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聖書という書物

今日世界には、二十億ものキリスト教の信者が存在すると言われ、この人々が世界で最も信者数の多い宗教を形作っています。
キリスト教徒はイスラーム教徒の住む地域にも存在し、広範な布教の努力により、仏教国とされる日本のような国にも一定数存在することからすれば、明らかに全世界に広まった大宗教と言えましょう。

キリスト教徒の経典は「聖書」と呼ばれますが、この書はとてつもなく古い由来を持つにも関わらず、現代では頒布数で世界一となっています。
聖書全体の原本はすべて失われてはいますが、最初の部分を欠いた預言者モーセの時代、遅くとも紀元前千数百年から、それ以前の資料も含めて編纂し、創世記から各巻物にまとめられ始め、紀元第一世紀の終わり頃のキリストの直弟子たちの時代にまで千六百年間に執筆が及んでいるのです。

つまり、ひとりの教祖や特定の世代の人々だけによって書かれたものではなく、永い永い期間に亘って、その時代毎に筆記者が現れては書き継がれてきたという特殊な書物であるのです。そればかりか、その内容が時代を経る共に深く意味が明かされ、また以前に書かれた預言の予告が成就し、謎が解かれて、いよいよ深化し発展していったところは、神秘的と言って過言でありません。それぞれの書物が関連し、全体の意味を補い合っているために、ただ古い著作の寄せ集めとは言えない不思議がそこにあります。
つまり、人間の筆記者の背後に居る「終始一貫した意志の持ち主」の存在を想定しないわけにゆきません。

聖書は通例には六十六の分冊から構成されますが、それぞれの書にはある種の「聖性」のようなものが宿っていますので、この書を育むことを任されたイスラエル=ユダヤの民は、聖典に含める水準に達しないありきたりの著作を聖書から除外してきました。

その排除された一部は、聖典の外に置かれたために「外典」また「疑典」と呼ばれています。それらの書物には、清さや高邁さ、天的な画期性を欠いてしまっていることで聖書に含まれた諸書に達しないことは読み込むと明らかになるものです。

旧約聖書は西暦第一世紀の終りから第二世紀にかけて、ユダヤ教の学者らの検討によって現在の39書に精選されました。その規準はヘブライ語本文の写本が無いものが除外されたのですが、当時までにギリシア語で書かれた内容の多くの雑多な書物が多かったので、これは適切であったと言えるでしょう。
それでも歴史上の記録などを通してそれら普通の書物も聖書理解を助けるところはあり、カトリック系の新共同訳など「続編」として幾つかの外典をギリシア語から訳して載せている聖書もありますから、それらと正典との違いを味わってみることも良い読書経験になるでしょう。きっと、聖なる書とそうでない書の違いを感じ取られることでしょう。

ヘブライ語と一部アラム語で書かれた「旧約聖書」は、聖書全巻のおよそ三分の二を占め、非常に古くからの歴史を語り、イスラエル民族に与えられた法律「モーセの律法」を記録し、預言を宣告し、また霊感を受けて詠まれた詩歌や格言を編纂したものが集大成されたものですが、それぞれの書には気高い風格と、後代に起こった事を予め述べている不思議と、いまだに解けない謎も込められています。

その旧約聖書が書き終えられて四百年後に起こった出来事、つまり、旧約聖書の中に予告されていたメシア、つまりキリストとされた類い稀なイエスという人物の登場と言葉と行動を記したものが四つの「福音書」であり、続いて「使徒たちの活動の記録」、また当時の人々を教え、キリスト教を完成へと導いた使徒らからの「手紙類」、そして終末の預言である「黙示録」を含めて27巻から出来上がっているのが「新約聖書」です。

このキリスト以後の新しい時代に属する聖書は、当時の国際語であったギリシア語によって成立していることろが、旧約聖書との大きな違いですが、その内容はキリストの死を通して人類の罪が赦されるということろに意義があり、これは旧約聖書だけを奉じるユダヤ教がモーセの掟である「律法」を守って神の前に正義を得るという基本的信条を持つこととは対照的です。

双方の聖書には見事な文学性や、人間の本質を突くような鋭い指摘があるため、人類文化に与えてきた影響にはたいへん大きなものがあります。しかし、聖書の教え本来の目的は文化的影響を与えることではありません。
新旧の聖書は書かれた時代も言語も異なり、その教えには旧約と新約という段階の違いがありますが、双方の教えは綿密に関連して補い合っています。
それは幾らかこの書に親しむことで、人間の思惑を遥かに超える神のずっと変わらぬ強い意志が双方の書を貫いていることに注意が向くことでしょう。

その神の意図するところは、創世記のはじめの時代から五千年以上の時を巡り、最終巻の黙示録に描かれる将来に至るまでも漸進的に語られ、神のひとつの目的がどのように成し遂げられてゆくのか、それがこれらの諸書の中で次第に明かされてゆくことです。その構想の大きさ、関係する人々や世代の多さ、悠久の時にわたるその歩み、また未だに解けない多くの謎も含んでいる事を知ると、筆者らの背後にあってこの書物を著し続けた偉大な存在者の前に人は謙虚にならざるを得ないでしょう。

しかも、それらの記述の目的とするところは、我々人間がどんなに求めても得られることのない、数々の優れたものをもたらすことなのです。その一つには人類を『この世』という悪と苦しみの横行する世界から、キリストの支配する『神の王国』へと救出するという偉大な計画があります。

聖書の目的は、人間がただ神を崇拝するようになることではけっしてありません。人生をよりよく導くための指針がもっぱら書かれているわけではありません。
また、人間を裁いて死後に天国に召したり地獄の懲罰を与えたりすることでもありません。人間たちの上に主権を唱えて君臨することさえ神の目的ではないのです。
その目的は、神との絆を失っている人類を、キリストの犠牲を介して創造されたままの栄光ある姿に回復し、死と諸悪から解放することにあるのです。


⇒ 「聖書というもの

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