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科学的実在論の怠慢・力不足と観測問題

堀田さんは、繰り返し、繰り返し、量子力学に観測問題はない、波動関数は実在ではないと書いている。その理由は、学生が困らないようにという考えがあるようである。例えば、堀田さんは、下記のようなツイートをしている。

光速度を超えて波動関数が収縮することに気付いても「目をつぶっておけ」と学生に教えるのか、それとも「波動関数は物理量の確率分布のデータの集合だから、物理的実在ではないので、光速度を超えて潰れても良いのです」と教えるのとでは、全く違いますよね。

https://x.com/hottaqu/status/1386178670994223106?s=46

学生さんから「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮するのですが、これは物理学の問題ならば解かないといけないんじゃないですか?」と質問されたら、教員の皆さんはどのようにお答えになります?

https://x.com/hottaqu/status/1386179334461804545?s=46

結局「つべこべ言わず、黙って計算しろ!」と教えらえた学生は、きっと20世紀の物理学者達のように、観測問題を生涯引きずるだけですよね。そういう風に物理学徒をしたいですか?私だったら「観測問題は物理学の問題ではない」と明言して、物理学徒を量子ネイティブの方向に向けてあげたいところです。

https://x.com/hottaqu/status/1386183529520779270?s=46

このように堀田さんが発言しないといけなくなる理由には、量子力学において科学的実在論が十分に考察されていないことに責任があるように私には思われる。

科学的実在論

科学的実在論とは、

「科学的なモデルの中に登場する電子や光子や波動関数といった対象は、実際に、そのような形で、存在しているのだ」とする考え方のこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

である。上記の引用では「存在している」と書かれているが、科学的実在論であるから、波動関数は実在しているという考えである。

物理学者は、アインシュタインがそうであったことから、「実在(reality)」を

「ある観測を行ったとき、必ずある値が得られるような状態があるとする。その場合、その値に対応する何かが実在している」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

A sufficient condition for the reality of a physical quantity is the possibility of predicting it with certainty, without disturbing the system.

A. Einstein, B. Podolsky, and N. Rosen
Can quantum-mechanical description of physical reality be considered complete?
https://as2.c.u-tokyo.ac.jp/lecture_note/kstext04_ohp.pdf

と考えるのが通常であるが、「実在」が「ある観測を行ったとき、必ずある値が得られる」ものであることが必須というルールがあるわけではない。アインシュタインとポドルスキーとローゼンがそう考えたというだけのことである。

科学的実在論の立場に立つのであれば、

科学理論は様々な現象を予測したり説明したりすることに成功しているのであり、したがって我々の科学理論は、少なくとも最良の科学理論について言えば、世界を正しく記述できているか、または近似的な記述に成功している

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

そして、

理論が操作主義的にうまくできていれば、知覚的に検証しにくい理論要素でもその実在を信じる理由がある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

と考えるということであり、量子力学の理論要素である波動関数は実在していると考えることになる。物理量の確率分布が実在すると考えるのである。

相対性理論以前は、時間は一様に進むと考えられていたが、それは近似的に成り立つだけで、正確には正しくなかった。それと同じように、「実在するものは正しい値が得られる」ことは近似的に成り立っているだけで、正確には誤っていると考えれば良いのである。

相対性理論以降においてはなぜか絶対的に正しい見なされている「物理現象は、光速を超えることはない」という考えも、単に誤りであったと考えれば良い。実験でベルの不等式が破れていることが確認されているのだから、波動関数の収縮は光速を超えており、「あらゆる物理現象は、光速を超えることはない」という考えは単に誤っているのである(念のためであるが相対性理論理論が誤っているという意見ではないので誤解されないようにお願いしたい。光速を超えない物理現象が多いのは正しいだろう。ただ、全てというわけではないというだけである。)。

「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮するのですが、これは物理学の問題ならば解かないといけないんじゃないですか?」という質問に対しては、「解く」とはどういう意味か、なぜ「解く」必要があるのかよく考えるように指導すれば良いだろうと思う。

物理学は実験結果に合致する理論を作るものであり、形而上学的に合理的な(美しい・自然な仮定であると感じる)理論で物理現象を説明することを目指すものであることは必須ではない(例えば対称性の美しさを追求しても良いけれど)。「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する」という理論で実験結果を説明できるのであればそれでよく、光速を超えて収縮する理由を説明することは物理理論として必須ではない。「なぜ電子が存在するのですか?」という問いに答える必要はなく、「電子があるとすると実験結果を説明できるので電子があると考えるのです」と答えれば良いように、「『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』とすると実験結果を説明できるので『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』と考えるのです」と答えれば良いのである。「実在するものは光速を超えて変化することはない」という考えは単に誤っているということで良いだろう。

