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記憶の複製必要性と選好基底問題

脳が、何か記憶していることを用いて思考する状況を考えよう。この状況は、

$$
U_E|\psi \rangle_\text{WM} |\chi \rangle_\text{CE} = |\varphi \rangle_\text{WM} |\gamma \rangle_\text{CE}
$$

とモデル化することができるだろう。$${U_E}$$は時間進展の演算子、$${|\psi \rangle_\text{WM}}$$は人が持つ記憶、$${|\gamma \rangle_\text{CE}}$$は記憶を用いた思考結果を表している。$${|\chi \rangle_\text{CE}}$$は記憶を用いて思考する際の初期状態である。この思考モデルの問題点は、記憶が喪失してしまうことである。思考に伴い、記憶を担っている状態$${|\psi \rangle_\text{WM}}$$は$${|\varphi \rangle_\text{WM}}$$に変わってしまう。そのため、記憶は無くなってしまう。

記憶の複製必要性

これを避けるためには、上記の思考を行う前に、長期的な記憶を担う状態$${|\psi \rangle_\text{PM}}$$から$${|\psi \rangle_\text{WM}}$$を作成すればよい。すなわち、

$$
U_M |\psi \rangle_\text{PM} |e \rangle_\text{WM} = |\psi \rangle_\text{PM} |\psi \rangle_\text{WM}
$$

の後に、

$$
U_E|\psi \rangle_\text{WM} |\chi \rangle_\text{CE} = |\varphi \rangle_\text{WM} |\gamma \rangle_\text{CE}
$$

が起こるように脳ができていればよい。$${|\psi \rangle_\text{PM}}$$は変わらず残っているので、同じ記憶を用いて新たな思考を行うことが可能である。なお、$${|e \rangle_\text{WM}}$$は記憶を複製するための初期状態である。

ところが、この記憶の複製工程

$$
U_M |\psi \rangle_\text{PM} |e \rangle_\text{WM} = |\psi \rangle_\text{PM} |\psi \rangle_\text{WM}
$$

は、「量子情報の複製不可能性」に記載したように、任意の状態$${|\psi \rangle_\text{PM}}$$に対して行うことはできない。相互に直交する状態にしかできない。どの状態が複製できるかは、$${U_M}$$と$${|e \rangle_\text{WM}}$$により決まっていて、それは脳の仕組みである。脳の仕組みであるから、遺伝によって決まっており、たぶん人により異なることはなく人類に共通していると見込まれる。猫や犬も過去の記憶により行動を変えるので、脊椎動物には共通しているだろうと思われる。そのような脳の仕組みで決まっている複製可能な記憶を担う状態の集合を$${\mathfrak{R}_\text{PM}}$$と書くことにしたい。

さて、$${|\psi_1 \rangle_\text{PM},  |\psi_2 \rangle_\text{PM} \in \mathfrak{R}_\text{PM}}$$として、脳が$${\alpha |\psi_1 \rangle_\text{PM} + \beta |\psi_2 \rangle_\text{PM}}$$を含む状態になった人は、どのように思考することになるだろうか。前述した理由から、$${\alpha |\psi_1 \rangle_\text{PM} + \beta |\psi_2 \rangle_\text{PM}}$$は思考に用いる記憶としては役立たない。多世界解釈に従って、$${|\psi_1 \rangle_\text{PM}}$$の記憶を持つ人と$${|\psi_2 \rangle_\text{PM}}$$の記憶を持つ人がいる世界に分かれたとすると、それぞれの状態は記憶として機能しえる。$${U_M}$$と$${|e \rangle_\text{WM}}$$により$${|\psi_1 \rangle_\text{PM}}$$と$${|\psi_2 \rangle_\text{PM}}$$は、それぞれ$${|\psi_1 \rangle_\text{WM}}$$と$${|\psi_2 \rangle_\text{WM}}$$に複製可能だからである。したがって、人が記憶を持ち続けるられるようにという前提があれば、宇宙の波動関数を世界に分ける方法は、$${\mathfrak{R}_\text{PM}}$$により決まる。このようにして、多世界解釈の選好基底問題は解消できる可能性がある(多世界解釈における選好基底問題が何かについては、以前の投稿「DNAの複製と選好基底問題」を参照いただきたい。なお、そこでも記載したが、私は特段多世界解釈が他の解釈に比べて望ましい解釈であると考えているわけではない。選好基底問題を解消して多世界解釈を受け入れる人を増やしたいなどと考えているわけではない。)。

