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フジテレビ・中居正広問題について


【注意】そこそこ長い9771文字です。このnote作成者は記事を読み上げアプリにかけて(寝ながらとか)聴くことを推奨しております【注意おわり】
 1月27日のフジテレビの記者会見があった後はしばらくこれに関連したネット記事を繰り返し読んでいた。
 1月17日の最初の記者会見はボロクソに批判された。
 その10日後の2回目の記者会見は日付をまたいで行われ、賛否両論ありはっきりした評価は今のところ出ていないと思うが、少なくとも1回目の会見とうってかわってオープンな会見になった。10時間24分という長さはフジテレビの本気度、覚悟が伝わってくる。会社の倒産の危機を視野に入れて捨て身で臨んだ会見だったろうと思う。この会見の詳細を報じたNHKの長い記事を読み上げアプリで聴くと1時間以上かかるが、それを繰り返し何度も聴いて飽きなかった。組織人が仕事人生でこんな修羅場に遭うことは普通ないと思うけど、死すら覚悟して臨んだだろうと私は思う。

 組織の人間が普段使う言葉は、仕事の種類や分野が違ってもだいたい同じボキャブラリーを使う。相手を「貴社」と呼び自分たちを「弊社」とへりくだるが、しかし自分たちの善意と価値を強調し、このよき社会をよりよくする存在である、ということを言う。今回のフジテレビの社員や役員たちはそれとは全然違う言葉で自分たちを語った。

フジテレビの社員や関係者はNHKの取材に対し、
「前回の会見を指揮した経営陣は万死に値すると社内で言われている」
「社内は混乱を極めている」
「最近、社内では『転職サイトに登録したか』を聞くのが、あいさつのようになっている」
「若手社員を中心に今の経営陣のもとではもう働けないという声が多数上がっていて、番組制作や報道の現場にも大きな影響が出ている」
「第三者委員会でうみを出し切ってもらうしかない。長年勤めてきたこの会社でこのようなことが起きて本当にふがいない」
「今後、フジテレビの報道局の社員を中心に取材対象と向き合ったとき、『フジテレビは過去にひどい会見をした』と言われ続けてしまうことが本当に悔しい」
などと語ったという。

フジテレビが23日に開いた社員向けの説明会では、社員から経営陣への批判、退陣要求の声が相次いだという。港社長は17日の記者会見について「オープンな会見をやると不規則発言や女性のプライバシーが侵害される恐れがあるのではという懸念があり、クローズドな会見になった。失敗したと思う」と自己批判。
社員からは「問題を知らされていなかったので、スポーツ関連の番組に中居氏をキャスティングしてしまった」
「この問題について報告や連絡、相談は一切なかった。12月中旬に週刊誌の記者から取材を受けて知り、その内容に衝撃を受けた。なぜ1年半も放置されていたのか。あり得ないと思った」(コンプライアンス担当の責任者)
「フジテレビの経営陣が総辞職するくらいのことをしてようやくスポンサーなどに理解してもらえる。時間がたつにつれ会社の資産や収益は目減りしている状況で、経営者の仕事として判断してもらいたい」
「通常の会社では考えられないような非常識な対応を繰り返し、スポンサーや株主の信用を失う結果になった」など、平時だったらありえない言葉ばかり。
27日の10時間を超えた会見では
「前回の会見をああいう形にしてしまったことはメディアの信頼性を揺るがす、やってはいけない形式だったと深く反省しています。最終的な判断は私です」
「テレビ局としての透明性や説明責任を欠くものでした。これまでカメラを向けて疑惑を追及してきた弊社がカメラから逃げたと言われてもしかたのないことでした。」
「第三者の弁護士を中心とした調査委員会ですとあいまいな発言をした。この発言により甘い調査を疑われる事態となり疑問を生じさせた」
「時代の意識というのをすごく感じます」
「昔のやり方、雰囲気を引きずってきてしまっている部分がある」
「人権に関する意識が不足していたと思いますし、結果的に社内でガバナンスが効かなかったということも大変大きな問題」
「人権、コンプライアンスについての対応を誤り…放送業界の信用失墜にもつながりかねない事態を招いてしまった」
「グループガバナンスが効いていたのか、内部統制がちゃんとできていたのか、ホールディングスが出している人権方針がちゃんと徹底されていたのか…(第三者委員会の報告の)結果次第においては何らかの処分を考えなきゃいけないと思っています」「それぞれの役員がそれぞれの責任を取るべきだというふうに思っており、それは常勤の役員全員に波及するものだと思います」
(4月以降のCMについて)「いまの時期というのは4月セールスの確認作業中、4月セールスが最終段階に入っているというのが通年の例でございます」「ただ、いまこのような現状になっておりますので、事実上、交渉が止まっているというふうに考えております」
「現在フジテレビ番組の営業もイベントもさまざまなところで、フジテレビというのは少し控えさせてほしいという動きが、ご承知のように出ております。トリエンナーレに対しても、ことし予定どおり、運営できるとは思えません」

