今年は本を一冊も買わなかった
今年は、たぶん本を1冊も買わなかったし、紙としての本は1冊も読まなかった。まだ1カ月残ってるけど、これから買いそうもないし読みそうもない。評判になった「百年の孤独」も見向きもしなかった。
でもネット上で読んだ活字の量はむしろ増えていて、紙の本に直したら月に1000ページとか2000ページぐらいの量になるように思う。
こんな計算の仕方をした。私のPCに入っているワープロソフトは1行が40文字で、家にいる間に読みたいニュースやnoteの記事を片っ端からこのワープロソフトにコピペして、それをスマホに送る。スマホでそれをコピペして読み上げアプリに貼り付けるのだが、2000行だと、たぶん文字数が多すぎるせいだと思うが、コピーしてくれないので、1000行を超えたらそれを一かたまりのメールとしてスマホに送ることにしている。そういうかたまりを1日に平均1つ、多い時には3つか4つぐらい聴くこともあると思う。1行が40字なので10行で原稿用紙1枚。1000行だと原稿用紙100枚、たぶん本だと50ページぐらいにあたると思う。それを1かたまりのコンテンツとして1日に1かたまりから3、4かたまり聴くので本に換算すると1日50~200ページずつ読んでいるという感じになると思う。つまり多い時には薄めの本を1冊ずつ毎日読むみたいなペースだ。最近はこのように耳で活字を摂り入れる生活になっているので、極端に難しい本はここ1、2年は読んでないけど、単純に量からいったら増えた。私の場合「聴いている」ので正確には「読書」ではないんだけど。
読書離れみたいなことが言われるけど、SNSなどの多くは文字を通じてコミュニケーションがとられている。人々が電車の中で本とか新聞とかを広げてる景色は世の中からほぼ消えたけど、活字から情報を摂り入れる量としてはむしろ劇的に増えているのではないか。休憩時間にSNSで誰かからメッセージが届いてないかってチェックして、読んで、返信したりするのは、寸暇を惜しんで文字コンテンツを摂り入れているとも言える。「活字離れ」と言われるのは、マスメディアから発信されるコンテンツを読まなくなったとは言え、それは、こないだの兵庫県知事選挙で指摘されているような、マスメディアの情報ではなくYouTubeなど別のコンテンツの情報を人々が信用するようになってきているというのと同じような現象で、それはそれで色んな問題があり、少なくとも社会が激変せずにいないと思うが、とにかく世の中の人が文字コンテンツを摂り入れる量自体は増えていると思う。
柄谷行人「定本 日本近代文学の起源」という本に以下のような指摘がある。
…言文一致が、国家やさまざまな国家的イデオローグによってではなく、もっぱら小説家によってなされたということが重要である。ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』のなかで、ネーションの形成において、言語の俗語化が不可欠であること、新聞と小説がそれを果たすことを一般的に指摘している。それは、日本にもあてはまる。明治維新から20年後に、憲法が発布され議会がはじまるなど政治的・経済的な制度において「近代化」が進んでいたにもかかわらず、そこにはネーションを形成する何かが欠けていた。それを果たしたのが小説家だといっても過言ではない。
近代の国はネーション・ステート(ふつう国民国家と訳される)だという。明治維新では制度としての国家(ステート)のかたちは整えたが、そこに住む人たちがまとまった一つの国民(ネーション)だと言える心情的な結びつきは明治政府には作れなかった。それを小説家たちが作ったという。だから漱石、鴎外みたいな小説家が大事だったのかもしれない。今では別に小説家というだけで漱石鴎外みたいな感じの存在感は与えられないのは、もうすでに日本国民という一体性が出来上がったからもうええわ、という感じではなかろうか。
それが、マスメディアは信用できない、ネット上の情報はもちろん誰しもフェイクにあふれていて危なっかしいが、そっちのほうがむしろ信用できる場合もある、ということが兵庫県知事選挙で広く認識されるようになった。これは、ネーションとしての一体性を小説とか新聞が作ってきたけど、それとは逆のベクトルが働きだしたということで、その行き着く先は、心情的な国家の分断だ。アメリカではそれが数年前のBLM運動などで現われた。政治では、今までの自民党しか政権を担える政党がいないということが行き詰まっているし、社会ではそういう問題がある。その両方の問題を、情報環境の激変の中で我々は模索しなくてはいけない。世界では、もともとそんな一体性などなかったという地域で無茶苦茶になっているけれど、日本はそんなにひどくはないけれど、やはり分断へ向かうベクトルがある中で、それをどういうふうに乗り越えていくかという問題がある。中東とかロシアとウクライナみたいな切羽詰まった問題ではないけど、中国と台湾や香港の間にある問題もこれと関係ある。同じ中国人だというナショナリズムで結びつきたい中国に対して、むしろ近代的な価値観で社会秩序を作っていきたい台湾、香港の意識は、ネーションとステートのうちステートの論理を前面に出しているということで、そうすると台湾人は、同じ民族である中国よりも日本とかアメリカとの結びつきを強調しているが、では「ネーション・ステート」のうちステートはそれでいいとして、ネーションのほうはどうなっていきますか、ということが問題で、そういうところで、日本の、ありうべきネーションの一体性が揺らいでいくかもしれないという問題と関係をもってくると思う。日本社会が、自分たちはこのようなネーションの価値観で社会が立派に動いてますよ、というのが示せれば、それは他の国にも大いに参考になるだろう。つまり日本は非西洋の国の中でいちばん最初に西洋的な近代というものをどうやって受け入れるかという先例を示して、それがアジアはじめ他の非欧米の国々の参考に大いになったと思うけれど、この混迷の時代にまた日本がそれを示せるかどうかという話にもなってくる。でも果たして日本にそれだけの価値観を発信する力がまだあるのかよく分からないけどね。地域社会も崩壊しているし、高齢化の問題、過疎化とか、貧富の格差とか、そこにきてマスメディアの情報じゃなくて自分たちが好きなコンテンツを選んで聞いてる人たち同士は、対立せずに仲良くなっていくのかどうかとか、どうなっていくのだろう?考えるとものすごく心配なんだけど、ただ、「こういう問題がある」という問題意識によって人々が結びつく、ということはあると思う。日本は「課題先進国」だという。物も言いようで、問題がたくさんあるから、もしそれを解決する先端事例を示せたら自分らすごいぞ、ということだけど、日本人は国際的にみて将来に悲観的な傾向があると昔から言われているけど、この発想は逆で、悲観的な日本人がどうしてこんなに楽観的に考えられるの?という感じだ。