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装飾について考えてみたい

 過去には、建築におけるいろいろな主義が存在して、いまや、それらは合わさったり全く違うものだったりして、実際に、現在ではそれらを体系的に表すことや一主義に沿って説明されるということはなくなりつつあるように思う。日本人に限らず誰もが彼ら自身の描きたい線を紙面の上で展開して、図面と呼ばれる設計図を作成するということが当たり前になった。それらは一様式に沿っていわゆる秩序を考える必要性もなくなったし、それらに対する回答としての正解もなくなってしまった。
 今や、そういう政治的なイデオロギー的正しさからは疎遠になって、新しい物語によって建築は編まれるようになった。あるいは、対象が大衆に変わったことによって建築の大きな物語は生活のスケールにまで縮小されてきているともとれる。
青井哲人氏は、著作『ヨコとタテの建築論』にて、このような形と言葉の関係性においてわかりやすく次のようにまとめたと、私は感じた。

(前略)建築は、イメージのようにS(Substance)との類似によってF (Form)を決めるのではありません。(中略)そして、人々が社会的・歴史的に蓄積している伝え方や受け取り方の習慣を踏まえて、Sに対するFの「ふさわしさ」を左右する修辞学にこそ軸足を置いている、いや置かざるを得ないらしい。

『ヨコとタテの建築論』 青井哲人 著 

 今の時代において、私たち設計者が様式を準拠することはない。それは社会の大多数において、それは民衆となるが、その都市のカタチとしてふさわしくないと判断されてしまう。ここで言われるふさわしさというのは、ウィトルーウィウス 建築十書の第一書第二章にて登場する美を構成する一要素として登場するDecorという概念である。通常、Decor はそのふさわしさを問う概念として建築史ではよく知られている。ふさわしさをもう少し考えてみると、それは服の似合う似合わないというように、なんとなく、直感的に感じとるたたずまいのことを言い、これが個人の身だけではなく、社会の一地域、それはつまり都市にとって良いかどうかを問う概念である。
 これが偽であった場合は、その建築がふさわしくないとして、何らかのありとあらゆる力が働いて、その計画は白紙になってしまうだろう。そのときは、だれがそう思うのかにもよるのだけれど。

 過去の様式に基づいた設計や、イデオロギー的正しさに基づいた合理性や機能性はついに過去のものとなったとしたが、現在は、異なっているのだろうかと考えてみると、実際は全く同じで、修辞学的論理学的立場にのっとって、ふさわしさの検討がなされていることは、設計者諸君もよく感じるところだろう。ナショナリズム的な立場がなくなっただけであって、現在は、浮足立った謎の経済理論や、国民が直感的に感じとる機能性、あるいは法的解釈という物差しによって、建築のふさわしさは測られて、計画されている。

 しかし、私はこのふさわしさという物差しによっていろんなカタチが取りこぼされ、建築がつまらないものになってしまっていると考えている。バブル期に作られた建築たちを、今の建築と対比させることはできない。カタチとナカミのバランスが全く異なっているから。しかし、土着の素材を使うことだったり、地域特有の建築形態に準拠させたいとしたとき、あるいはこの場所に必要だとされたカタチであることを明示したいときのレトリックは、現在のふさわしさのものさしで測ると価値なし、0であることによって、大規模な建築などにおいては、それらが大層安く手に入る場合を除いて、同じ素材を、異なる場所で使うという状態になってしまっている。設計者は、地域によって異なるため、建築そのものは違ったものには見えるが。

 あくまでも一例であったが、私の思う問題点は、ふさわしさというれレトリックが強すぎて、言語的解釈が優位すぎて、カタチというのが、まったく世にメッセージとして伝わらない悲しさがある。

 私は、そのモノに対する、人々の所感をいわゆる装飾、表面の性格のようなものとして、考え、その装飾の言語について考えてみたい。それは、装飾の持つ言葉によって伝わるものの限界を考えてみたいのであって、それ以外の装飾にまつわるあらゆる事象を、言語の外において保護できるものではないだろうか。そのように立て訳を行うことによって、装飾の言語化における、論理的考察の限界を共有できないだろうか、あるいは、整理できないだろうかということを、例を用いて考えてみたい。

 また、それらの装飾の言語は、いったいどれだけ、社会に馴化できるものだろうかということを考えてみたい。社会にどれだけ通用するものになりうるかを定量化してみたいという欲求がある。

 その結果を用いて、装飾という文字に依らない、建築のカタチとも、表面ともとれる概念を、より適切な場面によって使い分け、評価軸の確立などを行っていけないだろうか。
語れ得ぬ像を、語れ得ぬまま、理解してもらえないだろうか。

 あくまでも、理想とする景色は、文字に依らぬ表現や思いがそのまま伝わるという以心伝心の夢物語であるけれども、それらの言語化による試みは何かの別の興味につながっていくと信じてやまない。

装飾よ永遠なれ。


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