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量子力学は誰のもの? ~実在論ではない認識論的な量子力学~

現代物理学の量子力学とは似ても似つかない疑似科学としての"量子力学"の記事が、ネット上では増えています。実際には物理学の量子力学は「引き寄せの法則」などとは無縁です。量子力学の「観測問題」に関わるなんらかの機構に基づき、意識によって対象が変わるとか、量子もつれは非局所性を持ち、引き寄せの法則の源であるという言説も、科学的には全く間違っています。

エネルギー保存則や熱力学第2法則と同様に、この世界では人間は際限なく何でもできるわけではないことが、量子力学を考えるうえでの大事な出発点です。また重要なのは、量子力学のコペンハーゲン解釈です。これは、意識の問題と科学の問題をきれいに切り分ける、とても切れ味のいいナイフの役目をしています。
 
まず自分がいて、自分の五感やその先にある様々な機械装置も使って、自分にとっての外部世界に刺激を与えてその応答を収集し、その情報を解析するのが科学です。量子力学で特に重要なのは「可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく意識を持った自分は存在している」という前提です。これを実証科学を始めるための1つの公理として認めます。量子力学自体は、飽くまでそういう自分という人間の営みだということです。

量子力学は、観察される対象系とそれを観測する自分(と使う測定器)の分離が、合理的に達成できた場合のみに有効なのです。「もしその設定が確保できたならば、こういうことが確率的に言えます」と量子力学は教えてくれるだけなのです。

一方で、「自分以外の人間にも、自分と同様の意識があり、可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく」という主張(命題)には、実は反証可能性がないことがポイントとなります。つまりどんな科学的手法をとっても、この命題の真偽は決定できません。

もし「自分以外の人間にも、自分と同様の意識があり…」という命題が反証可能ならば、例えば相手が意識を持った人間か、それとも意識を持たないAIかという問いの答えも、与えた質問(刺激)に対する回答(応答)だけから合理的に決定できる方法があるべきです。これはチューリングテストとも呼ばれます。しかし質問と回答(刺激と応答)だけでは相手が意識を持っているか持っていないか、分かりようがありません。どんな刺激に対しても人間の反応パターンをよく考慮したプログラムを組むことは原理的には可能だからです。実際、最近では会話をしていても、人間と区別が無くなってきたAIが増えています。

物理学を含む実証科学では、「相手に自分と同様の意識があって、自分と同様にただ1つの事象を時々刻々経験しているはず」ということは、実は証明しようがないのです。これは、人間の意識の問題自体は、量子力学や科学の対象外であるということ意味しています。つまりメタ科学の話に過ぎません。

しかし興味深いことに、「自分は特別な人間ではないだろうから、他の人間も自分と同様に意識がある」という平等性、一様性を、証明不要の公理として量子力学の他の公理系に加えても、理論としては整合したままで、矛盾を決して起こさない構造を量子力学は持っています。この部分はとても非自明で、かつ大事な性質です。「 量子力学が自分の未来の体験に関して語ること」と、「同じ量子力学が他の人間に起きるだろう未来の体験に関して語ること」とが矛盾してしまうと理論は壊れていることになりますが、量子力学という理論はそういう矛盾を決して起こさない構造になっています。

更に、「人間と同様に、将来AIが意識を獲得して、可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく」という新たな公理を加えても、量子力学の体系は破綻しないのです。量子力学が予言するAIの体験と人間の体験とは互いに矛盾を起こさない構造を持っています。だから、量子力学は決して人間だけのものではないのです。AIでなくても、サルでもイヌでもネコでも、彼らが量子力学を理解して、波動関数から事象の確率を計算して実験できれば、同じことです。量子力学を使いたいユーザーの環境が整えば、量子力学は自分のユーザーを選ばないのです。

標準的なコペンハーゲン解釈に基づいた量子力学では、「意識」という用語は最小限の公理の中にしか現れず、それ以外のところではきれいに切り離されています。従って量子力学には、意識の問題に関して何かを答える力はありません。主体である自分に安定した意識があるという前提をクリアにした状況においてだけ意味をもってくるツールに過ぎないのです。自分の意識が世界を微細なところまで最大限理解したいときに使える、人間に許された極限ツールと言えます。

なお科学としての量子力学では、近似的にでも主体的な自分に安定した意識があるという前提が実現していれば、それで公理は満たされているとし、その環境で人間は何を体験できるかということを量子力学は教えてくれるというだけなのです。この前提が厳密に成り立つのかという哲学的問いは、プラグマティズムの実証科学としては意味を持ちません。「自分の意識が瞬間瞬間1つの体験を認識し続けている」という多くの人々の経験談は世の中には溢れております。彼らの意識が混濁しない状況が続く限り、その人々はこの認識論的である量子力学を合理的に使えるのです。このプラグマティズム的視点だけで、科学者には十分です。

意識が対象に影響を与えるという誤解の元となっている「波動関数の収縮」については下記ブログ記事を参照してください。

波動関数とは物理量の確率分布に基づいた情報概念に過ぎず、波動関数の収縮とは観測によってその対象系の知識を得たことで、その情報としての波動関数が更新されることに過ぎません。自分にとっての対象系の知識が増えただけであり、自然に出てくる対象からの信号を「見る」という受動的な観測行為が、その対象に物理的影響を与えるわけではないのです。

世間の人が思っていることに比べて、物理学者にとって量子力学は凄いものではありません。それは世界を読み解くために必要な情報を与える単なる道具に過ぎないのです。量子力学が示す世界描像が、人間の普段の生活に比べてあまりにかけ離れているために、なじみが薄いというだけです。今後は感覚的にも、このような量子力学を直観的に理解している量子ネイティブが沢山現れると思っています。読者の皆さんも是非そういう量子ネイティブを目指して欲しいと願ってますし、量子力学はそういう皆さんのものだと思います。

量子ネイティブを目指す物理学科学生向けに、下記の教科書を書いております。



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Masahiro Hotta
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