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私なんて何の役に立つのか

【注意】長文18275文字。スカスカの文章なので、読み上げアプリにかけて雑用でもしながら聴いて下さい。1時間ぐらいかかります。【注意終わり】

8月にnoteを始めて4ヵ月近くたった。以前やっていたブログは1つの記事が長すぎて時には8万字だったろうか、記憶が曖昧だがとにかく長くなっていった。そのブログだって最初は5分ぐらいで記事を書いて載せてたのにだんだんだんだんと長くなっていって、1カ月に1回とか数カ月に1回更新みたいになっていった。それで最初からやり直すしかないと思ってnoteを始めた。当初思っていたのは、X(twitter)を毎日更新し、140字より長くなった時にはnoteに、みたいな書き方をしようと思った。1カ月に1回しか記事を更新しないというのは、他人に見せる用の文章を1ヵ月に1度しか書かないということを意味し、それは「ほとんど文章を書かない人」みたいになって、人生の調子が狂ってくるようだった。

私が人生でいちばん好きなことは、文章を書くことだ。実生活で傷ついたことがあっても、日記を何時間も何時間も書いていると、たとえその場限りで終わってしまうとしても、「明鏡止水」みたいな気持ちになったりする。

今考えてみると、私は生きてきた長い人生の中で、悩み事を他人に相談したということが一度もないと思う。したいと思ったこともたぶん一度もない。他人に弱みを見せたことはある。大学時代は好きな女の子の前で何度も泣いたことがある。彼女が私に言ったのは「私はあなたに悩みを相談したいとは思わないが、あなたが悩みがあるなら相談に乗る」と。彼女の不在が寂しくてたまらなくて、もっと仲良くなりたいと思ったが、でも悩みを相談したいとはまったく思わなかった。

私は他人との付き合いということに関してはかなりの特異体質かもしれない。小中学生の頃、クラスメイトがいじめについて、「いちばん効果があるいじめはシカトだ。殴る蹴るが効かない相手でもずっとみんなでシカトしてたらしまいに泣き出す」みたいなことを言うのを何度か聞いたが私はいまいちピンとこなかった。そういうもんかな?と思っただけだった。

高校3年の時、なんか普段話をしている友だちとの関係が、全然心がこもったものだと思えなかった。それである日、今日は自分から誰にも声をかけない日にしよう、と思い実行したことがあった。すると朝来た時も、1時間目が終わった休憩の時も、誰も口をきいてこない。これは…と思ってずっと様子を見ることにした。2時間目が終わった休憩の時も、3時間目が終わった時も、やはり口をきいてこない。昼休みの弁当の時もやはり同様だった。すげえ、「お前今日なんで口きかないの?」ぐらい言ってきてもよさそうなものなのに、と思った。けっきょくその日は誰とも口をきかずに下校した覚えがある。その時、小中学校で友だちが言っていた「いちばん効果のあるいじめは口をきかないことだ」という言葉が思い出された。俺をステルスいじめしてるつもりなのか?と思った覚えはあるが、「まあ別にいいけど」と思っただけであんまり気にしなかった。翌日からどうなったのかは覚えていないが、とにかく以前と変わらない日々に戻っただけだったはずだ。その高校が進学校だったせいかもしれず、なんか男女がほとんど口をきかないとか、私が通った小中学校や大学とは違った空気が漂う学校だった。私が日記を書き始めたのがこの高校時代だった。

大学に入った頃にはまだ自分の特殊な孤独体質には気づかなかった。親元を離れて新しい環境で、大学も新入生歓迎のいろんなイベントを用意してくれていて、そういうところで毎日新しい友達を作ることが楽しくてしょうがなかった。大学に入ると今までの受験して合格するという目標を失って5月病にかかるらしいと言われていたので用心していたが、楽勝でクリアできた。毎日お祭り騒ぎで夏休みも終了して、前期試験が終わったら打ち上げしようと言っていたのに、待ちきれなくて前期試験の最中に派手に飲み会を開いて、自分たちの馬鹿さに大笑いして飲んで吐いてそのままみんなでザコ寝して、翌日は頭痛い、吐きそう、とか言いながら学校に試験を受けに行った。しかし恋でも何でも、いいことがずっと続くということはない。片思いの場合は相手への熱い思いは何年でも続くということは身をもって知っているが、たぶん両想いの場合は、そんなに続かないのだろう。そしてお祭り気分も。ただみんなで飲んで騒いでいるだけで楽しい、というのは数カ月、よく続いて半年ぐらいだろう。それ以降、ちょっとずつ先延ばしはできるが、その無理は後にくる反動がえぐい。気分の沈み込みが半端ない。あの頃の私に知恵があれば、楽しみを無理に引き延ばそうなんて思わずに、平凡な日常に軟着陸していくのがよかったのだろうがそれを知らないのが若さということである。

2年生以降、私は深刻な無気力に陥った。5月病がまとめて来たみたいで、苦痛だった。学生寮に仲の良い友達がいたので私は定期的に訪れていた。ある時、寮内のあちこちでお祭りみたいに騒いでいた。「何かあったの?」と私が尋ねると、新入生が入って来たのだ、と。4月か5月だった。自分たちの時もそうだったではないか。新入生は親元を離れて友達と夜遅くまで飲んで喋れるというだけでお祭り気分なのだ、と。そう。それで、数カ月たてば騒ぎはおさまり、年度の後半になれば寮内は毎日お通夜みたいにしんみりして、騒ぐ奴なんて誰一人いなくなる。そっか、俺たちは誰の指図も受けずにやりたい放題に楽しんでいたんだけど、みんなこの法則の支配下にいたんだなあ、って。セミだって、鳴く時期も、順番も決まっている。最初はニイニイゼミが鳴き、次にミンミンゼミやクマゼミが鳴き、アブラゼミが鳴きだしたら夏も終わりに近く、ツクツクボウシの声は秋の宣告のようなものだ。そして我々も、新入学の季節に数カ月だけ鳴くセミだったのだ。

