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物理学の波動関数の扱いはどこまで数学に寄せるべきか?

量子力学を学ぶときに必ず出てくるのが波動関数ψです。前世紀の教科書では、このΨは謎の多い対象として、観測問題なども真剣に論じられていました。シュレディンガー方程式を満たす複素関数であり、その絶対値の2乗は粒子の位置の確率密度分布を与えるくらいしか、当時はΨの定義がありませんでした。

ところが現代では、量子状態トモグラフィ法によって、きちんと操作論的に定義が成されています。

幾つかの物理量の確率分布の測定によって、状態ベクトルや波動関数は実験的に決定することが可能な概念となっています。

しかし前世紀には、謎の多いΨの物理的意味を追求するためにも、しっかりとした数学的基礎をΨに対して構築しなくてはいけないと思っていた人も多かったのです。それで数学の厳密な関数解析学で波動関数を扱うのが上等であるという価値観が長い間に醸成されてしまいました。現在でも未だその価値観に引きずられている教員が結構居て、量子力学の講義や教科書で数学の関数解析を教えている場合もあります。

しかし私の意見は、物理学徒に関数解析の数学から教えることは、21世紀の現代において、ほぼ無意味であるというものです。実証科学の立場では、例えばヒルベルト空間で要請される完備性などの数学的前提は、これまでの実験から全く必要とされていないからです。完備性のチェックができるような領域での実験は現在成されておりませんし、いくら小さかろうとも必ず実験誤差が伴う物理学の実験では、将来的にも完備性の検証は不可能です。また完備性を持たない理論モデルでも、十分にこれまでの実験結果を説明できてしまう事実があります。これらについては下記記事をご参照ください。

理論物理学の実証主義に基づいた教科書である下記の拙書では、状態ベクトルや波動関数は、基準測定によって準備される特定の状態の系に、可能なあらゆる量子操作を施すことで生成されます。

基本的な物理操作は数学的にはユニタリー演算子で書かれますが、これをユニタリー操作と呼びます。量子コンピュータ理論のおかげで現在では、マクロでも少なくとも有限系ならば、有限種類の量子論理ゲートの組み合わせ、つまり「量子回路」によって任意のユニタリー操作を任意の精度で近似できることが知られています。その操作を特定の状態にある量子系に行うことで、任意の精度で任意の量子状態を生成できるのです。

多量子ビット系の量子論理ゲート(『入門現代の量子力学』(堀田、講談社)第14章)

将来は高精度のマクロな量子コンピュータも実現してくるだろうと予想されています。そのような時代には、状態ベクトルの実験的な生成自体に、その量子コンピュータが使われているだろうと思われます。この場合に生成される状態ベクトルの集合は、ヒルベルト空間の中に稠密に分布はしていますが、量子回路の現実の離散性、有限性のために決して完備性を満たすようにはなりません。実数空間の中の有理数の分布のような感じになっており、任意の実数を有理数によって任意の誤差で近似しているのと同様になります。コンピュータは古典でも量子でも、基本的には「デジタル」なのです。しかし実証科学としての量子力学においては、このような状態ベクトルだけで十分なのです。

これまでの実験結果から直接要求もされていない、また未来においても決して実験で検証ができない「完備性」を勝手に信じることは、実証主義の立場で言うと、根拠のない迷信と同じなのです。

そもそも物理学が物(モノ)の理(ことわり)を探る学問であるということは、つまり「モノ」の定義や本質がまだ分かってないからこそ探るということです。「完備性を満たす」などのように、あらかじめ対象を厳密に規定をして論理を構築していける数学とは異なり、実証科学である物理学では、ただ1つしかない、複雑、不可思議な現実の自然と向き合わざるを得ません。

物理で考える波動関数ψの定義域や値域も「Ψ: 自然→自然」という共通認識に基づいています。その定義域や値域には、これまでの実験観測で知られている領域で妥当なものをとりあえず設定し、詳しくはこれから調べていくのです。それこそが実証科学としての物理学の態度なのです。

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Masahiro Hotta
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