古典一般相対論でのホログラフィ原理
実は我々の観ている空間は幻想であって、我々を含めたこの世界の存在は2次元空間に刻まれたホログラフィの像であると考える「ホログラフィ原理」という理論が、現在世界中で活発に研究が進められています。
このような一見奇抜なアイデアが生まれたのは、量子ブラックホールの研究からでした。ホーキング博士が最初に指摘したように、ブラックホールは熱輻射を出すと考えられています。ホーキング輻射という名前で知られていますが、このことは容れものに過ぎなかったブラックホールの時空が、熱力学的な性質を持つことを意味します。ホーキング輻射の温度はブラックホールの質量に反比例をしています。その温度を輻射が出てきたブラックホールの温度であると同定をし、またブラックホールのエネルギーをその質量に光速度の2乗をかけた質量エネルギーであるとして、熱力学第1法則を適用すると、ブラックホールの熱力学的エントロピーが導入できます。自然単位系では地平面の面積Aを、重力定数をGとした4Gという因子で割ったものに、それは一致します。
面積に比例するというこのエントロピーは、体積に比例をする普通の物質のエントロピーとは随分と異なっています。熱力学的エントロピーは統計力学から計算できると考えられており、その物理系のミクロ状態の数の対数に比例します。ミクロ状態の数は通常体積Vに比例するのですが、ブラックホールではそれが面積Aに比例してしまっています。これではまるでミクロ状態が地平面上にだけに存在しているように思えます。ブラックホールに吸収をされた様々な物質の情報も、この地平面上のミクロ状態に保管されているのではないかと、トフーフトさんやサスキンドさん達が考え始めたことが、歴史的にはホログラフィ原理の提案と繋がっていきました。3次元的なブラックホール内部の情報は全て、その表面の地平面に漏れなく保存されて、やがてホーキング輻射に載せられて外部空間に開放されていくという描像です。
このホログラフィ原理は、量子重力理論の候補の1つである超弦理論での重要なテーマとして活発に研究が続いております。しかし面白いことに、このホログラフィ性自体は、量子ではない古典的な一般相対論で既にその片鱗を見せています。まず一般相対論での物理量には、普通の物質の物理量と全く違う側面があります。例えば重力場のエネルギー密度は、観測者や座標系に依存します。物質のある空間点でのエネルギー密度ならば、誰にとってもそれは同じ値を取るはずですが、重力場では人や座標系によってそのエネルギー密度の値が異なってしまうのです。「ここには、局所的にこれだけの重力場のエネルギーが溜まっている」ということが言えません。
しかしエネルギー密度を積分した重力場全体のエネルギーは、はっきりした値を持てます。そしてその全エネルギーは無限遠方の境界だけで評価ができるのです。それは重力場のエネルギー密度がある量の空間座標の微分で書けており、ストークスの定理から境界積分に変形できるためです。つまり3次元空間の中の重力エネルギーの情報は、2次元的広がりを持つ境界の中に十分に蓄えられていると言えます。これは古典的一般相対論におけるホログラフィ原理の1つの実現になっています。
一般相対論は一般座標変換をゲージ群とするゲージ理論として理解できます。重力場のエネルギーも、時間推進変換という座標変換の生成子として理論に現れます。このことを使うと、止まっているブラックホールの状態から、座標変換によって一定速度で走っているブラックホールの状態を作ることもできます。例えば図1のx,yで張られる慣性座標系に対して止まっているブラックホールは、その慣性座標系に対して一定速度で後退している別な慣性座標系x',y'から見ると、図2のように前に向けて走っているブラックホールに見えます。
ただしこれは1つの同じブラックホールを異なる2つの座標系から見ている、「見かけの話」に過ぎません。でもここで一般相対論が持っている一般座標変換不変性という対称性を考えると、これは物理の話へと変貌します。つまり図3のように、元の慣性座標系でも一定速度で走っているブラックホール状態の存在が物理的な対称性から証明されるのです。1つの座標系で止まっているブラックホール状態が確認できれば、走っているブラックホール状態の存在を予言できるわけです。
2つの慣性座標系を結ぶ変換はローレンツ変換と呼ばれますが、その変換は連続的なパラメータで指定をされます。そのパラメータを変えることでブラックホールは連続的に様々な速度、そして運動量の値を持つことが示されるのです。
では、地平面に目を移しましょう。ブラックホールの熱力学的エントロピーを導くはずのミクロ状態は地平面上にあると示唆をされています。そのミクロ状態も、図3のように対称性から生成できないでしょうか?実はできるのです。これは2001年の我々の論文[1]で示されています。我々と似た結果を後の2015年にホーキング博士らが再発見をして、ブラックホールのソフトヘア状態と呼ばれています。(ただしホーキング博士らの論文では我々とは異なる境界条件を考察しており、実際のブラックホールのような古典的領域でミクロ状態を生成することに失敗し、量子的領域を仮定せざるを得ませんでした。)空間無限遠方でのローレンツ対称性のように、地平面近傍には超推進対称性(supertranslation)、超回転対称性(superrotation)という物理的な対称性が現れるのです [1]。この対称性が地平面上に区別可能な多数のミクロ状態を生成しています。
まずは地平面近傍に或る座標系を入れると、図4のようにこれらの対称性の生成子となる電荷の値を零とすることができます。
この座標系に、下の式で定義をされる座標変換を施します。
すると新しい座標系では、零ではない超推進対称性の電荷を持つ状態が地平面近傍に作られます。一般相対論は座標変換不変性を持つため、図5のように、最初の座標系においても非零の電荷をもつブラックホール状態の存在が証明されます。
このブラックホールに対応するであろう量子状態を考えれば、それらは互いに直交をする状態ベクトルで記述される無限個のミクロ状態となり、それらの状態は地平面近傍で確かに実現をしていることになります。しかもその数から計算される統計力学的なエントロピーは、地平面の面積Aに比例することも近似の範囲で示すことができます。ですので、ホログラフィー原理と整合するミクロ状態が地平面上に存在していることが、古典的な一般相対論だけからも導出できるのです。量子重力理論が完成していない現在でも、ホログラフィ原理には、それを信じるに足る理由があるのです。これは大変興味深いことだと私は思っています。
[1] M. Hotta, K. Sasaki and T. Sasaki, Class. Quantum Grav. 18,1823 (2001).
サポートありがとうございます。