つまりこの時点で私は他の誰ともまったく同じで、セミのような下等動物的な行動をしながら、それを個性の発露だと思っていた。「普遍性―単独性」の回路の中にいたつもりが「一般性―個別性」にいただけだったと、カントっぽく言えばそんな感じになるか。

私はやはり大学でも変人と思われていた。何か映画とかでも「ここが面白かった」と言うと「変なところに目をつけるね」みたいな。ずっと私はそうである。高校時代、私は「別のクラスにかわいい女の子がいる。名前を知ってるか?」と友人に尋ねたことがある。二人でこっそり教室の外まで見に行って「あの子」と示すと、「え?」と驚いた後、その友達は大笑いしていた。大声でたぶん2分ぐらい笑い続けていたと思う。私の美的価値観が珍しいというのだ。私はだから自分はおもろいことを言う担当だと自分でも思うようになったと思う。価値観の変な人が世間にアジャストする方法だと思う。普段からなるべく面白いことを言う。相手が笑えば思惑通りだが、すべった場合も「相変わらず変だな」で済む。笑わせるつもりがないのに相手が笑い出す場合は「面白いこと言うたった」って顔を作る。むきになって怒ったり反発したりすれば「何あのキモい奴」ってなるけど、かわりにドヤ顔をすれば「よくそんなこと思いつくな」って感心してくれたりする。そう、だから変人なのだ。学生時代はそういう処世術で充分いけた。

私は文系だったので大学にずっと行かなくても単位はなんとかなったりしたので必要以上に大学に行かなくなった。もうお祭りの季節は終わったのに、何の目的で大学に行くのか?それで無気力に沈みながらバンドやりたいとか言い出して作曲を勉強したり音楽を聴いたり本を読んだりしていた。大学に入ってガラリと別世界に生きるために高校時代からの習慣だった日記も意図的にやめていたのを、再び書くようにもなった。あのミュージシャンはデビューする前の数年間は部屋に引きこもってブルース音楽を聴きこんでいたとか、また別の誰かは一人で過ごす時間がいちばん好きだとか、そんなちょいエピソードに暗示を受けて、自分も一人でいる時間がいちばん好きなのだ、と思い込むようになった。そしてそれがけっきょく私自身の体質に合っていたのだ。それ以降何十年も生きても「ああこれは違う」って思ったことがない。決定的だったのが、それまでラノベだと馬鹿にして読まなかった村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んで、東京に住んで、当然いろんな人が周りにたくさんいて、いろんなやりとりをしながらストーリーはすすむのだが、たしか新宿駅かどこかで、人ごみを見ながら、自分はこの東京にただの一人も友だちって呼べるほどの人がいない、って主人公が気づくという場面があった。記憶なので細部はあやふやだが。私はこの場面一つだけのために「羊をめぐる冒険」が村上作品の中でいちばん好きだ。村上春樹の小説なんて、大事な女性が突然消えて、その謎を追いかけて、ある時は旭川に、ある時はハワイに、ある時はギリシャに、ある時はフィンランドに、時には千葉とか四国に出かけて、最後まで読んで「なんかあの伏線は回収されなかったな」っていう感じで、恐るべきワンパターンとも言えるが、なぜこんな小説が世界中で読まれる特別な作家なのかといえば、読者の人生とシンクロするという不思議な体験をさせることが多いからではないか、と。もしそれが違うのなら、なぜあんなどうでもいい話ばかりする小説がウケるのか、他の説明が果たして可能なのか?とも思うがそれはともかく、自分の経験そのものだ、と思い、これで自分は孤独な人間なんだということが決定したような気がする。

