音と哲学的たわごと
今日もYouTubeでクラシック音楽を聴きながら明日の準備をしていた。私はどんな音が好きかというと、純粋に音だけの話をすれば、ジャズのような気がする。私はジャズは音が好きなだけで知識はほとんどないが、私の中ではジャズは、いわゆる普通のスケール(音階)を使ったものとブルーノートスケール(ブルースの音階)を使ったものと2種類あると思って、前者は特別な興味はなくて、後者の音が好きで、それはいちばん最初の頃のロバート・ジョンソンみたいな泥くさいブルーズもすごくいいけど、ジャズミュージシャンがバンドを組んで都会的な音になったもの、スティング、シャーデー、ジャミロクワイ、プリンス、年代はぐしゃぐしゃだがマイルスデイヴィスの一部みたいな音が私にとってこの世で最もおしゃれな音ということになっている。
しかし家で夜、明日の準備とか部屋の片付けなどをしてる時にBGMをかける時にはほぼクラシック音楽を流す。それはジャズは曲が5分とか10分とか、アドリブを入れて長くなっても15分ぐらいと短いので。YouTubeでコンサートの様子をやっているのなら2時間ぐらいやってたりするが、ブツ切れなので今どのぐらい時間が過ぎたのか分からなくなる。クラシック音楽の曲なら、交響曲とかは45分とか、長ければ1時間以上で1曲なので、「あ、もう4楽章や。急がな」というふうに鳴ってる音楽で作業の進捗状況が順調なのかどうか分かる。だから私は音を聴いてるというより構成を聴いてるとも言える。中学ぐらいから聴いてる曲でも、聴いてると、その時はあんまり気づきはないが、半日後、まる1日後ぐらいに頭の中でその曲が再び鳴り出したりして、その時に「あ、4楽章のこのメロディは1楽章で出てきたあのメロディを使うてるんや」って気づく。何十年も気づかなかったことを今初めて気づくということは、今日もちょっとだけ進歩したということだと思うので、まだボケてないで、といい気になれる。交響曲ってソナタ形式で、第1主題と第2主題が出てきて、それが展開して、みたいなことができるので、2つの主題はある程度よく似てなきゃいけないので、ソナタ形式って広い意味で変奏曲だということを言う人もいるみたいで、それはその楽章だけにとどまらず、すべての楽章がなんか同じメロディを使っててつながってる。そうでなきゃ45分の曲が一つのまとまった曲という感じを与えないはずで、ただよほど意識したり楽譜を見たりしなきゃ気づけないけど、でもサブリミナル効果みたいに無意識から攻められているので「これは一つの曲や」という一体性というものを感じている。それを「あ、ここにも同じメロディあったわ」みたいに一つ一つ拾い上げていく作業が楽しかったりする。何十年も前から自分に聴きなじみがある長い曲をなぜ一つのまとまった曲だと感じるのかという理由を一つひとつ意識化していくというのは、自分の無意識の分析をしているのと同じことだと思うので。それは名曲のためじゃない、自分可愛さのためにやる作業である。それをすることによって自分の無意識という普段意識できないものが確かにあって、それが自分のこころを支えているということを実感できる。けっきょくは自分可愛さである。
ところでYouTubeでクラシック音楽を聴いてると、45分とか1時間の長い間に、コマーシャルが入ったりする。曲のいいところでブチ切られて不機嫌になる。「あなたはこんなことで困ったことはありませんか?」とか喋り出して雰囲気を壊されて怒りがわいて、広告主に悪いイメージをほぼ必ず持つ。だからスポンサーも広告出して視聴者に嫌われるって広告出す意味ないのにと毎度毎度思う。クラシック音楽のコンテンツの時だけは、せめて楽章の間にはさむとか、広告の出し方考えたらいいのにと思う。
しかしさっき出てきたCMは、何のCMだったろう、なんか新しい製品のような気がするけど、机の上に無機質の細長いものがいくつか並んでいた。そのBGMが、あっさりした音でさりげないけど、なんか普段聞かない音階を使っていたような気がした。押しつけがましいところがまったくないCMで、でもBGMもさりげなくこだわっているような気がした。私は貧乏人なので普段そもそも外食はあまりしないし、したとしてもエコノミーなものを食べるのが普通だが、なんかの拍子にわりと高級な会席料理っぽいものを食べたりすることも、たまーに、ある。私がそういうものを最後に食べた遠い記憶を辿ると、その時「これはほんとにいい料理だな」と思ったのは、ほんの2、3切れ小皿についてた漬物を口にした時だった。それは料理全体の脇役だったけど、そのいちばん脇役にこれだけこだわりを込めているのか、というところに高級さの証しがあるような気がすると貧乏人の想像力を振り絞って考えていた。その短いCMのBGMも、そんな脇役の漬物的な良さを感じた。
