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世界征服計画を作るためのメモ

10日ぐらい前に石破総理とトランプ大統領の会談がアメリカであった。トランプ大統領は現在、世界じゅう全方位的に喧嘩を売っている。隣国のカナダに対しては51番目の州にしてやるとか、メキシコ湾をアメリカ湾にするとか、関税かけるとか、コロンビアには不法移民を送り返したら引き受けを拒否したので関税をかけるとか、グリーンランドやパナマ運河やガザをアメリカが所有するとか。USAIDという海外援助をする省庁を潰すとか、ロシアとウクライナ戦争のことをウクライナやEU抜きで解決するとか。そんな中、石破首相がアメリカに行ってトランプ大統領と会談し、別に物騒なことは言われなくて、笑顔で握手して、記念写真もらって、穏やかで、まずは心配していたような無理難題も言われなくて良かった良かった、ということだった。
石破は、トランプが1期目の大統領選挙を戦っていた時なので2016年頃だと思うが、アメリカで、名指しこそしなかったが、「ある候補はアメリカ大統領としての適性に欠ける」みたいなことを言った。石破が何の用事でアメリカを訪問してたのか忘れたが、外国の政治家が一国の大統領候補者の悪口を白昼堂々と言うのは内政干渉っぽいので石破こんなこと言っていいのか?と思った覚えがある。かなり尖った発言だったのでアメリカの政治関係者にはチェックされたと思うのだ。去年、トランプが大統領に選ばれた後、石破首相がトランプ次期大統領に会談を申し入れたところ、就任前に外国の首脳と会談する予定はないと断られた。しかしトランプは実際には就任前から外国の政治家と会ったり電話で話したりを頻繁にしていたので、軽くあしらわれた形だった。石破が2016年頃にしたトランプ批判のことはトランプ大統領には伝わっているだろう。それで、トランプから「こいつとは仲良くできないな」と思われたんじゃないか。共和党の大統領の時は日本の首相と非常にうまくいく例が多い。80年代のレーガンと中曽根、00年代のブッシュと小泉、それから1期目のトランプと安倍首相というように。でも今回はそういう感じが全然しない。ワシントンでの会談では、トランプ大統領から記念写真に直筆のメッセージで「Mr.P.M. You will be a great people's Prime Minister! Best Wishes Donald Trump」と書かれた色紙(?)をもらった。「Mr.P.M.(総理大臣殿)」ですからね。固有名詞が入ってないから石破じゃなくても誰でもええわ、って感じだ。Japanって言葉も入ってなくて、なんか、ホワイトハウス見学に来た一般人に「これを一生の記念にどうぞ」ってくれたようでもあるし、また朝貢に来た国の首長が皇帝に認証状をもらったようにもみえた。石破首相の表情は硬すぎるようにもみえた。この人は総理になる前はTVのバラエティー番組にも出てたりしてお茶目に振る舞ったりもできる人だからせめて喋るたんびにスマイルぐらいすればどうだ?と思いながら見てたけど、でも、振り落とされないように何かにしがみつくような表情にもみえた。記者会見では日本とは全然関係ない質問にトランプ大統領が答えたり、世界情勢もアメリカ国内情勢もトランプ大統領に振り回されて大変で、そんな中で日本の首相との会談はニュース性に乏しかった。トランプ大統領もやることは山積みの中で、日本との問題はとりあえずUSスチールの問題と貿易不均衡の問題、これを落ち着かせれば、とりあえずそれでいい、みたいなやっつけ仕事をしてる感じがトランプ大統領にはあった。日本だって、ウクライナやガザの問題で、あるいはグリーンランド所有をめぐって武力行使の可能性も否定しないトランプ大統領に、本当は言うべきことはあったと思うけど、あの場で石破首相が何か言ったって、「辺境の首長がなんでそんなことに口を出すの?」って感じになったろう。そういう雰囲気があった。それに日本は国防問題でアメリカに頼らなくてはいけない。トランプ大統領が、記者の「グリーンランドを所有するために武力行使をする可能性はあるか?」