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量子飛躍は物理学の未解決問題か?
「量子飛躍」または「量子跳躍」は、驚異的な成長や発展を意味する用語として、ビジネスパーソンの皆様にも使われるようになりましたが、本来は量子力学の「クォンタムジャンプ」の訳語でした。古典力学ではエネルギーは連続的な値をとることが可能とされてきましたが、量子力学では離散的なエネルギー値をとる量子系が知られています。例えば水素原子も、その例です。そして、そのような系ではこの量子飛躍が起こります。
水素原子の電子が励起エネルギーをもっている、図1の状態を考えてみます。ここで2本の横線は、2つの異なる可能なエネルギーの状態を表し、その線の位置が高いほうが、そのエネルギーの値も高くしてあります。低い位置の横線は、最低エネルギーの状態です。そして赤丸で、今は上の位置にある横線の状態に電子がいることを表現しているのが、この図1です。
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しばらくするとこの電子は、図2のようにストンと落ちて、下の最低エネルギーの状態になります。
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量子力学では、この最低エネルギー状態を「基底状態」と呼んでいます。また離散的な値しかとれなくても、そのエネルギーの値が定まっている状態のことを「エネルギー準位」と呼びます。
古典力学とは異なり、量子力学にはこの過程の途中に対応するエネルギーの状態がないため、図1と図2を同時に見ると、電子は連続的に徐々にエネルギーを下げることなく、上の状態から下の基底状態へと瞬間移動しているようにも、思えてしまいます。このような過程のことを、量子的なジャンプ、つまり「量子飛躍」と呼びます。
なお電子が上のエネルギー状態から下の基底状態に移ったあとには、エネルギー保存則が成り立つように、図3のように、その差のエネルギーを持った光子が放出をされます。
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この光子の存在を考えても、束縛状態にある水素原子のエネルギー準位が離散的であること自体は変わりません。やはり「量子飛躍」と呼びたくなる状況のままです。
話は変わるのですが、最近出た一般向け科学雑誌で、この量子飛躍に言及した下記の記事が目に入りました。
ミクロの量子系の状態が離散的であることの代償として、量子系の状態変化は連続的ではなく、ある状態から別の状態に不連続に飛び移るしかないことがある。この量子飛躍(quantum jump)と呼ばれる現象も量子力学の特徴であるが、「本当に、途中の道筋をたどることなく、ジャンプしているのか?」という疑問を誘う。「観測者が量子系を観測したときにだけ量子飛躍が起きる」とする仮説的描像を「波束の収縮」というが、文字通りにそういう現象が起きているのかという点は今でも未解決問題である。
この量子飛躍は現在でも未解決問題だと書かれています。しかし、それは前世紀的な古い知識の中での言及です。現代的な量子力学においては、量子飛躍は未解決だと強調するようなものではないですし、また「波束の収縮」と関係するパラドックスでもないと理解されています。今回はそれを解説しておきます。
まず記事にある「波束の収縮」を説明します。粒子の量子的な純粋状態は、波動関数で、その数学的な表記が可能です。空間的な広がりをもった波動関数で決まる状態において、粒子の位置測定をすると、空間のある点にその粒子は出現をし、その後の波動関数は、その点の周りだけで非零の値を持つように、収縮をするのです。この過程を「波束の収縮」と呼びます。
さて、件の記事に戻りますが、その中に書かれている問題提起を、下記の3つに分解して、考えていきましょう。
観測者が量子系を観測したときにだけ、「波束の収縮」は起きるのか?
量子飛躍に途中の道筋は実在するのか?
量子飛躍は未解決問題なのか?