大学時代の後半は、大学にもあまり行かなかったため、人と口をきくことが1週間も2週間もなかったりして、それはちょっとまずいかなとも思った。なんか人と口をきかないと1日に何百万という脳細胞が死ぬみたいなことを聞いたこともある。しかしなんか、ブルース・スプリングスティーンは一人でいる時間がいちばん好きだとか、「羊をめぐる冒険」の主人公は友達が一人もいないとか、そういう情報に勇気づけられていくうちに、私は誰とも口をきかない日が何日、何十日、何百日続いても気にしなくなったしそれで平気だった。社会人になって、忙しすぎて本を1冊も読めないので、単に本を読みたいという理由で退職したことが複数回あった。会社はストーカーのように引き止めにきて、退職理由が「本を読みたいから」では通用しないと思ったので「新たにこの試験にチャレンジするため」みたいなもっともらしいことを。ある時は「自殺が頭をよぎることがある」(まったくの嘘というのでもなかった)と言ったら、引き止め活動が止んで、やれ有難や、と思って辞職して、それで貯金が尽きるまでアパートの一室に引きこもって毎日本ばかり読んで過ごして、何か月もの間、人と会話したのなんか、レジで「箸つけますか?」「1本下さい」だけみたいな日々を過ごしても、私は全然平気な体質だ。よく「孤独死」というものが社会問題だと言われる。アパートの一室で数カ月も死んだことに気づかれなかった独り暮らしの人が悲惨だ、と。人々はそれをおぞましいと思うらしいが、私はむしろ、かなりいい死に方じゃないかなと思ったりする。死というものがそもそも悲惨なものなのか、それとも安らぎなのかについてはいろんな受け止め方があるだろう。インドの庶民は、死ぬ人を見送る人がいるような死に方だというが、その時、死にゆく人はすごく幸せそうだという。彼らの宗教がそういう死後の世界を想像させるのかもしれない。インドでなくても、モーツァルトは、死というのは恐怖でも何でもなくて、人を落ち着かせ、なぐさめてくれるイメージだという。しかし一般通念上、死は好ましくないということにしておいて、でも死は必ず訪れるものだからしょうがないということがある。その死の中でも、誰にも気づかれず死ぬのがかわいそうと言うなら、ゾウはみんなかわいそうなのか?わざわざ死ぬ時は誰にも見られない森の奥とかでひっそり死ぬゾウは孤独死でかわいそうなのか?私はもっと悲惨な死はいくらでもあると思う。いろいろ、社会的に追い詰められて死を選ぶしかないみたいなのが真に悲惨な死であると思う。それとか、ずいぶん昔のニュースで聞いたが、ある金持ちの老人が、御付きの者に車椅子を押してもらって森の散策に出かけた。御付きの人がちょっと用事で老人から離れたすきに、猟師が放った猟犬が偶然やってきてガブガブ噛まれて死んだという、これは実際の話である。こういう死に方をする人生って、いくら金持ちでそれまでいい思いをしてきたとしても、最後がこれじゃあ嫌だなと思った。それならアパートで孤独死のほうが100対0でいいと思う。孤独死は、私の死体を処分しなきゃいけない赤の他人の人に申し訳なく心苦しい気持ちはあるが、それを除けば別に、と思うので、それが悲惨という感性がまったく理解できないので、私はたぶんかなり人と違った体質なんだろうと思うのだ。友達に口をきいてもらえなくても全然平気というのは高校生の時から、あるいはもっと昔からそうなので、やはりこれは大人になって孤独な生活をするようになる以前からの、おそらく生まれながらの素質なのだろう。今検索したら孤独を気にしないというのもやはりアスペルガー症候群の顕著な特色の一つだという。どうにでもなれという感じである。




話がズレてなんか自叙伝を書き上げてしまいそうになったので本題に戻る。私は文章を書くことが好きで日記をずっと書いてきたというところから話を継ぐが、この日記は決して他人には読ませない種類のものである。別にバレたら逮捕される、人生が破滅するということはないが、何かで作ったパスワードを他人に公表しないのと同じ理由で公表しない。本当は自分のブログなどに「今日こういうアカウントを作ってパスワードは〇〇〇」って書いて、「あのパスワード忘れちゃったけど誰か覚えてない?」って聞くと誰かが「〇〇〇でしょ」って教えてくれたりするような世界がどこかにあったらいいいなと思うが、個人情報保護の観点から不適切なのできっと誰かから苦情が入ったり通報されたりすると思う。そのうちPCの中でだけ完結するような生成AIができて「あのパスワード何だった?」とか「あの資料どこだったか捜して」って文章で打ち込む、あるいは喋りかけると即座にPCの中から探してくれたりするようになるんだろうな。本題に戻ろう。

私は今までブログとか掲示板とかSNSなどで好き勝手なことを書きながら「なぜ自分の書いたことを公表するのか?」という疑問をあまり持ったことがない。掲示板などで、これはいろいろ反応があるだろうな、ということをあえて書き込む。そして反発の声と、「おもしろい」という声の両方が出たら、書いた甲斐があった、と思う。そういう時、「書かなくてもよかったのになぜ書き込んだのか?」ということについてあまり深刻に考えたことはなかったが、noteを始めて数か月たって、そのことを考えこんだ。つまり、私なんて何の役に立つのか?って。

noteはクリエイターが作品を発表する場という体裁の場所だと思うが、実際は日記みたいに、普通のブログみたいに使っている人が多い。なんならSNSである。私は今のところnoteを使いながらmixiみたいだなと思っている。noteもmixiみたいにいずれは盛りが過ぎるだろうと。ただ違うところは、ユーザーに各種分野のガチのプロがいくらでもいて専門的で質が高いコンテンツを日々提供している。世界的アスリートとかお医者とか。あとはYouTubeで頭角をあらわした実力者とか。私もそういう人たちを何人もフォローしている。noteの中で初めて知った人も多いが、中にはnoteに発表した文章が出版社の目に止まって本を出版したという人もいるみたいだし、この人は何かのプロだろ、と思う質の高いコンテンツを量産している人もいる。私はこの4か月、プロのジャーナリストとか学者、医者という人たちの投稿を見て、特に面白くないと思うことも多いけど、それに比べてもはるかに質的に上だろ、と思う人たちがいる。しかし何かの専門分野の文章でなくても魅力的なものも多い。それはその人が自分のこころに沿った文章を書いていると感じる場合は魅力的だと思う。専門性が高い文章の場合は、理由ははっきりしていて分かりやすい。ええ情報をもらったとか、こういうまとめ方をしてくれてためになるとか、こういう洞察に触れたのは初めてだとか。しかし、別に知識の話でもないし、これを知ったから勉強がすすんだ、というのでもなくても、読むことでいい時間を過ごせた、と思えるような文章を書く人たちがいる。