 もし会社が国だとしたら戒厳令が発令されたような感じ。あまりに普段と語彙が違い過ぎて、組織にメスが入れられてはらわたを見せられているような感じだ。2017年に米国で映画プロデューサーのワインスタインが長年の性暴力・性的虐待とその隠蔽工作が発覚して逮捕され、それをきっかけに働く女性の安全性・尊厳確保を求める「#MeToo運動」が世界的な運動に発展。日本でも2022年に陸上自衛隊で女性隊員が性被害を受けた問題が大きく報じられるなどした。翌2023年にはワインスタイン事件とよく似たジャニー喜多川の性的虐待疑惑が英BBCで報道された。これらの問題が起きる前、10年前だったら今回の中居正広とフジテレビの問題も、世に出る前にうまくもみ消されていた可能性が高いと思う。今は第4の権力とも言われる大手マスメディアの一角が社会から抹殺されそうになっている。この問題に無関心でいられる人はそう多くないと思うのだ。我々はたいてい男か女であり、男は男の立場から、女は女の立場から、この問題はいろいろ考えさせられるだろう。また我々はたいてい自分か自分の家族が働いていて、組織社会と言われる社会の中で、自分がどんな組織に属していてもいなくても、仕事をしてたら何らかの組織に関わるだろう。自分の組織にこんな問題があったらどうなるか?よくないことでも長年の慣習になってることは、指摘しにくいだろうし。それに馴染めない人はたぶん中堅社員になる前に辞めてるだろうし。自分がこの組織の社員だったら、あるいは役員だったら、どう振る舞うだろう、って考えずにはいられないだろう。我々は同時にモノやサービスの生産者であり、消費者でもあるだろうから、組織というものを内側から見たり外側から見たりするので、ある組織が存亡の危機に陥っている時、幹部たちがどう振る舞っているか、どこまで自己批判に追い込まれ、その時どんな態度、様子で喋ってるか。自分とこも何か問題があったら社長以下こんなふうに喋るのかなとか、今回の事件のどこかにたいてい自分と重なり合う場所があるものではないかと私は思う。また、10年前なら何でもなく包み隠しおおせただろうものが無視できない問題になっているので時代の大きな変化を示す事件でもある。大手メディアの凋落という意味でも。去年の兵庫県知事選挙でもマスメディアは役割を果たしていなかったとしてオールドメディアなんて呼ばれた。大手マスコミである各テレビ局は、限られた資源である電波の周波数を独占的に使う権限を国から与えられている。しかし国民が情報を得る手段としてネットを利用することが多くなり、オールドメディアの重要度がなくなれば、彼らが今使っている周波数をモバイル通信などに転用して、スマホやIoTデバイスを高速化し、通信障害を減らすこともできる。このまま既存テレビ局の重要性が減り、モバイル通信などの必要性が増していけば、時間の問題で周波数を既存テレビ局が明け渡す日が来ることが予想される。しかし既得権益の抵抗力はいつでも半端ない。我々の多くが小さい頃からテレビ番組を見て育ったりして親しみや共感が大きくて、そういう心情がテレビ局の存在を支えてもいるだろう。しかるに、今回のフジテレビの自己批判のすごさ、信用の失墜をみると、仮に国が「フジテレビの放送免許を取り上げます」って言ってもまともな抵抗が、少なくとも今現在、できないのではないか。今回のフジテレビ問題は、既存のテレビ局の周波数割り当てを見直す大きなきっかけになるのではないか。こういうことは法改正しなければ無理だと思うが、たとえばIT企業がフジテレビを買収した上で、フジテレビに割り当てられて周波数をモバイル通信用に使って、従来の番組は完全オンライン化したいと国に働きかけるみたいな。


 プラトンの「饗宴」という本の中には、男と女の関係が神話的にこう語られているそうだ。昔は男と女は一体で、球形だったが、ある時、神様が二つに割ってしまった。それで男と女はもとの一体だった頃に戻りたくてお互いを求め合うのだと。しかしこの神話には説得力がないと私は思う。男と女は、お互いが求めあうものが違うが、それにも関わらずお互いが求めあう。だから絶えず問題が生み出される。もし神様というものがいるとすれば、彼は劇作家か何かかもしれない。悲劇やドラマを絶えず生み出す構造をこの世に作ったのだから。うまくいってる時にはそれは好ましいが、一旦ボタンのかけ違いが生れれば、再び二人の心が出会うのは、砂浜で落とした安全ピンを捜すように、あるいは暗闇でもつれた紐をほどくように、難しい。

