意に来る。あの町を去ることになった時、私が町から消えたことに気づいた人は一人もいないだろう。一人で知識を得るために調べ物をして、そのために人づきあいもやめて、人生の過ごし方を根本的に間違えたのではないか?という気持ちが不意に訪れる。そのたびに崖から突き落とされるようなショックを受ける。それなら突き落とされる前に自分で崖の下に降りときます。そしたら誰も私を突き落とすこともないし。そんな気持ちで私は自分の人生は「不毛」だと自ら言うのだ。
自分が可哀そうすぎる。
もう今さら人生どうにもならないからいいや、って思うのだが、でもどこかで自分が可哀そうすぎる、って思っているのだろう。
私はドライな人間で心なんかパサパサだけど、例外的に吸い込まれるようにいつまでも見入ってしまう画像がある。本当はYouTubeの音楽動画を3つ貼りたいのだがどうもそれはできず、また1つでも動画を貼ると冒頭の画像が貼れないようなので動画は貼らずに冒頭の画像に3枚のディスクジャケットを掲げる。(その後、YouTubeが普通に貼れることを学習したので予定通り下に貼った。ブログ同様に文章の中にembedすればいいだけなんですね)
すべて「流線形」というバンド(?)に関係あるジャケットだ。共通点として都会のコンクリートの風景である事と、にも関わらず写っている人間の少なさ。この写真を見て私の心は鉄が磁石に引き寄せられるように心が吸い込まれるような気持ちになる。
これらの画像が撮影された場所を私は知らないが、自然と思い浮かぶ場所がある。

冒頭の画像のいちばん左側の画像、女性がタクシーを止めようとしているようにみえる画像は、大阪駅の北東の中崎町と呼ばれる場所をどうしても思い浮かべてしまう。

真ん中の体育館のようなものが写っている写真は、淀川沿いを思い浮かべてしまう。しかし淀川沿いにこんなでかい建造物もコンクリートの階段もありそうもないが、どこか水際のような気がしてしょうがない。住吉区とか港区のほうの。実際は大阪ではないのだろうが、コンクリート建造物なのに人がこんなにスカスカなのは東京ぽくない、大阪ならありえる、みたいな連想をしてしまう。

最後、右の画像は、なぜか「吹田市」って頭に浮かんでくる。あるいは千里と呼ばれる一帯のどこかにこんな風景が今にもありそうな気がする。
私はドライな人間で、特定のモノにセンチメンタルな気持ちを抱くことはあまりないが、この3つの画像には心がメロメロになる。音楽を聴きながら見ると、ほんま駄目。
私は大阪にいる頃からこの音楽と画像が好きだったが、離れた今はさらに手が届かないところに行ってしまったような気がして切ない。なぜこんな気持ちになるのかを自分で分析的に考えると、大阪は私の人生を不毛にした場所だ。誰のせいにもできない、私が自らしたことで、大阪はその舞台になった。私はそこに甘いノスタルジアを感じている。昔の人なら花鳥風月に感じたであろうものを、コンクリートに感じている。私がここで過ごした不毛さに似合ってる。なぜこんなに切ない気持ちになるかというと、自分の人生が可哀そうすぎるからだと思う。誰からも決して同情されないことは分かっている、だからせめて自分で悲しまないといけない。
仏教とかで「慈悲」とか「大悲」という言葉がある。仏様とかキリスト教の神様とかが人々に向ける愛みたいな意味だと思うが、なぜ「悲しみ」という言葉が入るかというと、そこにどうしょうもない心がある時、最後に救うことができる感情って悲しみだと思う。たとえば別れてしまいそうな男女がいるとする。どちらも悲しまなかったらそのまま別れてしまうだろうけれど、片一方がその別れを悲しんだら、それが最後の接着剤になりうると思う。望みはあまりないにしても、それが最後の絆になりうる。
コンクリートにノスタルジーを感じながら私はそんなことを思う。

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