私は去年かおととしぐらいから机に向かってじっくり何かする時間が減った一方で、スマホの読み上げアプリを使うことを覚えたので、ネット上で見つけたコンテンツを読み上げアプリ上に集めて、歩きながら、車や電車に乗りながら、雑用をしながら、寝ながら、聞くようになった。それで電車に乗ってる時間と歩いてる時間じゅう聞いてると、机の上で一時間かけてやってたことを歩きながらできるようになって、とてもよかった。以前はいろんなニュースサイトを中心に文章を集めていて、やわらかい文章はネットニュースなどで集めていたが、noteを始めてからは、時事問題でも専門性の高いものでも、やわらかい読み物でも、ぜんぶnoteで調達できるわ、みたいな感じに今現在なっている。一度聞いただけでは消化しきれないので2度、3度と聞くものもあり、「けっきょく今日はnoteのコンテンツばかり聞いてたな」みたいなこともある。そういう人たちをフォローしているので、翻って自分は…と考えた時に、ブログとかmixiとか掲示板では深く考えることのなかったことが頭に浮かぶ。

開き直ることは簡単である。「ネット空間なんてみんなが言いたいことを垂れ流す場なのだ」と。最後はそれである。私はとにかく文章を書いていれば満足するタイプの人間だ。ただ、文章は誰に頼まれなくても書くのだが、なぜネット上に公表するのか?あの質の高い記事。この気持ちよい記事。ときて私の記事…考え込んで筆が重くなる。

人々との交流をを目的として発信しているという人は多いし、分かりやすい。私といえば、友達などいなくて、しかも別に人恋しいというわけでもない。もし承認欲求だとしたら、これだけプロをはじめレベルの高いものが多い中で、私のコンテンツのどこが評価されるべきか、教えて下さい、という人がいたら、ないでしょ、って言うしかない。お友達を探しているのでもないし、「見て、すごいよ」って言えるものでもないし、なんで?って、ずーっとブログとかで文章を見せてきて今になって改めてそういうことに行き詰まった。もちろん、プロ以上の文章が書ける人なんて全体の1割もいなくて、大半はブログを書いてるだけだからええやないか、というのが地にあって、それでも読んでくれる人がなぜかいて、うれしい、ということでも、いいといえばいいんだけど。そんなことをここ数日、考えている。

人恋しい、という言葉があるが私には分かるような分からないような言葉だ。誰も遊んでくれる人がいなくて寂しい、みたいなのは、分かるような分からないような。たとえば、学校に通ってる時クラスで、3人一組のグループを作って下さいって先生に言われて、一人だけ余っちゃう子がいて、泣き出したりして、あ、悲惨やなあ自分は余らなくてよかった、って思うけど、それは体裁が悪くて嫌だ、ということであって、仲の良い友達がいなくて寂しい、というのとは違うと思うし。
私は大学時代、バイクでかなり遠くまで旅行に出かけたことがあった。出かける前、薄暗い早朝に自分で朝ごはん用意して食べながら、ああ寂しい、結婚したい、としみじみと思った。社会に出て、自分は孤独に独特の耐性があると気づいた後は、そういうことはまったく思うことがなくなった。ところが一度こんなことがあった。私がその頃いた現場はいろんな会社から人が来ていて、合計何人いるか分からないけど、職分、勤務時間、所属バラバラだけど、毎日顔を見てるから顔だけはお互いに知ってるみたいな場所で一人の女の子と目が合うようになり、スマイルしたり挨拶しているうちにその子が好きになった。仕事上の接触もほぼなかったけど、彼女のほうが私よりも早く勤務が終わって帰った。ただそれだけだったけど、彼女が帰った後、ただそれだけのことにものすごい寂しさを感じた。毎日彼女が帰る時間になると寂しくて寂しくてしょうがない気持ちが湧き上がってきた。まさか自分がまだ寂しいっていう気持ちを感じることがあるなんて、と驚いた。自分のこころや体は自分のものだけど、こんな基本的な知識を、自分が寂しがることがあるかどうかなんてことを自分で分からなかったなんて。そうすると、大学時代、バイクで遠出に出る早朝に感じた寂しさは、当時片思いの女の子がいたからそう思ったのかな、と。つまり私は「一人ぼっちだ」「誰も遊んでくれない」ということについて寂しさを感じることはないけれど、特定の誰かの不在については平均的な人よりも強く寂しいと感じるのかもしれない、と思った。


また自叙伝の続きを書きそうになったので本題に戻ろう。

ここで考えるべきテーマは「私なんか何の役に立つのか?」である。しかし仮に100人が100人とも、あるいは58人が58人とも、私は何の役にも立たないと決議したとしても、それで私が文章を書くことをやめることはないのは分かっている。そういうこともあって斎藤知事はほんま偉いと思う。なんかスポーツの試合でも、もう99%負けだと思われる試合で奇跡的な大逆転みたいな映像があったら、繰り返し見てると自分にも幸運が訪れる、一種のおみくじ的なありがたさがある。

世の中には幸せな組み合わせがある。花とミツバチはその典型だと思う。ミツバチは花粉を吸いに来て、それは花を搾取しに来てるのではなくて花もそれで喜ぶのだ。受粉できるので。しかもそれを傍目で見ている我々にとっても好ましい光景である。美しい。世の中にはこういうウィンウィンの関係というのがある。