と問われたのに対し「可能性は排除しない」みたいなことを言った時、国連などがこの発言を批判した。国連憲章2条4項(すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。)に明確に違反するというのだ。ロシアのウクライナ侵攻もこれに違反するから駄目なのだ。しかしアメリカの大統領が、実際にはそんなことは滅多にしないだろうが、国境変更に武力行使もあり、と言うだけで、じゃあロシアだって別にいいじゃん、ということになってしまう。そうすると、中国が台湾とか尖閣諸島に同じことをしても良い、ということに直ちになる。アメリカの現職大統領がそれを明言してしまった以上、既に国際社会はそういう状況に、つまり国境変更のために軍事力行使してもいい、という状況になった、と言ってもいいのかもしれない。では台湾や尖閣諸島が中国の軍事的攻撃を受けていないのはなぜかといえば、アメリカの軍事力があるからだ。中国が尖閣諸島を攻撃したらアメリカが日米安保条約に基づき軍事介入をする。但し、日米安保に適用領域として書かれているのは「日本国の施政の下にある領域」という表現であって、そこに尖閣諸島が含まれるか含まれないかは明記されていない。だから日本はアメリカの大統領が代わるたびに「尖閣諸島も含まれます」ということを再確認する作業をする必要がある。今回の石破、トランプ会談でもそのことが再確認されて良かった良かったということになった。
じゃあその時、日本の首相が、トランプに、グリーンランドにそんなこと言っちゃ駄目でしょ、とか、ウクライナ抜きで話を進めちゃ駄目でしょ、とかガザを占領するなんてけしからん、やめろ、なんて噛みついたら、「今回はアメリカは尖閣諸島は日米安保の適用外とします」って言われただけで、中国は下手すると即日攻撃してくることになる。トランプは、自分が独裁者っぽい性格のためか、世界の独裁者と話が合うみたいで、プーチンと呼吸が合うみたいだ。それと同じく、習近平と会談して意気投合したら、その時何が起こるか?
こんな事考えてたら憂鬱になってしまった。しかし51番目の州呼ばわりされたカナダなんか内心穏やかじゃないことは日本以上だろう。グリーンランド寄越せって言われたデンマークも。ウクライナなんか現在、アメリカの軍事力に国の存亡がかかっている中で、トランプがプーチンに接触していることで心乱れること日本人の比ではないだろう。ヨーロッパだって。
 まだ就任して1ヵ月なのに、トランプは78歳とは思えないぐらい精力的だ。パナマ運河の管理権を取り戻すと発言すると、パナマは、中国の一帯一路構想から脱退を表明し、パナマ運河の主要港を運営している香港系企業との契約を解除する検討を始めたと。トランプは口先一つでこれだけの成果を得ていて、政治的成果としてもコスパ的にも見事だ。しかし、世界中で全方位的に恫喝外交を展開していて、アメリカにとっていちばん頼りになるはずの欧州も反発を強めている。いくらトランプの力が強いといっても、どこかで深刻なストップがかかるとしか私には思えない。プーチンをG7の枠組みに戻すとか、鈴木宗男のようなセンスを持った政治家で、もしそれが実現すれば、武力による国境変更ありの国際社会が現出することになる。トランプの暴走を止めるためなら何が起きてもおかしくないという感じになるかもしれない。たとえば欧州の友好国を訪問しているトランプを、警護を担当している現地の警察官の一人が暗殺するみたいな。
 石破首相のホワイトハウスでの固い表情、愛想もなんにもない記者会見での様子は、なんとかうまくやろうというんじゃなくて、私はあなたと必要以上に関わりたくないという表情だったのかな、とか。この人は安倍首相と対立しはじめてから与党の中で冷や飯を食ってきて、その中でずいぶんと忍耐することを覚えたようなイメージがある。国内では少数与党で、同盟国のアメリカはあんな大統領だし、隣国は政治秩序が崩壊しちゃってるしこんなどこにも走れない状況で、ひょっとしたらベストの総理大臣かもね。たとえば高市とか河野だったら、ここまで粘り強い政権運営ができただろうか?