しかし音楽の新鮮さ、旬であるという感じは、時間の経過とともに失われる。きれいな音楽は何百年後もきれいな音楽として残るけど、それが当時どんなふうに新鮮だったかというのは必ず失われると私は思っている。たとえば何十年も前のコンテンツで、映画のBGMは、凝りに凝っているので何十年たっても聴くに堪える場合が多いが、古いCMとか低予算のTVドラマのBGMなどは、単に新しさを感じさせるためだけの音だったりすると、まさにそこが時の経過とともに消え失せるので、驚くほど粗末なBGMだと感じるものが多い。
私は大学時代はミュージシャンになりたいと思っていた。演奏は下手だった。下手というより、やっと弾ける、みたいな感じだった。私の本領は作曲にあると思っていた。半年前に覚えた作曲の手腕で、って。自分がすごく馬鹿だということは今さら取り上げない。とにかく作曲に励んで、ミキサーで色んな音が出るキーボードの音を重ねて曲を作っていくのだが、こんなスケールで、こんなコード進行で、とか試行錯誤していると、作曲なんかこないだ覚えたばかりで知識不足なので、このコード進行は、そもそもこのコードって何?って理論的に分からなかったりする。それでも構わず音符を書いて、30秒とか1分ぐらいの曲ができる。音楽に理論があるということは、こうしなきゃいけないという規則があるということだが、でも法律と違って、守らなきゃ逮捕されるということはなくて、規則違反でもいいといえばいいのだ。それで、どこか変な音楽やな、と思って、それは俺の個性だ、と思うわけだ。そういう変な1分ぐらいの音楽を作る。自分で音楽をやる人間なら、たとえ素人でも、自分の音楽に酔いしれるということがデフォであることは誰でも知っている。それは周りが見えなくなってるということだが、自分は不当に世間から認められないと思うことになる。ただそれは原初的な感覚のレベルでそうなのであって、もう片方に理性があり、「これは単なる自己満である」と、これもよほど心のバランスを逸した人でなければ理解するものだ。自分の音楽をやってる時は「俺は天才かも」って思っても、ドアを開けて外に出たら「はい自己満の世界に浸ってました」というところまで戻る。これも大抵の素人ミュージシャンは知っている。
音楽だけじゃないと思うけど、創作って、あるいは表現というべきか、そういう、自分に戻ってくる効果があると思う。世の中がすすんでいくと、いろんな技術を担う人がすごく必要になる。IT技術でも、精密機械でも、マネジメントでも。そういうのは、自分の外のことを学ぶことなので、そういうのを我を忘れて研究に没頭すると、自分の名前すら忘れちゃうということがあるらしい。そういうことになりがちな世の中だから、創作、表現って、自分に戻るという作業なので現代人には大事やと思う。
20代は、そんな、この世のものとも思えない音を作るということをよくしていて、ある時は、「こんな音は聞いたことがない」というものを作る。そしてそれを自分なりに極めた、と思ったりもした。社会的にはただのごみだから、なんか社会に対して自分の存在理由を示さなければ、と思うんだけど、そういうものを作曲してある時は「自分はこの1曲を作ったのだからこれで死んでもいいのではないか?」と思った。それは理論を逸脱したところで書かれたから、確かにどこにもない音楽だったろう。そんなふうに毎日、時間が許せば作曲をしているので、前に作った曲はそのつど頭からとんでしまっている。それで前に作った曲を久しぶりに聴いて見るのも楽しみだ。自分の作ったものを、まるで他人が聴くように聞けると思うと。それで、何週間か前に「これを作ったから死んでもいい」と思った曲を聴いたら、ゴミみたいだった。安物のおもちゃが壊れてバネが飛び出てたりして、どう見ても使い物にならないだろ、という感じだった。それはちょうど、何十年か前のチャチなCMのBGMを聴いているような感じだった。そこに意味のある個性を見出すのは、本人である私にさえ難しかった。
なんか今、ここまで書いて、当初書きたいことを見失ってしまった。でもこういう経験は悲しい経験とか虚しいというのではなくて、なんかそこに積極的な意味あいを思ってこれを書きだしたのだが、それを忘れてしまった。あとで思い出したら書き足そう。メタ認知ということと関係あったかもしれないがまあいいや。明日の朝は早く起きなきゃだし。