一方で、薄暗くなってから道ばたに舞っているブヨはどうだろう?誰が得をするのか?油断すると口や目に入ってきて、私も迷惑だしブヨも嫌だろうし、絵柄的にも、誰もあれを美しいと思わないだろう。コウモリはあれを食べるような気がするので、コウモリの役に立つといえるが、それは食べられることによって役に立つので、ウィンウィンの関係ではない。弱肉強食の世界である。

我々が生きていて、ただ自分の気持ちのままに何かすることが、誰かのためにもなることもある。男が、女性に、かわいいねとかきれいだって言う。男ってそういうことを言いたくてしょうがない生き物である。それを聞いて女性が大喜びすることもある。こちらが好きなように振る舞って、相手もそれを歓迎する。花とミツバチのようなウィンウィンの関係だ。たとえばメーカーが、あるいは店員が品物をお客に売る。お客はすごく満足し、大量に注文してくれたという場合もウィンウィンの関係だが、この場合はカネがお客からメーカーや店員に流れるから、前者が損をして後者が得をするという関係でもある。しかし上記の男が声をかけ女も喜ぶという場合、どちらも出費はないゼロの状態からただプラスだけが生れる。だから恋とか愛ってすばらしいのかもしれない。

しかし同じ男が女に声をかけるのでも、まったく同じ言葉を発しているはずなのに相手が非常に困惑して迷惑そうな様子をみせることもあり、この時は私はブヨである。この世にブヨとして生まれてしまった以上、ブヨとしてそこらへんを気味悪がられながら飛んでいるしかない。早くコウモリに食われてこの世から消えたい。

しかしブヨと生まれてしまい、その存在理由はブヨ自身にもわからないが、生まれてしまった以上そこに居続けるのはしょうがないともいえる。これは私の場合は日記とかを書くことである。しょうがない。しかしそれをネット上に公表することはないではないか、という疑問がある。それが今この文章を書きながら考えていることである。まだ問題提起を繰り返ししてるだけで答えは何一つ与えられていない。これは一つは、私の記事に触れ読む人との間に、たとえ少数でも花とミツバチの関係が成り立てばいいし、そうすれば残りの人たちにブヨと思われても、それはさほど迷惑をかけていることにはならないと思われる。この世には誰にも読み切れないほどの大量の記事や文章や情報があり、それらは誰かに見られずに永遠に消え去る。その中の一つが私の文章であって、それはブヨが数千匹舞っていて、そこに1匹増えたぐらいの感じなので気にすることはないと言える。それだって何かの役に立つかもしれない。ある社会問題を調べている人や機関がいて、このタグのついた記事の中で賛成の記事と反対の記事のどちらが多いか、みたいな調査をする人がいたらデータの一つを提供したことになる。


また日付が変わった。私は何か考える時、歩きながら考えるとか雑用をしながら考えるという時もあるが、このように書きながら、文章を作成しながら考えるという時もある。それで、このように書くことにはやはり有用性があると思ったのは、書きかけていると、「書きかけている文章がある。続きを書かなくては」と思いながら暮らすことになる。すると当該のテーマについて始終考え続けるということになる。これは何のテーマもなくて「最近ブログの記事書いてない。もう1ヵ月更新してない」って思いながら過ごすよりもはるかに建設的だ。これがどこにも公表しない日記だったら、書きかけであることも忘れてしまい当該の問題も永遠に放置される。それが一つ、自分の文章を他人が読む可能性のある場にさらすことの意味だと思った。

今考えているテーマは「私なんか何の役に立つのか?」ということだが、上で、たとえ誰の役に立たなくても自分は書き続ける、ということを確認した。その書いたものを投稿するのもしないのも手間はかからないからそれもいいとして。だからそもそも問いを変えなくてはいけない。「誰の役にも立たないことをなぜ投稿するのか?」あるいは「なぜ投稿する気になるのか?」が私にとってより本質的な問いであることに気づいた。「元気だから普段はそんなことは考えない」が一つの答えだが、考えてしまった時には問題になる。

昨日も読み物は主にnoteの人々の投稿の中から調達した。同じような手触りの内容に2つ出会った。一つは小林秀雄の話。小林の母が亡くなって何日か経った時、線香が切れているので夕方買いに出かけると、見たこともない大きなホタルを見た。母がホタルになって帰ってきたと小林は思い、一旦そう思うとその考えから逃れられなくなったという話。もう一つは、これはまた別の人の投稿だが、家で飼っていた愛犬が亡くなった。その葬儀の時、その人のお孫さんが、トンボが飛んでいる、犬がトンボになって帰ってきた、と言って空を指したという。その人も一瞬トンボを見たが、その映像はすぐ消えたと。その人は、この寒いのにもうトンボなんかいないと思ったが一方で、それは愛犬が天国に昇ったしるしであることは実感した、と。

あの世とか死の周辺によくあるスピリチュアルなエピソードはそれ自体興味深い問題だが今の私の関心は別のところにあって、それは外の世界というか現実の世界というか、人を取り巻く環境には圧倒的な力があるということだ。両者とも知的に鍛錬を積んで充実した内的世界を持った人であるが、このての話は知的な論考では決して到達できないものを提示してくる。現実がそれを提示した時、こちらは黙ってそれを受け取るしかない。小林は「母がホタルになって戻ってきた」という考えから逃れられなかったという。理屈ではない力というのがやってくる。もし小林が線香を買いに外に出なかったらそういう「不思議な」体験をすることはなかったと思う。だから私も外に出るのだ。生身の人間としても外に出て町を歩くのだが、そこではすれ違う人たちが何を考えているのかはいちいち聞けない。でもネット空間では、いわばすれ違う人たちがそれぞれエピソードを持っていて、知りたければまとまった一かたまりの文章を読んで、こちらは何か感想を持つことができる。その町を自分も歩きたいということだ。そう思った時に、なぜ自分は文章をネット上に公表しているのか納得がいった。これが結論だ。