この石破・トランプ会談が2月8日というからもう10日たったのか。ここから私は色々考えはじめ、noteの記事を書こう書こうと思いながら、chatGPTに色々聞きながら考えているうちに、最終的には「これは世界征服計画やないか!」と思った。そう思ったら、労力をかけてまとめるのが馬鹿馬鹿しくなったのでまとめるのはやめて、ダラダラと書くことにした。

 noteを初めてから半年ぐらいたった。今のところ1ヵ月に6、7記事ぐらいずつ書いている感じだ。前やってたブログは最後には1カ月に1個書ければいいほうで、下手すると数カ月に1個という感じだった。私はこの世でいちばん好きなことは文章を書くことなので、これは少なすぎるのだが、なんか最後はこうなってしまうのだ。私がもしニワトリだとすると、丸々としたタマゴを生もうとしすぎるような感じだと思う。私がなぜ文章を書くのが好きかというと、二つあって、一つは自分の内側にあるものを外側に形にしたいということ。つまり表現するということだ。表現したものは他人の目にさらされる場所に出すかどうかは時と場合による。絵にたとえれば、ただ描いて、壁に貼って自分で眺めるというだけでもわりと楽しいと思うけど、それをあえて額に入れてあらたまって見るというのもよくて、それがnoteとかブログとか人の目に触れるところに自分の文章をさらしてみるということにあたると思う。私が書くという作業を大切にしているのはもう一つ理由があって、それは、書くことで初めて思いつく考えつくことがあるからだ。これはたぶん文章を定期的に書く人なら誰にでも起こることだろう。あるいは友達と喋ることが多いとか、人と議論する場によく出るという人なら、喋ってる最中に、1秒前までこんなこと今まで考えたことがないという新しいアイデアを自分が喋ってる、なんてことをよく経験しているのではないか。こういう経験は自分の内面世界が広がるということを意味すると思う。外面世界にたとえると、普段散歩してる道で、ここは曲がったことがないなという道に入ったら新しい店を見つけてそれがお気に入りになったみたいな。
 私が今までのブログで失敗したなと思うのは、書くことの1番目のほう、タマゴを生むならなるべく丸々とした整った形で生みたい、みたいな意識が強くて、2番目の、なんかひらめくという機会を犠牲にしていたと思う。今のところnoteでは、このぐらいがいいペースじゃないかという感じだ。私はブログなどではどんどん記事が長くなっていってしまった。だからnoteではなるべく短い文章も書こうと意識しているが、でも「あ」って1文字だけ投稿しても意味ないし。
10日前の石破トランプ会談で考え始めて、10日たってもまとまる気配がないし、無理やりまとめるにしてもそれだけのまとまった時間もいつとれるのかも分からないので、もっといろんな表現の形式の可能性を広げる試みをしたいと思う。なんじゃこりゃ?ってなってもいいです。

なぜ石破・トランプ会談を見てて「世界征服計画」を思いついたのか?これも自分でさえ分からなくなってるので、やっぱまとめるのは無理っぽい。「世界征服計画」ってふざけた表現だけど、じゃあまったくふざけてるかっていうと、そうでもなくて一部けっこう本気だったりする。ただし軍事力で征服するんじゃなくて、イメージとしては、すごい昔の「猿の惑星」っていう映画のラストシーンみたいに、「ああ人類は猿に支配されちゃったのか!」って白人が嘆く場面がある。この映画は、1960年代の日本の経済的台頭がアメリカで警戒感が持たれて、「もし日本が世界を支配するようになったら」っていう心配がこの映画の製作の動機になったという話がある。公式にはそういう事実はないということだそうだが、あれを見た人の中にはそう解釈した人が一定数いたという。それはどうでもいいのだが、日本人でなくても、どこか特定の国が世界を支配したら嫌だなあって多くの人が思うだろうけど、そうじゃなくて、「気づいたら世界全体が日本みたいになってたね」ってみんなが思って、しかも「よかった」って思うような、そういう世界を思い描くということである。別に日本の領土は増えなくていい、というか、増えたら面倒なので、国境は今のままで。今のままで、外国でも、たとえば日本語だけで暮らせたり、日本円で買い物できたりする場所があるし。そんな世界が実現することが世界の平和なんじゃないか?という発想で、じゃあそれはどんなふうに実現するか?手順というよりは、ここがこう変化したらそれは日本でしょ、ということを示す、みたいなことを思いついたのだ。
なぜ世界が日本みたいになるといいのか?というと、以下の文章が根拠である。

 なぜ日本は軟体動物社会であるのか…いろいろ考えて、徳川時代のこととか島国説とかを検討してみました。そうするうちに、急に、日本を説明するより、非日本社会を説明すべきであるということに気づいたのです。するとすぐ外国との戦争のなかった唯一の国であるということが頭に浮かびました。…原因はほかの社会に共通していて、日本にはないもの…それは一つしかありません。…外国人との戦争です。(G・クラーク×竹村健一「ユニークな日本人」p127-128, 1979年 講談社現代新書)

 昔、ワーホリから日本に帰ったら、たぶん誰でもそうなると思うけど、ものの見方や関心の持ち方が日本で暮らしていた時と違うようになった。私の場合は、日本と外国の比較みたいな本を手あたり次第読むようになった。

