今も まだ【統合】しきれて ないけれど。
今回は、こちらの記事に続いて、少々重たい記事になります。↓
この記事の最後で、夫に言われた言葉を シェアしました。
確かに、
・生きるか死ぬかの状態に至って、
・肉体も 何もかもが【再誕】した感じで、
「一度、死んだようなもの」なのは、間違いないのですが・・・
その【捉え方の重さ】というか、【コトの重大さ】というか、
それが、入院中から、ずっと、わたしの中で 統合しきれずに 分離し続けています。
夫も、近しい友人も、転院に関してお世話になった方々も、医療者も、リハビリスタッフも、
「命が助かって本当に良かった」
「死ななくて良かった」
「搬送されたとき、『奥さん 死んじゃうかもしれませんね』と言われた」
「転院のとき、『命の保証はありません』と言われた」
「それが、ここまで回復して・・・本当に良かった」
と、ことあるごとに、わたしに伝えてくれました。
そう言われる度に、感謝しつつ・・・
自分の中に浮上する【違和感】を否定できませんでした。
正直 【自分の死】を 身近に感じていなかったんです。
【自分が死ぬかもしれない】という 怖れも ありませんでした。
ミッションストーリーの中で、
「これって・・・【わたしが、間違って 命を落とす】ことを 良し としている???」
「自分の命は自分で守らなければ!」
と想ったことはありましたけど、それは、発奮しただけで。
怖れからではなく・・・。
深いところで、ミッションだと分かっていたからなのでしょう。
本当に、自分の死 をイメージしてなかったのです。
ミッション終了後、そんな自分を 裁き続ける日々が続きました。
(今も、まだ、少し残っています)
《夫に、家族に、周りの人に、これだけ心配をかけながら、わたしだけ 実感がなくて飄々としていて・・・とても申し訳ない。》
《入院してからずっと、わたしの実感と、他者の評価が 乖離しすぎてて、なんだか氣持ちが悪い》
等など・・・。
わたしの実感が薄いのは、
・搬送時から 意識障害もあった
・転院前後で 妄想の中に置かれてしまった
ことも理由でしょう。
記憶も定かでなければ、
自分の体験したことの どこまでがリアルだったのかも ぼんやりしていて、
曖昧なのです。
(退院後に一応、ペンデュラムで確認しましたけどね)
入院中から、ずっと、氣になってました。
関わる人が、腫物に触るみたいに わたしに関わることに。
《わたしは、元氣で 回復も早いのに、なぜに そんなに慎重に扱われるのだろう? 確かに、体重は 異常な程に減ってしまったけれど。》
そんな想いを、ずっと持っていたのです。
ですが、【それが、無理も無いことだった(当たり前のことだった)】 と自覚できたのは、5月も半ば。
リハビリ病棟に移って、主治医や夫とはじめて 面談したときのことでした。
主治医が、転送元から送られてきた【診療情報提供書】や、転院後の【内科での治療経過&検査結果】を読み上げ、
3月頭~5月半ば までの 流れを、ひとまとめに 聞かされたとき、
「・・・・うわぁ・・・・わたし、本当にヤバかった(死ぬかもしれなかった)んですね」
と、やっと、やっと、深く実感できたのです。
元看護師の立場からも、客観的にも そう理解できました。
そして、このとき初めて 怖くなったんです。
・こんな大事なことを、実感できずに 過ごしてきた
・正常な判断が出来ないほど、意識障害や妄想が起こっていた
そんな自分に・・・。
主治医の前で、
「わたし、自覚できてなかったですけど、意識障害 続いてたんですね」
と、言葉にすると、
「そうみたいだね」と、主治医も、夫も、納得するのでした。
(※ その間、高次元でのミッションは 達成できていましたし、高次元的には、まったく問題ではなかったんですけどね)
そうして、退院してきてから、夫に言われた
「(りかこは)一度 死んだようなものなのだから」
の言葉に、
夫に与えたダメージを 痛感して、これまた自分を裁く材料となったのです。
(夫が これを言葉にしたときには、夫も だいぶ軽やかにはなっていましたけどね。夫の中に深い傷を残したことは確かですし・・・)
・夫は、医療者から【わたしの死を覚悟するよう】言われてた
・夫が目にした 当時のわたしは、そう思われても仕方ないほどの【るい瘦状態】だった
・わたしが搬送されて以降、夫は ひとり この家で、何を想って過ごしてただろう
等など・・・
言葉にして確かめることでもないですし、
夫に想い出させるのも酷ですし、
夫が自ら言ってこない限りは、掘り起こすつもりもないですし。
夫も、潜在意識では ミッションに参加していたものの、
顕在意識では、ショックだらけで。
今は ただ、心の中で 夫への謝罪と感謝を伝えるだけに留めて、
夫が日々 癒されていく(元の夫に戻っていってる)のを確認しながら暮らしているのが【今ここ】なのです。
そして、先日は、夫の内面を想い図るような 体験がありました。
入院前に 夫と楽しみに見ていた ドラマ【星降る夜に】の録画を、ひとりで 観ていてのこと。
《わたしの入院中に、夫はひとりで 最終話まで 観終わってるだろう》と思っていたら、
残り3話が 未視聴 になっていて。
《わたしと観ていたドラマだったから、ひとりで観る氣になれなかったのかな》
《わたしが 生きるか死ぬか の時だったから、ドラマみてるような ゆとりは無かったよね》
というところまでは、浮かんでたんですけどね。
録画を観て、氣づきました。
《あの頃の夫に、このドラマは観れなくて当然だ。》
《死もテーマとなってるドラマ。あの状況下で 夫がひとりで観るのは酷だ。》
そう氣づいて、また、自分を裁くような感情が湧いてきました。
と いう感じで、
・こういう展開になってること、
・自分の内側で統合しきれてないこと、
を、今は まだ、在るがままに、受容しています。
【誇り】となるまで には、もう少し時間が 必要ですね。
焦らず 丁寧に 統合作業を続ける日々です。