このように、科学的実在論の立場から量子論を説明すれば、非常にシンプルに(学生にとってわかりやすく)なると私は思う。そのため、科学的実在論が普及することを私は期待する。しかし、現実には、科学的実在論の立場から波動関数の実在を積極的に主張する哲学者の意見(取り組み)はないように思われる。検索方法が悪いのかもしれないが、googleで検索してみても見つからなかった。

構成的経験論

科学的実在論に対立する立場に、構成的経験論ある。これは

科学の目標は「経験的に十全」(empirically adequate) な科学理論を構成することであり、ある科学理論が承認される際には、観察不可能な内容をも含むその理論の全体が文字通りに「真」である、という信念を持つことはまったく必要とされない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3

という立場である。この立場からは、波動関数が何であるか説明する必要もないということになると私は思う。構成的経験論においては、

ある科学理論の承認が含むのは、その理論が経験的に十全であるという信念、すなわち、観察された現象をもとにして科学者が構築した「データ・モデル」(data-model) に、その科学理論が提案するモデルの一つが、その経験的部分構造に関する限り合致している

だけだからである(太字は本稿の筆者による)。直接観察対象ではない波動関数が何であるかなど、気にする必要もない(科学理論はそうしたことについて何か言う(承認を得ようとする)ものではない。)。こうした立場を学生に教えることも考えられる。私は、単純に理解できるように伝えるよりも、結局悩むことになろうと、さまざまな考えを伝えることが教育的であろうと思う。

構成的経験論は、道具主義:

「科学的な概念は、単に説明や理解のための道具に過ぎず、観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知り得ない」と主張する立場。現在の物理学者に対して「電子は存在するのか、波動関数は実在するのか」といった存在論的な問いを発した際に受ける最もよく見られる受け答えは、この道具主義の立場に基づくものである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

に近いが、道具主義が「つべこべ言わず、黙って計算しろ!」に近い印象を与えるのに対して、構成的経験論は、学生は説明を受けた感じがするのではないかと思われる。

科学的実在論であろうと、構成的経験論であろうと、道具主義であろうと、波動関数を既知の概念・分類・カテゴリー(例えば「情報」)に押し込めたり、何かのアナロジーで説明したりする必要はない。波動関数は、観察された現象をもとにして科学者が構築したモデルの要素であるという説明だけで良いのである。私はそう思うし、私以外の者にもモデルの要素であるというだけでよいことを理解してもらいたいと思う。

観測問題

「『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』とすると実験結果を説明できるので『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』と考えるのです」と答えれば良いと前節で記載した。物理理論としてはこれでなんの問題もないが、別のより自然に感じられる仮定から波動関数が観測によって光速度を越えて収縮する理由を説明できたらより望ましいだろう。この「より望ましい説明を見つけなさい」という設問が、観測問題である。この観測問題(設問)が解けるかが解けないかは、「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する」とする量子力学の理論が正しいか正しくないかには影響しない。何かの原理で射影仮説が導けたら(設問が解けたら)、射影仮説は成り立つので、射影仮説が成り立つとする量子力学は正しい。射影仮説が解けなくても、実験結果に矛盾しない最良の理論である量子力学は正しい(矛盾しない最良だからといって正しいとは限らないという批判がありえるのは重々承知しているが、本稿の主題ではないので説明は省略したい。)。

小学館のデジタル大辞泉によると、問題には、

1 解答を求める問い。試験などの問い。「数学の—を解く」「入試—」
2 批判・論争・研究などの対象となる事柄。解決すべき事柄。課題。「そんな提案は—にならない」「経済—」「食糧—」
3 困った事柄。厄介な事件。「新たな—が起きる」
4 世間が関心をよせているもの。話題。「—の議員」

小学館「デジタル大辞泉」weblio
https://www.weblio.jp/content/%E5%95%8F%E9%A1%8C

という意味がある。アインシュタインにとっては、観測問題は「3 困った事柄」に感じられたのかもしれないが、そう感じることは必須ではない。観測問題は、単に「1 解答を求める問い」、「2 研究の対象となる事柄」と理解すれば良い。堀田さんのように「観測問題は物理学の問題ではない」と言わずとも、観測問題を生涯引きずるようなことにならない学生対応は可能だろうと私は思う。

観測問題は、物理学の設問として解ける可能性もあれば、解けない可能性もある。物理学の範疇では観測問題が解けない証明を私はみたことがない。一方で、物理学の範疇で観測問題が解けるはずと考える理由も私は知らない。また、数々の物理学の天才が観測問題を解けずに終わっている。その事実を伝えるだけで、学生が観測問題を生涯引きずるようなことにならないだろう。もしそれでも引きずることになった学生がいたら、それは喜ぶべきことだと私は思う。

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