 性行為というのは愛情表現にもなれば暴力表現にもなる。人間の行為の中で他にそんな極端な両義的な行為があるのか?つまり、花をあげるのはこれは愛情表現であって暴力行為ではないし、人を包丁で刺すというのは暴力行為であって愛情表現ではない。他にそんな両極の意味を同時に持つ行為はあまりないと思うのでそれ自体、非常に難しいということであると思う。神様が「ここでトラブルを起す」って設定したみたいな。

 中居正広と当該女性との間で起こったことについて、当初、女性は性暴力を受けたと訴えたのに対し、中居は異なる認識をフジテレビの担当者に言ったという。フジテレビの遠藤副会長はそれについて「意思の一致か不一致かということだ」などと説明したが、この発言はあとで遠藤自身が取り消した。つまり中居と女性との間にも認識の違いがあり、彼らを直接ヒアリングして世間に説明する立場にあるフジテレビの人間にも混乱があるので、それを聞いてる我々に事態を正確に分かるわけがない。女性のプライバシーを守るために限定的な情報から我々は全体像を思い描く。だからその全体像はステレオタイプにならざるを得ない。もし仮に今後新たな情報が一つ出てきただけでその全体像はひっくり返るかもしれないようなものである。

フジテレビは当初、当該の女性のプライバシー保護を最優先と言っていたが、その女性はマスメディアレベルではまだ直接に特定されてはいないが、事実上誰でも知ることができる状態になってしまっている。だからフジテレビは女性のプライバシー保護に失敗していて、しかもそれを責める論調は特にないように思われる。つまり、大事なのは被害者であるはずの当該女性のプライバシーやケアではなく、社会的に一般化された女性の権利、尊厳という「抽象的な概念」である。あるいはそれをもとにフジテレビの体質を非難することである。当該の一人の女性のこれからのことを本気で心配していない。

 今回の中居正広と女性について扱われる男と女の問題は具体性に乏しいため一般論的に世間の注目を集めている。これに正面から文句を言える男はなかなかいない。しかし男の性衝動を社会秩序の中にどう馴染ませるかという問題は古今東西いつでもある。人類の歴史で最初の職業が売春だと言われ、世界の歴史の中で男の性欲を社会的にどう秩序の中に収めておくかということは常に問題であり続けてきたし、それはこれからだって変わらないだろう。しかるに今、おそらく10年前、20年前だったら許容されていた問題が許されなくなった。抑圧された性衝動は無意識の領域に閉じ込められ強力なコンプレックスを形成する。

フロイトが、人間の根源的な力は性衝動(リビドー)だと考えたのは、100年前の欧州では性の問題は今よりもはるかにタブーで表に出せないものだったため、無意識に追いやられ、強力なコンプレックスを形成していたためだと思う。もしも性欲が社会的に全然タブーでなければ、エゴの中に取り込めばいいので無意識に抑圧されコンプレックスを形成することもなく、性の問題は少なくなるだろう。(それはまた別のさまざまな問題を生み出さないとは限らないが。)しかるに今、2017年のワインスタイン問題と#MeeToo運動によって、男の性欲が抑圧される度合いが強まっている。つまり100年前のフロイトの時代に近づく。性欲の社会的位置づけという意味で。

プロテスタントの国を歩いていると、日本では見られないような紳士的な人が多い。なんか道を歩いているだけで「あ、この人は立派で誠実で清く正しく生きてる人だ」と思われるような人が。服装はトレーナーとジーンズで平凡な身なりだけど、目つき顔つきにそれが出ていて、こういう人がいるから世の中の秩序が保たれているんだなあ、って感心するような。日本でそんな人見たことない。しかし犯罪率とか治安の良さなら日本のほうがはるかによかったりする。そんな立派な人たちがわりとたくさんいるのに、でも「あそこは夜行ったら駄目だよ怖いよ」っていうところは、昼間行ってもゾッとするような荒んだ雰囲気を出している。大阪は東京と比べて夜ちょっと怖い感じのところはあるけど、でも欧米のヤバいところと比べたら基本なんてことないと思う。この違いは何か?
フロイトは心の中、意識と無意識を、町の立派な表通りと、売春と犯罪がはびこる裏通りにたとえて説明しているという。プロテスタントの国の立派で清く正しい人は本当に人間的にも尊敬できるんだけど、基本無理してると思う。我々日本人だって、勉強を学校で10年以上して苦労してるけど、それと同じで、基本無理している。だからその社会の人がすべてそういうふうになれるわけではない。フロイトは心の中と町の表通りと裏通りをアナロジーで見てるけど、それは本質だと思う。つまり、その社会の典型的な人の心の中をみると、無理してペルソナ作って、それはわりと立派だけど、でも隠してる駄目なところもある。本当は性衝動があるし、悪いところもある。隠れて売春宿に通ったり、誰も見てなかったら人の物を盗んだりするかもしれない。それがその社会の表通りと裏通りにバッチリ反映されているという考え方。

