科学的実在論の怠慢・力不足と観測問題
堀田さんは、繰り返し、繰り返し、量子力学に観測問題はない、波動関数は実在ではないと書いている。その理由は、学生が困らないようにという考えがあるようである。例えば、堀田さんは、下記のようなツイートをしている。
このように堀田さんが発言しないといけなくなる理由には、量子力学において科学的実在論が十分に考察されていないことに責任があるように私には思われる。
科学的実在論
科学的実在論とは、
である。上記の引用では「存在している」と書かれているが、科学的実在論であるから、波動関数は実在しているという考えである。
物理学者は、アインシュタインがそうであったことから、「実在(reality)」を
と考えるのが通常であるが、「実在」が「ある観測を行ったとき、必ずある値が得られる」ものであることが必須というルールがあるわけではない。アインシュタインとポドルスキーとローゼンがそう考えたというだけのことである。
科学的実在論の立場に立つのであれば、
そして、
と考えるということであり、量子力学の理論要素である波動関数は実在していると考えることになる。物理量の確率分布が実在すると考えるのである。
相対性理論以前は、時間は一様に進むと考えられていたが、それは近似的に成り立つだけで、正確には正しくなかった。それと同じように、「実在するものは正しい値が得られる」ことは近似的に成り立っているだけで、正確には誤っていると考えれば良いのである。
相対性理論以降においてはなぜか絶対的に正しい見なされている「物理現象は、光速を超えることはない」という考えも、単に誤りであったと考えれば良い。実験でベルの不等式が破れていることが確認されているのだから、波動関数の収縮は光速を超えており、「あらゆる物理現象は、光速を超えることはない」という考えは単に誤っているのである(念のためであるが相対性理論理論が誤っているという意見ではないので誤解されないようにお願いしたい。光速を超えない物理現象が多いのは正しいだろう。ただ、全てというわけではないというだけである。)。
「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮するのですが、これは物理学の問題ならば解かないといけないんじゃないですか?」という質問に対しては、「解く」とはどういう意味か、なぜ「解く」必要があるのかよく考えるように指導すれば良いだろうと思う。
物理学は実験結果に合致する理論を作るものであり、形而上学的に合理的な(美しい・自然な仮定であると感じる)理論で物理現象を説明することを目指すものであることは必須ではない(例えば対称性の美しさを追求しても良いけれど)。「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する」という理論で実験結果を説明できるのであればそれでよく、光速を超えて収縮する理由を説明することは物理理論として必須ではない。「なぜ電子が存在するのですか?」という問いに答える必要はなく、「電子があるとすると実験結果を説明できるので電子があると考えるのです」と答えれば良いように、「『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』とすると実験結果を説明できるので『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』と考えるのです」と答えれば良いのである。「実在するものは光速を超えて変化することはない」という考えは単に誤っているということで良いだろう。
このように、科学的実在論の立場から量子論を説明すれば、非常にシンプルに(学生にとってわかりやすく)なると私は思う。そのため、科学的実在論が普及することを私は期待する。しかし、現実には、科学的実在論の立場から波動関数の実在を積極的に主張する哲学者の意見(取り組み)はないように思われる。検索方法が悪いのかもしれないが、googleで検索してみても見つからなかった。
構成的経験論
科学的実在論に対立する立場に、構成的経験論ある。これは
という立場である。この立場からは、波動関数が何であるか説明する必要もないということになると私は思う。構成的経験論においては、
だけだからである(太字は本稿の筆者による)。直接観察対象ではない波動関数が何であるかなど、気にする必要もない(科学理論はそうしたことについて何か言う(承認を得ようとする)ものではない。)。こうした立場を学生に教えることも考えられる。私は、単純に理解できるように伝えるよりも、結局悩むことになろうと、さまざまな考えを伝えることが教育的であろうと思う。
構成的経験論は、道具主義:
に近いが、道具主義が「つべこべ言わず、黙って計算しろ!」に近い印象を与えるのに対して、構成的経験論は、学生は説明を受けた感じがするのではないかと思われる。
科学的実在論であろうと、構成的経験論であろうと、道具主義であろうと、波動関数を既知の概念・分類・カテゴリー(例えば「情報」)に押し込めたり、何かのアナロジーで説明したりする必要はない。波動関数は、観察された現象をもとにして科学者が構築したモデルの要素であるという説明だけで良いのである。私はそう思うし、私以外の者にもモデルの要素であるというだけでよいことを理解してもらいたいと思う。
観測問題
「『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』とすると実験結果を説明できるので『波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する』と考えるのです」と答えれば良いと前節で記載した。物理理論としてはこれでなんの問題もないが、別のより自然に感じられる仮定から波動関数が観測によって光速度を越えて収縮する理由を説明できたらより望ましいだろう。この「より望ましい説明を見つけなさい」という設問が、観測問題である。この観測問題(設問)が解けるかが解けないかは、「波動関数は観測によって光速度を越えて収縮する」とする量子力学の理論が正しいか正しくないかには影響しない。何かの原理で射影仮説が導けたら(設問が解けたら)、射影仮説は成り立つので、射影仮説が成り立つとする量子力学は正しい。射影仮説が解けなくても、実験結果に矛盾しない最良の理論である量子力学は正しい(矛盾しない最良だからといって正しいとは限らないという批判がありえるのは重々承知しているが、本稿の主題ではないので説明は省略したい。)。
小学館のデジタル大辞泉によると、問題には、
という意味がある。アインシュタインにとっては、観測問題は「3 困った事柄」に感じられたのかもしれないが、そう感じることは必須ではない。観測問題は、単に「1 解答を求める問い」、「2 研究の対象となる事柄」と理解すれば良い。堀田さんのように「観測問題は物理学の問題ではない」と言わずとも、観測問題を生涯引きずるようなことにならない学生対応は可能だろうと私は思う。
観測問題は、物理学の設問として解ける可能性もあれば、解けない可能性もある。物理学の範疇では観測問題が解けない証明を私はみたことがない。一方で、物理学の範疇で観測問題が解けるはずと考える理由も私は知らない。また、数々の物理学の天才が観測問題を解けずに終わっている。その事実を伝えるだけで、学生が観測問題を生涯引きずるようなことにならないだろう。もしそれでも引きずることになった学生がいたら、それは喜ぶべきことだと私は思う。