ある場所で、TVだと思うが、ドラマを放送していた。日本のドラマだった。どんなドラマなのか知らないが、ひぐらしの鳴く音が流れた。立派で完璧な鳴き声だったので、撮影している時に偶然マイクが拾ったのではなく、効果音として意図的に流しているのだと思った。そういえば昔、日本人だけがセミとか秋の虫の鳴く声を左脳で聞くが他の国の人はみな右脳で聞いてる、逆だったかもしれないがそんな話を聞いたことがある。あれを「声」だと思うのは日本人だけで、他の国の人はあれは単なる雑音だと認識するという。だとしたら外国のドラマとか映画であんなふうに虫の声を効果音で使うってことはないのかな?って。夜、車から出ると虫の声がするような場面は欧米のものでもあると思うが、それは美しさのためではなくて、リアリティを出すために使われているように思う。街中で車が走る音とかクラクションが聞こえるのと同じ感じで。印象的な場面で効果を高めるために「カナカナカナカナ」みたいな音が聞こえるというのはひょっとしたら日本独特かもな、と思ったり。そうだ私はカナカナになろう。

noteの書き方のどこかに書いてあったが、駄文でも何でも投稿し続けることが大切だ、と。いいこと言ってくれる、と思う。1500字から3000字ぐらいがいちばん読まれる、というアドバイスもどこかで読んだ。参考になる話だ。そういう調子で、こうすれば読まれやすい、みたいな話が無数にあると思う。見出し画像をつけようとか。タグを付けようとか。しかしその無数のアドバイスを追いすぎると罠にはまってしまうと思う。読む人のことを考えてこうしなさい、というのは、こちらが容易に調整できる範囲なら構わない。たとえば「改行しましょう」というのも、それで支障がないなら構わないが、「今日はあえて改行したくない」みたいな時でも「このほうが読む人が読みやすいから」と譲ったら、果たしてどこまで譲ることになるのか。ここまで、というはっきりしたボーダーがないところが罠である。こちらの調子が良い時にはいくらでも譲歩してしかも自分の中のバランスが崩れない時もあると思うが、いつもいつもそれをやったら、自分のこころに沿ったところで文章を作ることからどんどん遠ざかっていくと思う。そういう路線を極限までやったら最終的にはAIで作った文章みたいになると思う。体裁は整っていて、人のためになる文章もできるかもしれないが、そこに人間のアウトラインみたいなのがなくなったら、それは私にとっては価値がない。そう。私はこういう確認作業をするためにダラダラとこの文章を書いているのだ。つまり、私が書いて投稿する文章は、自分のこころのバランスが崩れない限りはいろいろ読みやすい配慮をするだろうが、でも書きたいものが他人の気に入らない性質のものだろうなと思っても、そういうものこそ書きたいと思う。これも今ここでの大事な確認作業だ。

時代は少しずつ変化していく。急激に変わる時もあるし全然変わらないような時もあるだろうが、そういう時だってちょっとした変化は絶えずあるはずだ。イメージとしては100個のちょっとした変化のうち意味のある変化は1つだとする。たぶんもっと少ない気もするが、起業家が何百人いても成功してイノベーションを起す企業は少ないけどその少ないイノベーションが社会や人のためになる。

ヘッセ「荒野のおおかみ」に次のような文章が出てくる。

人間の生活がほんとの苦悩、地獄となるのは、二つの時代と二つの文化と宗教とが交錯する場合にかぎるのです。一つの世代全体が、二つの時代と二つの生活様式のあいだにはさまれて、あらゆる自明なことや、風俗や、安全さや、無邪気さが失われるような時代があります。もちろん、だれでもがそれをおなじように強く感じるわけではありません。ニーチェのような人は、一世代もさきに今日の不幸を苦しまなければなりませんでした。――彼が独りで、理解されずになめつくさなければならなかったことを、今日無数の人が苦しんでいるのです

臨床心理学者の河合隼雄は、精神科を訪れる人たちは時代に先駆けた問題で悩む人たちだという。新しい問題を大多数の人たちはそんな問題があることにも気づかない中で、真っ先に感じて悩む人たちがいる。彼らは大多数の我々の代わりに悩んでくれているのだ、みたいな、記憶で言うので不正確だと思うが、そんなようなことをどこかで書いていた。つまり「炭坑のカナリア」が必ずいる。「1人のモーツァルトの影には99人のモーツァルトがいる」みたいな言葉があったと思うが、ニーチェみたいに画期的な人は滅多に出ないだろうが、ニーチェは何百羽もいるカナリアの一人で、残りはみんな新時代の未知の有毒ガスにやられてただ死んだだけ。ニーチェ自身も頭痛に悩んで最後は発狂しちゃったからやっぱり毒ガスに真っ先にやられた一人だと言える。スタートアップ企業でもカナリアでも、たいていは意味がないように消え去り忘れ去られていくんだけど、それでも必要だという考え方。