外界の記憶過程

前節では、記憶を思考に用いる場合を検討したが、そもそも外界の状態を記憶するのも情報の複製工程と考えられる。すなわち、外界のクオリアが生じて記憶している状況は、

$$
U_O |\psi \rangle_\text{OE} |e \rangle_\text{PM} = |\psi \rangle_\text{OE} |\psi \rangle_\text{PM}
$$

とモデル化できるだろう。$${|\psi \rangle_\text{OE}}$$は人を取り巻く環境であり、$${|e \rangle_\text{PM}}$$は脳内の記憶の初期状態(まだ記憶に使われてない状態)である。いきなり長期記憶になるのではなく、クオリアや短期記憶を経て、そこから選ばれたもののみが長期記憶になると考えられるが、その点は省略している。この記憶も、情報の複製過程であり、「量子情報の複製不可能性」に記載したように、任意の$${|\psi \rangle_\text{OE}}$$において可能ではなく、相互に直交する状態においてのみ可能である。また、前節で記載したのと同じ理由で、その記憶可能な状態の集合は、脊椎動物に共通していると考えられる。この集合を$${\mathfrak{R}_\text{OE}}$$と書くことにしよう。動物が記憶を持つという前提もとで宇宙の波動関数は$${\mathfrak{R}_\text{OE}}$$により決まるように世界に分かれるだろう。

不正確な複製

記憶や記憶を用いた思考は、必ずしも正確でなくてもよいと思われる。不正確な複製であれば可能である可能性がある。その点については、機会があれば別稿で検討してみたいと思う。

なお、不正確な複製というのは、外界の情報の一部のみ記憶すればよいということとは異なる。外界の一部の情報のみ複製すればよい場合であっても、前節までの議論は成り立つと思われる。その点について、以下では書いておきたい。

外界は、原子、分子で構成されているので、アボガドロ数オーダーのパラメータで表されるだろう。これを、$${|\psi(\xi_1, \xi_2, \dots \xi_N) \rangle_\text{OE}}$$と表記しよう。$${N}$$はアボガドロ数オーダーの巨大な数である。学者による実験以外で生物が$${\xi_n}$$を記憶したりすることはないだろう。ここでは、簡単のために生物が記憶するのは、$${\Xi = \sum_{n=1}^N \xi_n}$$としよう。そして、状態を表すために、$${r_n = \xi_n - \xi_{n+1}}$$という変数変換を行い、外界の状態を$${|\psi(\xi_1, \xi_2, \dots \xi_N) \rangle_\text{OE} = \alpha_1 |\psi_{a1}(\Xi )\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i1}(r_1, r_2, \dots r_{N-1}) \rangle_\text{OEi} + \alpha_2 |\psi_{a2}(\Xi )\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i2}(r_1, r_2, \dots r_{N-1}) \rangle_\text{OEi} + \dots}$$と新しいパラメータを用いて表示することにしよう(離散的な重ね合わせのエンタングルド状態だけでなく積分での重ね合わせもありえるが式が複雑になるので省略したい。)。これは、水素原子のシュレディンガー方程式を考える際に陽子の位置と電子の位置を用いるのではなく、重心と陽子と電子の相対位置を用いるのと本質的に同じであり、特に問題のない変換であろうと思われる。水素原子の場合は、例えばWikipediaでは、

重心系への還元
(X1)、(X2)により定義される方程式は、重心系に書き直す事により、より簡単な式に還元できる。2つの粒子の重心
$${\boldsymbol {c}=\frac{m_{0}\boldsymbol {x}_{0}+m_{1}\boldsymbol {x}_{1}}{m_{0}+m_{1}}}$$
と2つの粒子の位置の差
$${\boldsymbol {x}= \boldsymbol {x}_{1}-\boldsymbol {x}_{0}}$$

