粒子なのか、波なのか?-量子力学的な対象の記述-
量子力学に出てくる電子は確かに古典粒子とは全く違いますが、それを「粒子でもあり、波でもある」と言ってしまうと厳密には正しくありません。また様々な量子力学の解説本に出てくるような、「そのどちらでもない」という説明も、実は同様に正確性を欠いてしまうのです。量子力学の概念の中には「粒子」と「弦(ひも)」と「波」が独立に存在するからです。文脈やエネルギー領域を指定すると、電子はこのどれか1つを意味します。この場合の「波」は、電磁場のような量子場を指しています。では量子力学で最初に習う電子概念は粒子なのか、弦なのか、波なのか。少なくとも非相対論的な量子力学の範疇では、それは粒子として記述をされるのです。「弦」でも「波」でもない「粒子」なんですね。その理由を見ていきましょう。
例えば二重スリット実験の1回の試行では、電子は常にある場所に局在してしまう粒子であって、各試行においては波として観測されたことはありません。何回も同じ実験を繰り返すことで得られるデータには集団としての波動性の干渉縞が観測されます。しかし個々のデータでは確かに点粒子として、電子は観測されているのです。1粒1粒を別々にスクリーンに飛ばしても、最終的に得られるその多数の集団に対するデータに「波動性」が見られるだけです。
そもそも量子力学の波動関数とは、系の状態を記述する状態ベクトルと、その対象がとれる独立事象を示す固有状態ベクトルとの内積で表されます。
従って電子のように、ある場所に局在をする大きさ零の粒子の場合は、位置座標に関する複素関数で波動関数を書くことができます。もし広がりがある弦や場の場合には、その弦や場の形状を表す関数自体が引数となる波動汎関数となります。この3つは、理論としてきちんと区別されています。
二重スリット実験でも「点粒子である電子」という前提があるので、そもそもその1つの電子が弦や波になったりはしないのです。ですから「電子は粒子になったり波になったりする」という言い方は正しくないことが分かります。この範疇の理論の範囲では、電子自体はいつでも粒子であり、波には決して化けません。また「電子は粒子でも波でもない」も間違っていて、このレベルの話でははっきりと「粒子」だと言えます。
波動関数に支配された電子の集団の振る舞いに対して、回折現象や干渉現象が観測されるのです。二重スリット実験でも、多数回実験をして、データを溜めたことにより、波にはならない粒子の、上のスリットを通過した歴史の寄与と、下のスリットを通過した歴史の寄与との干渉が、スクリーンに縞模様を残すのです。
ただしこれまで述べた描像は、非相対論的な量子力学という理論での電子でした。相対論的な場の理論における電子は、フェルミ場という「波」の1つの励起になります。また量子重力理論の候補である超弦理論では、電子もある運動をしている「弦」として記述をされます。つまり電子という存在は、扱う我々の解像度に応じて、物理学では多様な描像を持ちます。また最近の理論物理学では、粒子や波というなんらかの実在を感じさせる描像から離れて、より根源的な「量子情報」として、電子や他の素粒子、そして時空までも統一的に記述する試みが世界的に進んでいます。時代とともに、「電子とは何か、粒子なのか波なのか」という問いは深まっているのです。実証科学である物理学とはそういう学問なのです。