 私はそんなに長く渡航したことがなかったので、渡航後間もなく出てきた自分の変化に動揺した。何十年も日本を離れて暮らすと日本人でもそのうち日本語がカタコトになるというのは知っていたが、私の場合、わずか数週間で基本的な日本語があやふやになってきた。ふりがな、たとえば「投げる」なのか「投る」なのか分からなくなった。私は直前まで学習塾で国語の先生などをしていたのだ。これだけ日本語の能力がぐにゃぐにゃになってしまっては国語の先生なんてもうできない、とあきらめた。おそらく日本語の本もまともには読めないだろう。かといって英語だってまともにできるわけではない。中途半端な得体の知れない人間として生きていかなくてはいけないのか、と思った。
 しかし実際は逆で、帰国したら、まる一年、日本語の本を読んでなかったからその反動みたいに、簡単な新書ばかりだったが、2週間で20冊ぐらい読んだ。私は出国前は、どんな簡単な新書でも、1冊を1日で読めたことはなかったが、それができるようになっていた。
 帰国後数年間は、日本と外国の文化比較みたいな本があると、磁石が鉄にくっつくように読んでいる本にロックオンしてしまうのだ。ある時は古本屋でそういう種類の本を見つけて、部屋に持ち帰って、コートも脱がずに読み出し、そのままの姿勢で、けっきょく最後までいっきに読んでしまった。5時間たっていた。BGMも何もない一人の部屋で、私にとってはこれ以外何も望むものはないという至高の時間だった。
 あの頃読んだ本の中には「菊と刀」「甘えの構造」「タテ社会の人間関係」みたいな国際的に読まれている学術的なものもあり、外国人の日本滞在記、日本人の外国滞在記みたいなやわらかい本もありと、硬軟いろいろ、楽に100冊以上読んだ。中でも「日本人とユダヤ人」と、冒頭の引用の「ユニークな日本人」の2冊にいちばん興奮させられた。動悸が激しくなりアドレナリンが分泌されるのを感じた。スポーツ好きの人が、応援してるチームの優勝がかかってる試合を見る時ぐらい興奮しながら読んでたと思う。

 残念ながら上記の「ユニークな日本人」という本は既に絶版になっていて入手は容易ではない。G・クラーク(英国生まれ。オーストラリア外務省勤務を経て来日、多摩大学学長などを務めた)はここで、日本文化が他の国の文化と根本的に違うのは、外国人との戦争経験がないところに築かれた文化であると論じている。もちろん日本は80年前までアメリカと大きな戦争をして、天皇イデオロギーみたいなものをいちおう作ったが、クラークはそれを「自国本意のバカバカしいイデオロギー」と一蹴する。

イデオロギーになるのには、最低五百年から千年くらいかかるんです。70余年では無理なんですね。
わずか70年のあいだに、われわれが千年、二千年、三千年の歴史でつくりあげたような、きれいなイデオロギーをつくることはできなかった。
それは長い歴史でみたらほんの短い期間だったから、第二次大戦で負けてみると、すぐに消えた。」(p129-130)

外国を旅行して、けっきょく自分の国がいちばん素晴らしい場所だ、って発見するのは、決して日本人だけではなくて、古今東西そういうものであるようだ。私の場合はたまたま日本人だから日本が良いってなった、ということだ。しかし、ただ自国ひいきなだけか?それ以上のことはないか?という可能性を追求した論とも言えよう。世界じゅうの国が、自分の国だけは特別なんだ、って思うことがそれぞれあるだろうけど、外国人にそう言ってもらえると心強いということがある。G・クラークがどう言ってるかというと、もともと世界は日本みたいな人情とか人間関係の世界だったと。しかし価値観が全然違う外国人というか異文化人と接すると、イデオロジカルな社会になるという。自由とか人権とか民主主義とか、普遍的な価値観があるのだ、個々人の好みは色々で、それぞれ勝手にやるとして、それでも一つの社会としてやっていくために、普遍的な価値と定めたものを守りながら社会運営していけば、多様性と秩序が同時にある社会ができるだろ?という。島国で、異文化人が侵略するのは難しくて、しかも文化だけは大陸から伝わってくるという絶妙な位置にある場所ってなかなかない。イギリスは大陸と近すぎたのでどんどん大陸からやってくるし。オーストラリアとかガラパゴスとかは遠すぎるのでそもそも文明が来なかったとか。日本は大昔から文化だけ来て侵略者は、たまに来たけど台風が吹いたりして助かったみたいな。つまりクラーク説によると、日本の特殊さというのはすべての人間にとって自然なんだ、という。但し、外国と接すると日本人自身がイデオロギー的になってしまって、つまり本来の日本っぽさを忘れてしまう。戦争があるとイデオロギー的な国、たとえばアメリカなんかは、ますます冴えわたってイデオロジカルになる。日本は見失う。見失わないために、「ここに戻りましょう」っていう目印があれば戻って来れる。最初は私はそういう個人的な目印を書き留めるために考え始めたんだけど、日本人だけじゃなくて、外国の人もそうなればそこはもう日本じゃないか、と。
もう日付が変わってしまったので今日は寝よう。続きを書くとしてもまた別の日に書こう。

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