先に答えを書いておきますと、基本的に問1の答えは「はい」、問2は「いいえ」、問3は「いいえ」となります。波束の収縮も量子飛躍も、強調するような未解決問題ではありません。
では問1から解説していきます。下記記事にもありますように、まず「波束の収縮」は、観測者が量子系を観測したときにだけ生じます。
「波束」、つまり波動関数とは、物理的な実在波ではなく、物理量の確率分布で数学的に定義をされた情報の集まりに過ぎません。そしてこの情報とは、どの系の何に関する情報であると指定するだけではなく、「どの観測者にとっての」ということも指定しないと一意に定まらない概念です。たとえば、サイコロの事前知識を何も持たないアリスにとっての、サイコロの目の確率分布と、偶数の目であることは教えてもらったボブにとっての、サイコロの目の確率分布は、異なります。同じサイコロの目でも、観測者によって異なり得るのが、情報としての「確率」という概念なのです。そして確率分布が収縮するのは、観測結果に応じて、その観測者にとっての、対象の知識の増加が起こり、そしてその対象の確率分布をその観測者自身が更新をするからです。波動関数も同じで、知識の更新をする観測者の存在なしでは、その収縮は起き得ないのです。ですから問1の答えは、「はい」となるわけです。
次の問2を考えてみます。この問題の答えが基本的に「いいえ」となる理由は、いくつかの異なるレベルで説明できます。まず量子飛躍の過程で、「途中の道筋をたどることなく、ジャンプしている」と思えてしまったのは、図1と図2を見たからでした。途中を繋ぐ連続的なエネルギーの値は量子力学では許されていないので、量子飛躍の道筋そのものが存在していないというのは、まず事実です。既にこのレベルで、問2の答えは「いいえ」しかあり得ないと言えます。
しかし、これだとまだ雑な論考とも言えます。たとえば、実際には図1の状態から瞬間に図2、または図3の状態になっているわけではありません。電子と電磁場との相互作用を通じて、図1の状態から図4の状態重ね合わせが、ある有限時間tをかけて作られるのです。(なお以下では、波動関数表示ではなく、同じ物理的内容をもつ状態ベクトル表示を採用しています。)
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今回の図4では、量子飛躍には本質的ではない重ね合わせ係数の時間依存した位相因子は無視しています。またωは、ある正の定数です。この図4の状態重ね合わせが現れて、初めて基底状態への量子的なジャンプが許されるのです。たとえば図5と図6のように、時刻tに観測者がこの重ね合わせ状態にある電子を観測すると、その時点で波束の収縮が起こります。
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特に図6のように基底状態に粒子が見つかる量子飛躍のためには、重ね合わせ状態の中に、この「基底状態」の成分が入っていないといけません。時刻t=0の元の図1の状態のままでは、基底状態に見つかる確率は厳密に零であり、量子飛躍は決して起きません。つまり、図1から図3への変化は相互作用とそれにかかる時間tが要求されるのです。
もちろんtは正の値であれば、いくらでも零に近づけますが、それとともに、量子飛躍が観測される確率も零に近づくのです。ですから「図1の状態から図3の状態へ瞬間にジャンプした」というのは、間違いなのです。その意味で不思議さを感じさせた離散準位間の「ジャンプ」、つまり「飛躍」という用語は、誤解を生んでいるとも言えます。
図4の重ね合わせ状態は連続的に時刻tを変えれば、波動関数としては異なる連続的な状態を辿るのです。ただしt=+∞まで待たずに、ある時刻tで観測をすると、確率分布の収縮としての波束の収縮が起きて、離散的な下のエネルギー準位に非零の確率で粒子が見つかるのです。
しかしこの「飛躍」が有限の時間で起こる過程だとすると、ますます量子飛躍には、途中の道筋が実在しそうだと感じてしまうかもしれません。これを否定して、いきなり問2の「いいえ」という答えに到達する前に、物理の楽しいハイキングとして、寄り道をしてみましょう。
これまでは水素原子の量子飛躍を考えてきましたが、ここで対象系を二準位スピン系にしてみます。中性子などの素粒子のように、自転自由度に例えられる「スピン」の状態が2つある系のことです。その状態をσ=±1という数値をあてがって、区別することにします。以下では、σ=+1の状態をスピン上向き状態と呼び、σ=-1の状態をスピン下向き状態と呼びましょう。図にスピン粒子を描く時には、σ=+1の場合に上向きの矢印を加え、σ=-1の場合には下向きの矢印を加えます。
このσの値は、そのスピン粒子をシュテルン=ゲルラッハ(SG)装置に通すことで、+1か-1かの一方に決まります。粒子に対して或る水平磁場をかけることで、そのスピンの状態は変化をして、図7のようなスピン上向き状態とスピン下向き状態の重ね合わせを作れます。