これ何なの?というものが世の中には存在する。私の大好きな作家に井伏鱒二がいる。その作品には歴史に取材したものも多く、保守的なイメージが、ひょっとしたら一部にあるかもしれないが、私が知る限り、こんな無茶苦茶な作家が他にいるだろうか?と思う。「黒い雨」みたいな本格的な作品も数多い。大江健三郎がノーベル賞を受賞した時に、もし生きていれば安倍公房、大岡昇平、井伏鱒二が受賞していただろうけど、たまたま生き残っていた自分が受賞した、みたいなことを言った。その年、「井伏さんの祈り、私の祈り」というオマージュ的な講演も行っている。すごい作家に違いないだろうが、「え???」みたいな作品もちょくちょくある。そしてそれが例外的かというと、逆にそういう作品こそ「井伏らしい」と思わさせる。川端康成と並んで「言葉の魔術師」とも言われ、他方で「ナンセンス文学」とも言われた。

例を挙げると、「厄除け詩集」という詩集の中に「あの山」という3行の詩がある。

あれは誰の山だ
どつしりとした
あの山は

「これ何の価値があるの?」というのが私の第一印象だった。同時に井伏らしくて笑ってしまう。のびのびと背のびしたくなるような気持ちよさを感じた。この詩は大江の上記の講演の中でも引用されている。わりと有名な詩らしい。五七五でもないし、無意味に幼稚に繰り返し同じ言葉が出てくるし、見どころはどこなの?って思うだけで。同じ短くて非定型の三好達治の

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

だったら、しみじみと、いい歌だなあ、って思う。私は中学の教科書でこれを初めて知った。大学生の時、ローリングストーンズみたいなオールディーズのロックがやたら好きな友人がいて、彼とはロック音楽の話ばかりしていて、お互いのアパートを訪ね合う仲だったが、ある時彼がこの三好達治の詩のことを言った。「あれ、いい詩だと思わない?」と。何の絡脈もなくそう言った。他人にそう言われると、ほんとにいい詩だなあ、という気持ちがしみじみと湧き上がってくるものだ。たったこれだけの言葉が何十年もたった今でも忘れられない。大学生なので詩歌の良さなんて基本分からなかったけれど、あれが私がそういうものを鑑賞できるようになった最初期のものだったように思う。ほんとにしみじみといい詩だと思う。

それに引き換え井伏の詩はどうだろう?「あれいい詩だね」って言うようなガラではない。井伏鱒二と師弟のような間柄にあった開高健が「井伏鱒二を真面目な言葉で褒めている奴がいると馬鹿にみえる」みたいなことを言ったが、これほど芯を食った井伏評を私は他に知らない。

もう一つだけ「厄除け詩集」の中から引用する。「蛙」という詩だ。

勘三さん、勘三さん
畦道で一ぷくする勘三さん
ついでに煙管(きせる)を掃除した
それから蛙をつかまへて
煙管のやにをば丸薬にひねり
蛙の口に押しこんだ

迷惑したのは蛙である
田圃の水にとびこんだが
目だまを白黒させた末に
おのれの胃の腑を吐きだして
その裏返しになつた胃袋を
田圃の水で洗ひだした

この洗濯がまた一苦労である
その手つきはあどけない
先ず胃袋を両手に受け
揉むが如くに拝むが如く
おのれの胃の腑を洗ふのだ
洗ひ終ると呑みこむのだ

これが詩だろうか?最初の六行だけはなんか七五調みたいな感じで詩っぽく聞こえるが、残りは散文になってしまっている。内容もふざけている。「こんなことあるんだ」と興味深いことではある。YouTubeでも検索するとカエルが実際こういうことをしてる動画が見れるが、詩歌とか風情はない。気持ち悪いだけだ。

井伏の作品には他にも「何なの?」という作品がある。「追剥の話」は、論点がずれてゆき、ずれたまま終わる。「こんな小説あってたまるか」と言うのが私の最初の感想だった。また、小説ってふつう主人公っぽい人が出てくると思うが、それにあたる人が出てこない「川」という中編小説。そういえばデビュー作の「山椒魚」にも人間が出て来ず、山椒魚が川の近辺にいる動物たちとやりとりをするという童話みたいな話だが、以後の膨大な作品の中で、私はかなり井伏の作品を読んだと思うが、こういう、人間が出てこない小説というのはこれたった一つだけだと思う。ギャグ作家というのではない。別に笑うタイミングとか呆れてしまう場面が出てくる小説が多いというのでもない。むしろ冗談などまったく言わない作家だという気もする。井伏の作品で「何これ?」って思うのは、内容そのものが変だからというのではなくて、「この文脈でどうしてこの話を??」っていう感じである。上の「蛙」で言えば、カエルは確かにそういうことをするらしいので説明文だったらいいけど、詩歌の中で、七五調を崩してまで言うことか?という感じのおかしさだ。

これが奇をてらうというのでもなく、井伏のバランスが崩れる感じではなく、井伏という存在の重心の真上にちゃんと積み上がっていく。

村上春樹は村上春樹なりの、川端康成は川端康成なりの、今までなかった何かを、ウケなくてもそれが自分の「地」だから書こう、ってものがあったと思う。川端なんかは今では古風で、純粋に伝統的で、尖ったところなど何一つないみたいなイメージだけど、彼が登場した頃は新感覚派なんて呼ばれたぐらいで、それまでにない何かを提示したんだと思う。今生きる私には、具体的にどこが新しいと思われたのか分からないけど、じゃあ川端に代わる誰かを日本文学史の中に一人でも見つけられるか?といえば、いないもんね。でもまあそういうのがオリジナリティと呼ばれるんだと思う。