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E5%8E%9F%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F%E3%81%AE%E8%A7%A3

と記載されている。式を見比べると、類似のことを行っていることがわかるだろう。

積状態$${|\psi_{a}(\Xi )\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i}(r_1, r_2, \dots r_{N-1}) \rangle_\text{OEi}}$$の$${|\psi_{a}(\Xi )\rangle_\text{OEa}}$$を記憶する状況を考えよう(水素原子の波動関数の検討でも重心の波動関数と相対位置の波動関数のエンタングルド状態を検討したもの私は見たことがない。)。すなわち、

$$
U_M |\psi_{a}\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i} \rangle_\text{OEi} |e \rangle_\text{PM}
= |\psi_{a}\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i}^\prime \rangle_\text{OEi} |f(\psi_{a})\rangle_\text{PM}
$$

が成り立つとする(ここまでの式では異なるヒルベルト空間間の写像$${f: \mathcal{H}_\text{OE} \rightarrow  \mathcal{H}_\text{PM}}$$等を省略して書いてきたが、ここでは「量子情報の複製不可能性」と同様に記載した。)。空間$${\mathcal{H}_\text{OEi}}$$の状態は記憶の対象ではなく変わってもよいと考えられることから、$${|\psi_{i} \rangle_\text{OEi}}$$から$${|\psi_{i}^\prime \rangle_\text{OEi}}$$に変わる式としている。$${U_M}$$がユニタリであることから、

$$
\langle \phi_{a} | \psi_{a} \rangle_\text{OEa} \langle \psi_{i} | \psi_{i} \rangle_\text{OEi} \\
= \langle \phi_{a} | \psi_{a} \rangle_\text{OEa} \langle \psi_{i}^{\prime\prime} | \psi_{i}^\prime \rangle_\text{OEi} \langle f(\phi_{a}) |f(\psi_{a})\rangle_\text{PM}
$$

が成り立つ。なお、$${| \psi_{i}^{\prime\prime} \rangle_\text{OEi}}$$は、

$$
U_M |\phi_{a}\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i} \rangle_\text{OEi} |e \rangle_\text{PM}
= |\phi_{a}\rangle_\text{OEa}  | \psi_{i}^{\prime\prime} \rangle_\text{OEi} |f(\phi_{a})\rangle_\text{PM}
$$

で定義される状態である。$${0 \lt |\langle \phi_{a} | \psi_{a} \rangle_\text{OEa}| \lt 1}$$の場合には、$${\langle \psi_{i} | \psi_{i} \rangle_\text{OEi} = 1}$$なので、

$$
\langle \psi_{i}^{\prime\prime} | \psi_{i}^\prime \rangle_\text{OEi} \langle f(\phi_{a}) |f(\psi_{a})\rangle_\text{PM} = 1
$$

である必要がある。$${|f(\psi_{a})\rangle_\text{PM}}$$と$${|f(\phi_{a})\rangle_\text{PM}}$$が異なる状態の場合には、上式が成り立つことはないので、従って、動物は、空間$${\mathcal{H}_\text{OEa}}$$の任意の状態を記憶することはできず、空間$${\mathcal{H}_\text{OEa}}$$の元から選択された相互に直交する状態しか記憶できない。

おわりに

本稿で述べたことは、究極的には意識により射影(波束の収束、波動関数の崩壊)が起こるという考えと同じであろう。波束の収束・波動関数の崩壊を考えるときに、意識と記憶の違いなど考慮していないだろう。「意識が波束を収束させる」というと、神秘的(非物理的)な感じがするが、「$${U_O}$$、$${|e \rangle_\text{PM}}$$が波動関数の別け方を決める」といえば物理的な感じがする。$${U_O}$$は、$${e^{-\frac{i}{\hbar}Ht}}$$であり、結局どのように収束するかを決めているのは、脳のハミルトニアン($${H}$$)、すなわち脳を構成する要素間の相互作用であるからである。

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