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人生に起きる幸不幸の判断は、単純ではない。

合気道の開祖である植芝盛平は、若い頃に北海道で開拓団を結成し、貧しい人々とともに白滝という地に入植した。極寒の冬にも屈せず、仲間たちと苦労を重ねながら村を成長させていった。しかし、ある程度生活が安定してきた頃、大火災が発生し、村全体が灰と化すという悲劇が起きた。

入植当初、人々は右も左も分からない状態で、未知のことに手探りで取り組む日々を送っていた。開拓は精神的にも体力的にも過酷であった。そのようにしてようやく築き上げた村が燃え尽きた時の衝撃は計り知れない。しかし、盛平は人々を励まし、村の再建を決意した。

再スタートはゼロからの挑戦であったが、村人たちは前回の経験から多くの知識を得ていた。そのため、最初の村を築くのに要した時間の半分で、より大きく立派な村を作り上げることができた。初めての村は失われたが、結果として、以前よりも大きく、より良い村を作ることに成功した。

一生懸命築き上げた村であっても、計画通りにいかない部分や予期せぬ歪みがあったかもしれない。それを火事という災難がきっかけとなり乗り越え、より良い村を作ることができた。この経験は、人間の強さを改めて実感させるものであり、将来の苦難も善へと転換できるという自信を与えたに違いない。人生における幸不幸の判断は、単純ではない。


詩人の明石海人は、静岡県沼津市で生まれた。教師として働き、結婚して長女にも恵まれ、順調な人生を歩んでいるように見えたが、まさにこれからという時期にハンセン病を発病する。家族を偏見や差別から守るため、自らの名前や素性を隠して愛生園に入所した。病状が悪化する中でも短歌の学びを続け、34歳頃から短歌を発表し始めた。その才能は大きく花開き、歌集『白描』を世に送り出すが、37歳で他界をした。

癩は天刑である。

加はる笞の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない ―

そう感じ得たのは病がすでに膏盲に入ってからであった。 

明石海人, 歌集『白描』

齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。 

明石海人, 歌集『白描』

人の世を脱れて人の世を知り、
骨肉と離れて愛を信じ、
明を失っては内にひらく青山白雲をも見た
癩はまた天啓でもあった。

明石海人, 歌集『白描』

人生に起きる幸不幸の判断は、単純ではない。


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Masahiro Hotta
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