量子力学の物理量は複素数では駄目なのか?
この『入門現代の量子力学』という教科書では、量子力学における物理量を明確に定義をして、理論化をしております。その物理量の定義の本質は、基準測定の複数の状態を区別する「名前」に過ぎないというものです。これは前世紀の量子力学教育からすると、ギャップを感じさせるものかもしれませんが、現代的な量子力学の定式化において非常に重要な点です。
任意のユニタリー行列に対応する物理操作が可能であると認めると、エルミート行列には必ず物理量が対応します。教科書では、そこでその物理操作と基準測定を組み合わせて、エルミート行列に対応する物理量を定義するのです。
従来物理量がエルミート行列(または演算子)に対応するのは自明だと考えられてきましたが、その逆は自明ではないと言われていました。つまり「任意のエルミート行列には物理量が対応できるのか?」という問題がありました。しかし量子コンピュータの理論の発展で、任意のユニタリー行列に対応する物理操作が、量子回路で実現可能だと考えられるようになりました。そしてその結果を使うことで、任意のエルミート行列には物理量が対応する(そういう物理量を操作的に定義できる)ことがハッキリしたわけです。なお電荷保存などによる超選択則がある場合ですら、その電荷が保存する合成系全体の状態空間での任意のエルミート行列は物理量に対応できます。
ところで従来から言われていた「任意の物理量はエルミート行列に対応する」ですが、これにむしろ注釈が付きます。エルミート行列にも対応するのですが、基準測定の状態を区別さえできれば物理量の資格がありますので、実はエルミート行列以外の行列に物理量を対応させることも可能なのです。
基準測定でk番目の結果が出たときに、物理量Aは実数a_kであると定義した場合には、下記のエルミート行列が物理量Aに対応します。
しかし同じ基準測定で、物理量に対応するユニタリー行列を定義することも可能です。例えば基準測定でk番目の結果が出たときに、下記の位相因子が観測されたと定義すれば良いのです。
すると基準測定で下記のユニタリー行列に対応する物理量が定義されたことになります。
この複素数である物理量の実部(cosθ_k)と虚部(sinθ_k)も、それぞれ量子測定で計量できます。例えば実部は、下記の相互作用でフォンノイマンのポインター基底測定装置と相互作用をすれば、正確に測定されます。(ポインター基底測定に関しては、拙書『量子情報と時空の物理【第2版】』(サイエンス社, 電子版)第2章を参照してください。)
虚部を測りたければ、上の相互作用においてユニタリ行列とそのエルミート共役行列の和の部分を、ユニタリ行列とそのエルミート共役行列の差に置き換えて、更に純虚数であるiをかけておけば可能です。
ですから任意の物理量にはエルミート行列も対応しますが、同時にエルミートではない行列を対応させることも可能です。ただ普通は面倒なだけですし、エルミート行列だけでも十分なので、そのエルミート行列を使って量子力学の物理量は通常議論をされています。
なおエルミート行列で定義される物理量は、基準測定での状態区別をする名前ではありますが、合成系のハミルトニアンに特定の対称性と物理量の保存則がある場合には、一部の部分系だけで勝手にその名前を変えることはできません。保存則が表現できるように、全ての部分系でその物理量を定義する必要があります。
現在では、時間発展のハミルトニアンは自然が定めている特定のものというよりも、量子コンピュータ技術の進歩によって人間が自由にデザインできるものになってきました。ですからハミルトニアンを「作る」という考え方にも慣れていく必要があります。昔でも実際には、水素原子に外場をかけたりしながら、そのハミルトニアンの形を制御して、エネルギー準位の縮退を解いたりもしていたのですから、ハミルトニアンは制御されるもの、人間が作るものという考え方は、本来それほどギャップを感じるべきものでもないでしょう。
前世紀の古い量子力学教育では、ハミルトニアンの形は「正典的、基準的、標準的」という語源である「カノニカルな」ものだと考えがちでしたが、現代的な量子力学のハミルトニアンは人間がデザインする対象です。量子コンピュータなどの量子技術の進展によって、量子系のユニタリー発展も、そしてその時間微分であるハミルトニアンも、人間が自由に設計する対象になったという認識は、これからの量子ネイティブにとって不可欠だと思っています。この認識を、多くの方と広く共有できればと願っています。