かわるがわるまたかわる
特別緑の多い環境で育ったわけではないが、子供の頃は実家の裏を流れる小さな川ではよく遊んだ。
裸足で茂みの中を歩き、カエルやザリガニを獲ったりしていた。
それが次第に靴を履かないと草むらに入るのが嫌になり、いつしか川にすら近寄ることがなくなった。
中学生になるとカエルを気持ち悪く思うようになった。触ることが出来なくなった。
幼少期から思春期にかけてのこうした心の変化はあまりにも著しい。
好きだったものがいつしか嫌いになる。
出来ていたことが出来なくなる。
年月を経ていく過程で人は変わっていく。
それから十数年が経ち、20代後半のころ、再びカエルを触れるようになった。
ある雨の日、カーテンを開けると家のベランダの手すりに一匹のアマガエルがちょこんと居座っていた。
カエルは雨が降りそそぐ田んぼを眺めている。
ザーザーと雨音をたてる田んぼからは他の多くのカエルの声が聞こえていた。
ベランダのカエルはまったく動かない。静かにカエルの合唱に浸っているようだった。まるで自分はカエルではないと思い込んでいるように思えた。
私はそんなカエルを見て、
「ちょっと手に乗せてみたいな」
と思った。
その想いの源泉は正直分からない。10代の頃は死ぬほど嫌っていたカエルである。が、この時、明らかに昔の気持ちとは違った。心の底から「手に乗せたい」という衝動に駆られたのだ。わけもわからぬ説明のつかないものだが、パワーだけがある衝動だった。
ベランダに出て、佇んでいるカエルの近くにそっと手を伸ばしてみる。するとカエルはいとも簡単に手の平のうえに乗ってくれた。歩く感触がペタペタとして懐かしい気持ちになった。トクトクと小さな体をとおして伝わる心臓の鼓動にたまらない尊さを感じた。
なぜカエルを触ることができなくなったのか。なぜ再びカエルに触ることができたのか。その本質的な答えを私は知らない。そうしたくなくなったから。そうしたくなったから。そうとしか言えない。が、流れゆく歳月が人の心に変化を与えていることは確かだと思う。
20歳を過ぎたらもう人は変わらない、という話を聞いたことがある。
変わらないことを良い意味でとらえればそれはそれでいいのかもしれない。
が、人は生きて、その過程で様々な経験をする。
大切な人と出会ったり別れたり、得たり失ったり、喜んだり悲しんだり、経験する。人はだれしもそんな波の中を泳いで生きている。
そしてその過程で生まれる様々な想い。
新たな想いは想いの上に重なっていく。
強いコントラス性を伴ったものかもしれない。静かにゆっくりと沈殿してゆくものかもしれない。
それを意識できるものかもしれないし、できないものかもしれない。
ただひとつ、生まれたそれをなかったことにすることはできない。
私は十数年という時間を経てカエルを再び触れるようになった。子供の頃に戻っただけともいえるが、それでも今は一匹のカエルに対する見方が昔とはまるで違う。生物の、生きるものの深いところを見つめていきたいと思うようになっていた。
これはひとりの人間の小さくも確かな変化の一つの例である。だれしも、思い返せば昔と比べれば変わったなということがあるはずである。
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