もう既に私が確認したいことはすべて出たと思うが最後に音楽の例としてショスタコーヴィッチの交響曲14番を挙げる。クラシック音楽の現代音楽って意味が分からないものの代名詞みたいだと思うが、私にとってはこのタコ14番がそういう音楽の代表例だった。最初聴いたのが中学だったか高校だったか。あまりにも変てこで、面白がるためにこの気持ち悪い音楽をずっと聴き続けた。メロディも変だし、ボクシングのゴングみたいな打楽器が鳴るし、交響曲だというのに11個の声楽曲に1楽章、2楽章、…11楽章って番号振ってあるだけだし、死をテーマにした歌詞なのに幼稚でふざけた感じのメロディだったり、ソナタ形式なんかどこにもないし、どこをとっても理解できなさすぎて逆に聴いてしまうという感じだった。それが、10年ぐらい聴いていると、美しいとさえ思うようになった。私が人づきあいが下手だからかもしれないが、「もうほっといてくれ!」っていう気持ちになることがちょくちょくあり、そういう時にはこれを聴くことにしている。私の知る限りこの音楽が好きという人、おかしいと思わない人は誰もいない。だからこの世界に浸っている時は自分は周りの世界とは違う世界にいることができる。それが慰めになったりする。本当はたぶん、これは名曲ということになっていると思うので、これが大好きという人もいるところにはいると思うが、たぶんそういう人と現実世界で知り合ったら、もはやこの曲は私を慰めてくれないかもしれない。

私は自分の人生のわりと長い時間を使って、この作品の変なメロディがどんなふうに私のこころに受容されていったかを身をもって経験してきた。今我々がきれいだと思うメロディ、流行歌とか、クラシックだったらチャイコフスキーみたいなものを我々がなぜきれいだと思うかといえば、最初にそういう路線のメロディを作った人がいたのだ。最初にそれを聴いた人たちは、それをきれいだと思ったわけではない。やっぱ最初は私がタコ14を聴いた時みたいに違和感を覚えた人が続出したのだと思う。でも聴き慣れていくうちにきれいだと思ったんだと思う。それでそういう路線で洗練していったものがきれいだと思われるようになった。
あまり同じような美的感覚が続くと、たぶん時代が腐っていくと思う。それは、たとえば同じ日本でも、今もって50年前とか100年前と同じようなメロディの流行歌が流行っているところを想像すると分かりやすいと思う。そのての停滞がどれほどおぞましいかということが実感できるのではないか?そういう不健康な閉じた世界から抜け出すには、やっぱ「この人のメロディおかしい」っていう人が出てこなくてはいけないと思う。意味あるイノベーションが1つ出てくるには、その背後に99の、ひょっとしたら999ぐらいの失敗作がどうしても出てきてしまうのではないか。

私が今こう書くのは、何か思いついて何か書いたとして、こんなのは誰にも受け入れられないけど、でもこういうのができちゃったし、という時にそれを公表するのにためらいがあるけど、でもそれがズタボロの結果に終わってもそれは正当化されるのだ、と自分に言い聞かすために書いている呪文のようなものである。私の場合、そんなに独創的なことを思いつくというのではないが、「文章が長すぎる。それを読むだけのメリットなどないのによく書くなあ」と誰かが思うだろうなあ、という心配は今までにもずいぶんしてきたけれど、上記のような理由でそれは正当化されるのだ、と。「こんな変なもの見たことないよ」と思われるだろうなあ、というものができてしまった時にこそ、いちおうアップしてみる。普段、無反省に生きている時には何も考えずに投稿するのだが、周りの投稿者が立派すぎる時には、根源から考え直さざるを得ないので今回こういうことを考えてみて、次回また迷い始めたら「前回はここまで考えた」という印としてこれを書き留めた。

今日の朝も、noteの中だけで読む文章を調達していた。その中でSNSで投稿をすることについての意見を述べている記事が2件あった。小林秀雄のホタルの話ではないが、シンクロニシティと感じてしまうとその連想から逃れることは難しい。私はシンクロニシティというユングが考え出した概念の妥当性は分からない。でもこういう考え方はものすごい引力をもって我々を捉える。これもまた現実が我々に及ぼす強い力で、こういうものを感じる前提としてnoteならnoteの世界に参加する意味が一つあるなあと思った。これも私が何の価値もないかもしれなくても投稿する理由の一つだ。

(冒頭の画像はCopilotに生成してもらった。最初、「私なんかブヨだ、セミだ、なんならゴキブリだ」という言葉に合うイメージを生成して下さい、と頼んだら、以下のような画像を作ってくれた。


私なんかブヨだ、セミだ、なんならゴキブリだ

「もうちょっとグロテスクにお願いします」と頼むと、「申し訳ありませんが、グロテスクな画像は生成できません」と断られてしまったので、「では、もう少しシビアなイメージでお願いします」と頼んだところ、「申し訳ありませんが、シビアなイメージやグロテスクな画像は生成できません」と再び断られてしまったので、「では、コミカルなイメージではなく、日本のわび、さびの詩歌に似合うイメージでお願いします」と頼んだところ、冒頭の画像を作ってくれた。画像の中のラテン語はchatGPTに「私なんかブヨだ、セミだ、なんならゴキブリだ」をラテン語訳してもらったものである。)

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