 ちなみに日本を訪れる外国人がしばしば指摘するのは、都市計画が無茶苦茶だと。コンビニの隣に神社とか、お寺の近くに歓楽街とか。これは日本人の心の中が、欧米みたいに、はっきりとイエスとノー、善と悪、陰と陽が分かれてないのが表れてると思う。ちなみに町の性質のコントラストは、大阪のが東京よりもクッキリしてると思う。この町ガラが悪いな、この町は上品な人ばっか住んでそうやな、とか。社会も、東京よりも大阪のほうがちょっと西洋に近いと思う。善悪とかクッキリしてるし、あの人たちは自分たちと毛並みが違うと思ったらまったく関係もたない、みたいなところがあって、日本は無階級社会と言われているけど、ちょっと階級社会っぽいところが東京よりもある。

 性衝動だけではないが、人間の内面にあるものは、表に出ないように抑え込んでいれば消えてなくなるものばかりではない。

 イエスは…人類が神とのつながりを失って、単なる意識とその「合理性」へと迷い込むことを防ぐ。もしそれが防がれなかったなら、それは意識と無意識の分裂を・つまり不自然なあるいはむしろ病理的な状態を・いわゆる「霊魂の喪失」を・意味していたことであろう。人間はそれに太古の昔からつねに脅かされてきたのである。人間はつねに、そしてますます、彼の心の中の非合理的な事柄や必要物を見逃し、意志と理性によってすべてを支配できると思いこみ、そのために社会主義や共産主義のような大規模な社会政治的な企てについて明瞭に見抜かねばならないこと・すなわち前者においては国家が、後者においては人間が疎害されるということ・を無視できると思い込む危険に陥るのである。
…キリストを懐胎させた精霊…は肉体的および精神的な生殖の霊であり、今後は被造物である人間の中に宿ると言われている。…そのことは神が被造物である人間の中に懐胎されると言っているのも同然である。それは人間の地位の激しい変化を意味している、なぜなら人間はそれによってある意味では神の息子の地位にまで、神人の身分にまで高められるからである。…この人間はしかしこの世の暗闇と関係を持っているので…もし神がその明るい面をのみ受肉し、善そのものであると信じこみ、少なくともそう見なされることを望むならば、何が起こることになるか、はっきりと知ることになろう。大規模なエナンティオドロミーに見舞われざるをえないのである。
(ユング「ヨブへの答え」12章)

キリスト教の牧師の息子であるユングはここではキリスト教的な言葉で人間について語っている。彼の考えは教会と対立的な関係にあったが。柔らかい言葉で言うと、人間はそんなキッパリ割り切れるような単純なものではない。良いことだけしたいと思ってもその奥には悪い衝動がある。意地悪やし、怒りや憎しみも、性衝動もあるし。良い人間でありたいというのは普通に誰でも思うことだ。「自分は悪い奴や」って思いながら暮らすのは誰にとっても重荷やし。でも、神様とか宗教みたいなものがなければ人間は意志と理性によってすべてが片付くと思ってしまい、社会主義とか共産主義みたいな社会ができてしまう。ユングによれば、神様って昔からどの社会にもあったが、古代の神様は野獣みたいに怖くて野蛮で「悪いことしたらひどい目にあわせてやる」って力で民衆を抑えつけるようなところがあった。それで、人間の意識が進化していくにつれて洗練されてくると、そんな野蛮な神様は人間からの支持を失ってすたれていった。啓典宗教の神はキリスト以前はヤーウェと呼ばれていたが、旧約聖書「ヨブ記」のヨブが、ヤーウェに向かって、あなたは人に向かって約束を守らないとひどい目にあわせるけど、あなたも約束守らなくちゃ駄目でしょ、みたいに命がけで神様に異論を言って、それを機会に啓典宗教の神は近代にも通じる神様にアップデートされたというのが「ヨブへの答え」の論旨と言えると思うが、人間のほうも、神様と人間の間にできたキリストによって、虫けらみたいに神とかに一方的にいたぶられる存在から、神様が人間の中に入り込んで、アップデートされたと。だからキリスト誕生以降、人間は半分神様みたいに立派になった、あるいはそうでなければならないということになったけど、もう半分はケダモノみたいな本性を持ったままで、神さまとのつながりを絶たれれば、そのケダモノの部分を人間は忘れてしまう。でも忘れてそれで済むものではなくて、意識のみえるところからそういうわるいケダモノ性を忘れ去っても、それは抑圧されて無意識に入り込み、コンプレックスになり、無意識の世界から自我を脅かす存在になる。特にそれを忘れて意識が一面的になりすぎると、無意識の中の逆の傾向が強まることで意識のあり方が逆転する現象が起きるとユングは主張し、それをエナンティオドロミーと呼んだ。その例として「ヨハネの黙示録」をユングは挙げる。「ヨハネの福音書」と「ヨハネの黙示録」のヨハネは同一人物だとユングは考える。ヨハネは清く正しい人で、悪いところは何もない立派な人だったという。「彼は…自らが罪のない状態にあるばかりか、完全な愛をも知っているかのように語っている。ヨハネはあまりに自信がありすぎ、そのために分裂の危険に曝されている。すなわちそうした状態においては無意識の中に反対の極が生まれ、それが啓示の形をとって意識の中に侵入してくることがある。」それが「黙示録」だというのだ。