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なので、水素原子と同様に、このスピン粒子でもこの重ね合わせ状態において観測すると、元のスピン上向き状態も、図8のように確率的に出てきます。
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そして、この重ね合わせ状態からスピン下向き状態への量子飛躍は、図9のようになります。
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最近では、このスピン粒子を連続測定して、σの値が時間とともにどのように変化するかの実験もできます。図10のように、磁場を加えることとSG装置での測定の組み合わせを何回も繰り返せます。
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すると、初期時刻t=0でσ=+1のスピン上向き状態だったとしても、何回か測定をしているうちに、σ=-1のスピン下向き状態が観測されることになります。さらに実験時間を延ばすと、それに対する測定間隔Δtは相対的に短くなり、図11のような矩形的なジャンプを繰り返すデータも得られます。
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この特定の矩形の量子飛躍のデータも、観測者が測定結果を見ているために起きる波束の収縮で生まれています。各時刻のSG装置の結果を記録する量子記憶装置をN個用意して、スピン粒子と測定装置との全体系で純粋状態を外部観測者が考えれば、観測前は、図11のパターンのグラフの状態と、図11とは異なる様々なパターンのグラフの状態の量子的な重ね合わせになっています。シュレーディンガーの猫の思考実験のように、マクロに異なる状態が線形的に重なっているのです。
(量子力学に習熟をしている方向けの註:量子情報分野ではよく知られていることですが、観測者がいつスピンのデータを読み出すかには、自由度があります。SG装置に観測者が始終張り付いて、じっとSG装置の結果を時間的に追い続けても、波束の収縮によって特定の図11のようなデータがもちろん得られます。しかし、各時刻のSG装置の結果を記録する量子記憶装置をN個用意して、実験が終わった後に、N個全部の記憶装置を一気に観測者が読みだしても、その時点で波束の収縮も全体系で一気に起こり、図11のような、特定の量子飛躍のグラフが得られます。)
この図11の量子飛躍の背景には、やはり実在的な粒子があって、その状態変化には途中の道筋があるのではないかと、まだ思う人がいても、不思議ではありません。またこの2準位スピン系の特殊事情としてのややこしさとして、この実験データは隠れた変数理論という実在論でも説明できてしまうのです。このあたりのことは下記記事をご覧ください。
この隠れた変数の理論の存在を知った方の中には、「おお、やはり!」と膝を打つ方もいるかもしれません。その実在としてのその隠れた変数には、量子飛躍の途中の道筋があるはずです。
ところが、そうは問屋が卸しません。それが量子もつれの存在です。1個の2準位スピン粒子では、確かに隠れた変数が許されます。ところが、同じ粒子を2個用意しただけで、そのような隠れた変数と呼ばれる実在は存在していないことが、ベル不等式の破れから分かるのです。
ベル不等式の破れから、結局量子飛躍の途中の道筋を辿れる局所実在は全て否定をされるのです。それでも量子飛躍の途中の道筋に拘泥したいならば、非局所的な実在論を採用するしかありません。
しかし、それも非常に不自然なシナリオしか残っていません。たとえば、人間や他の物理現象の相対論的な因果律には一切影響を与えずに、ベル不等式実験に使われる粒子だけには「超光速」の影響が出ると仮定をしたり、また宇宙の始まりから世界の運動は一意的に決まっていて、観測者には自由意志はなく、ちょうどベル不等式を破るように無意識に粒子の実験準備を毎回してしまうという「超決定論」を仮定したりするシナリオです。これについては下記記事もご参照ください。
ですから、「量子飛躍に途中の道筋は実在するのか?」という問2については、合理的な判断のもとでは「いいえ」と、確かに答えられるのです。
「量子飛躍は未解決問題なのか?」という問3の答えも、ベル不等式の破れなどのこれまでの物理学の進展を踏まえて、異常な設定を考えなければ、「いいえ」となるわけです。ですから、ある人から「量子飛躍は未解決だ」と言われても、若い物理学徒が情熱をもって取り組む良い研究テーマではないことは、確かだと思います。「量子飛躍には問題はない」という現代的な理解を、まずはしっかりと腹落ちさせて、量子飛躍を使って量子開放系の応用研究などを進めるのが、これからの時代を拓く物理学徒には良いかなと、個人的には思っています。
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