仏教とは何か? 応用編 9 苦の起源と菩薩行の必然性
前の章の応用編8では、宮沢賢治が、仏陀の教えの真髄を深く理解していると考える理由について、簡単に触れました。
さらに、応用編3では、仏になるためには、なぜ菩薩の道を修行する必要があるのか、なぜそれがとてつもなく長い期間を必要とするのかについても、簡単に触れました。ここでは、これらのトピックについてさらに掘り下げてみたいと思います。
まず、苦の本質について検討してみたいと思います。今回は一般的な説明ではなく、より踏み込んだ分析をしてみたいと思います。
人間は紛れもなく他者を思いやる気持ちを持っています。しかし、その気持ちとは裏腹に、自分という存在を維持するためには、どうしても他者を犠牲にせざるをえません。
たとえ鶏や豚や牛がかわいそうだと思っても、自己を維持するためには、それらを犠牲にしなければならないのです。菜食主義であっても、米や豆といった作物は本来、それらの子孫のためのものであるにもかかわらず、人間はそれを収奪し、実質的にこれらの存在を犠牲にしています。
いくら愛や慈悲や同情を口にしたところで、人は慈悲の言葉の舌の根が乾かないうちに、お腹がすいたと言って、躊躇なく他の生き物を犠牲にするのです。それに気づかないのは、単に無神経で、図々しくて、他者への同情心に欠けているだけだと言われれば、反論できる人はいないでしょう。
もし本当に他者への思いやりがあれば、この事実に直ぐに気づくはずですし、それに気づいた者にとっては、この根本的な矛盾による葛藤は、逃げ場のない、耐え難い苦しみ以外の何ものでもないはずです。
そしてこの苦しみは、他者に対する思いやりの度合いに比例します。最大限の思いやりを持つ者は、最大の苦しみを経験するのです。
逆に、慈悲のない者は、全く苦しみを感じず、自分勝手に恥知らずな幸福を享受できるでしょう。
仏教における、苦の本当の原因は、まさにこの根源的な矛盾にこそあり、この人間としての思いやりの大きさに反比例する耐え難い葛藤に触れずに、苦について語るのは、そのような感受性を持ち合わせていない人々にも、理解できるようにするための、やむを得ない方便に過ぎないと思われます。
人間にとっての苦の本質は、自己保存の欲求と、他者への思いやりの感情との間に内在する矛盾にあるのであり、この相反する2つの思いは常に衝突し、実存的な苦悩をもたらし続けるのです。この永遠の対立を深く認識することによってのみ、私たちは逃れることのできない根源的な苦しみを、本当の意味で把握することができるのではないでしょうか。
仏教における欲望と苦悩の関係は、一般に誤解されているような、心の平穏を求めるだけの気楽な人の贅沢な選択の話では無いのです。むしろ、他者を慈しむが故に生じる、根源的な矛盾と、それに伴う耐え難い苦しみを痛感し、その状態に対処したいと心から願う者たちが感じる苦悩なのです。
そのような、他者を思いやる心を持つ高等生物に特有な、生物としての宿命的葛藤に気づくことは、意識ある存在としての責務である、とも言えます。そして、無神経で、図々しく、偽善的で、無慈悲で、利己的な人たちは別として、全ての慈悲深い人達は、そうした事実に真摯に向き合い、これ以上他者を犠牲にすることなく生きて行くには、どうすればよいかを考える以外に、選択肢は、ないはずなのです。
では、仏教はどのような生き方を提案しているのでしょうか?仏教的な生き方を始める前の、普通の状態は、前述したように、自己保存の為に他者を犠牲にし続けている状態です。この状態が続く限り、人はこの事実と、他者を慈しむという人間的な感情との根源的な矛盾に、苦しみ続けなければならないのです。
この苦しみを避けようとして、生きることをやめようとしても、残念ながら自分という妄想が存続する限り、妄想の根本原因である、原初的な無知が生み出す輪廻の世界の形成力によって、人は再びこの世に生まれ変わり、他者を犠牲にする同じ行為を繰り返すことになるのです。
従って、自分という妄想がある限り、生きることをやめようとしても、解決にはつながらないのです。
しかし、この自分という妄想は、一朝一夕に形成されたものではなく、原始的な存在としての進化の始まりから、輪廻転生を経て現在に至るまで、自己保存のために繰り返されてきた、無数の利己的行為によって、蓄積強化されてきたものです。したがって、そのような自己保存の為のエネルギーを中和するためには、これまでの無数の利己的行為によって蓄積された、すべての負債と、犠牲となった膨大な数の他者の恩義に対する、返済をしなければならないのです。
つまり、利己的な行為(カルマ)の蓄積と、利他的な行為(カルマ)の蓄積の、収支バランスをゼロにしなければならないのです。
その為には、進化の過程で我々の犠牲になった存在の数と同じだけ、またはそれ以上の、利他的行為を積み重ねなければならないのです。つまり、過去からの借りを返すためには、他者の悟りや幸福に貢献するなどの、利他行を積み重ねる必要があると言う事です。これこそが菩薩行であり、この修行を終えた者だけが、仏になることができるとされているのです。
なにせ、借りを返さなければならない存在の数は膨大なので、その為の利他行も膨大な時間をかけて成し遂げなければならないのです。だからこそ、菩薩行には膨大な時間が掛かると言われているし、釈尊と同じような瞑想をいくらし続けても、誰も仏には成れないわけなのです。既に何度も述べてきました様に、仏に成るためには完全なる中道の境地に定住する必要があります。そして、その後、如来として衆生を悟りの境地に導き続けるには、他者に対する限りない慈悲の心が必要です。それには、自己に対する執着心より、他者への利他心が、遥かに上回わらなければなりません。そうでなければ、他者に対する利他心より、利己心がうわまわってしまい、利他行を続けられなくなるからです。
阿羅漢に成る為の修行の様に、自己に対する執着心を取り除くことは、比較的容易ですが、無限の他者に対する限りない利他行を続けることは、比較にならない程困難です。それを可能にするには、菩薩として、利己心を遥かにうわまわる利他行の積み重ねが必要なのでした。だからこそ、阿羅漢に成れる人は沢山いるけれども、仏に成れた人は釈尊以外にはまだ居ないのです。それ程までに、菩薩行は困難で、時間を要するという事です。
以上、気の遠くなる様な話が続きましたが、これは、あくまで、仏教の理論上のお話であって、現実的には、いつの日か、本当に仏や如来になることが目標であるというよりも、そういう理想像を目指しながら、他者と共に、互いの気づきと悟りと幸せの為に助け合いながら生きて行く、という生き方こそが、人間としての最善の生き方なのだ、ということを大乗仏教は私達に伝えようとしているのかもしれません。
現実的には、菩薩行の過程で、他者への慈悲の心を育み、それを行動として現すことで、次第に自己と他者とを区別なく意識できるようになり、他者の喜びや苦しみを、自分のこととして感じられ、やがては自他の区別を超えた幸福感を得ることが出来るようになるとされています。
そして、最終目標である仏になるとは、自分という妄想から完全に解脱し、妄想の世界を完全に超越した境地に達することですが、それから再び、如来として妄想の世界に降り立ち、すべての衆生と一体となり、その中で無限で完全な慈悲を実現することこそが、最終ゴールなのかもしれません。
仏教は、究極的に、そのような完全な慈悲を実現するための道であると言えるのかもしれません。
では、そのような仏教の最終目標に少しでも近づくために、私たちが日常生活でできる現実的な生き方とはどのようなものなのでしょうか?