この男の性衝動の問題、最近の日本だと中居正広、松本人志の問題、それとジャニー喜多川の問題が世間で大きく騒がれ、フジテレビというマスメディアを存亡の瀬戸際まで追い詰めるような問題になっているが、フランスでは2024年後半にものすごいレイプ事件の裁判が行われフランスに社会的・文化的な激震が走ったという。
 ある小さな町で男が女性のスカートの中を盗撮されたとして警察に拘束された。取り調べの中でその男のPCを調べると、彼が自分の妻を他の男たちに性的暴行させている映像が多数残されていた。男はわが妻が別の男たちに犯されるのを見て興奮する性的嗜好があったという。男は妻に睡眠薬を飲ませていて、長年奇妙な物忘れなど健康問題に悩まされていたというが、こんなことが起きているとは知らなかったという。男はわが妻をレイプする男をネットで募集し、それに応じた男は72人、期間は10年ぐらいにわたったという。2020年にこの男が警察に捕まってPCの中を調べられて初めてそれが発覚し、妻は警察からそれを知らされた時、男との間に3人の子供がいて50年も連れ添っていたが、「人生がすべて崩れたように感じ打ちのめされた」という。犯人の募集に応じた男たちは年齢も職業もさまざまで、「社会のどこにでもいる人」(Monsieur-Tout-Le-Monde)だったとフランスのメディアは表現しているという。

欧州で過去にこれと少し似た事件があったように思う。知能的に問題がある女性が、それほど大きくない町で、移動の自由を奪われ、男たちに長年にわたって性暴行の対象になり続けていたと。日本だってえぐい性犯罪は数えたらたくさんあるだろうが、こういう感じの犯罪は、あんまり日本で起きる感じはしないと私は感じ、それは抑圧されたリビドーがコンプレックスを形成して、それが機会があったら自己実現を試み、その結果こういう事件を起こすと思う。上に挙げたフランスの集団レイプ事件(「ドミニク・ペリコ」で検索すれば出てくる)は善良な社会の無意識に押し込められたものが噴き出したエナンティオドロミーだと私は思うのだ。

現在、フジテレビ、中居正広の問題が大きく報じられ、そこからすべての日本人が今という時代がどういう時代なのかという教訓を汲み取っていると思う。性衝動の問題は表通りから一掃されなくてはいけない、と。しかしリビドーは存在するので、その結果は、日本にも、欧米風のヤバい場所ができるし、去年のフランスのような、社会を激震するような性犯罪事件が起きるようになるのではないか。私がそう言うからといってそれを非難してるのではない。この世に、男と女がいて、その関係で、今まで女性のほうがより我慢していたのなら、揺れ戻しがあるのは当然で。今までの社会が、男と女の関係がわりとガッチリ固まっていて、そのバランスが崩れていることは確かだと思うけれど、今さら古いモデルに戻せっていったって、それは建設的ではないし現実的でもないと思う。ひょっとしたらそういうバランスの崩れと少子化が関係するかもしれない。だからといって、どこかの校長先生が言ったように、女性にとっていちばん大事なことは子どもを産むことだって呼びかけても、それは小泉進次郎みたいな言い方をすれば、セクシーな解決策じゃない。社会のバランスが崩れたなら、新しいバランスに出会うところまで進んでいくしかないんじゃないかなと私は思う。

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